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June 11, 2015

『だれも知らない建築のはなし』石山友美
長島明夫

[ cinema ]
建築家および建築関係者へのインタヴュー映像を主につなぎ合わせて作られた73分間のドキュメンタリー。ところどころで実際の建築の映像が短く挿入される。話者は安藤忠雄、磯崎新、伊東豊雄、レム・コールハース、ピーター・アイゼンマン、チャールズ・ジェンクスら合計10名。インタヴュアーが中谷礼仁、太田佳代子、石山友美。もともとはヴェネチア・ビエンナーレの展覧会場で流しておくために作られた本作の制作の経緯は、石山監督へのインタヴュー「群像劇から見える歴史の一面」(『GA JAPAN』134号、2015年5月刊)によって詳しく語られている。
実際観てみると、タイトルが窺わせるような「秘密の裏話」といった印象は薄く、むしろ1970年代以降の日本の建築界の歴史を正面切って描こうとしているように思える。磯崎新を軸にして、1982年のP3会議(「伝説的な国際会議」とされる)やその後のくまもとアートポリス、ネクサスワールド、そしてバブル崩壊から東日本大震災と、それぞれの時代の「事件」を辿るかたちで1本のラインが引かれている。これはおそらく「建築界の最重要人物たち」(宣伝チラシより)に話を聞いて回るという企画の段階で、ある程度想定されていたラインだろう。制作サイドの歴史観の反映と言ってもよい。
チラシにはこうも書いてあった。「専門的な知識がなくても、建築家同士の掛け合いがスリリングに伝わってくる/まるで群像劇のようなドキュメンタリーを完成させた新鋭・石山友美」。確かにそうも言えるかもしれない。実際には各インタヴューは個別に行われているので「掛け合い」はないのだが、事後的な映像編集の妙によって、場面場面において現に議論や対話がなされているような雰囲気を帯びている。しかしどうだろう。私見ではドキュメンタリーおよび群像劇に共通の魅力とは、自分もまたその作品のなかの人々と同じ世界(の違った諸相)を生きているということのリアリティにかかっているように思う。ところがこの映画は必ずしもそれを感じさせない。ふたつの理由が思いつく。
ひとつは、限られた素材(インタヴュー映像)をもとにしながら、「専門的な知識がなくても、建築家同士の掛け合いがスリリングに伝わってくる」ように全体が構成されていること。その編集の手つきは決して下手ではないと思うのだが、むしろそうしたそれぞれの語りの断片化と「不要な部分」の除去、そして隙のない再構成によって、作品の全体が緊密な閉鎖系の構造を持っているのではないか。映画は映画として自律し、そのことで外の世界に開かれていない。「建築界の最重要人物たち」による「専門的な知識がなくてもスリリングに伝わってくる掛け合い」を志向するという一種のポピュリズムが、別の面ではむしろ作品世界を人々の日常から隔てているように思える。
ところで『だれも知らない建築のはなし』の原題は『Inside Architecture -A Challenge to Japanese society』である。それを考えれば、映画の構造が閉鎖系であるのも作品のテーマ(社会から乖離した建築界)に関連したことなのかもしれない。けれどもここで無視できないのが、この映画の作品世界にリアリティを感じられないもうひとつの理由なのだが、ここで描かれているのが「Inside Architecture」だとしても、ここで描かれていることだけが「Inside Architecture」ではないということだ。大学で建築を学び、建築系のメディアに十数年関わってきた私は、他の多くの日本の建築関係者と同様、そのことを知っている。これ(だけ)が日本の建築界ではない。もちろん1本の劇場公開用のドキュメンタリーで「Inside Architecture」の全体を描けるとは思わない。だからそのことは問題ではない。問題は、にもかかわらずこの映画は「Inside Architecture」の全体を捉えているかのように見せていることなのだと思う。
例えばジェンクスのポスト・モダニズムをめぐる建築論をアイゼンマンが名指しで批判する場面がある。実際には時間も空間も離れた両者の発言は、映画の編集行為によってまさに「スリリングな掛け合い」となる。こうした編集方法には「大建築家たちや神話的エピソードを崇めることは一切せず」という監督の「切れ味鋭い批評眼」(宣伝チラシより)が見て取れるかもしれない。しかしこの両者の対立は、演出された偽の対立とも言えるのではないだろうか。なぜなら、ジェンクスおよびアイゼンマン両者の言説がすでに相対化された過去のものであることを私たちは知っている。しかし両者をともに批判しうるそのような視点の存在は、両者同士の対立が「スリリングな掛け合い」として見せられることによって、意識の外に追いやられてしまう。あたかもこの二人のやり取りが「Inside Architecture」のリアルであるように感じさせる。
だからこの映画は、「建築界の最重要人物たち」を相対化してフラットに扱っているように見せつつも、やはり彼らが「建築界の最重要人物たち」であること自体は無条件に前提にしているという意味で、彼らに対して真にcritical(批評的/危機的)なものではないのだと思う。例えばコールハースは、P3会議に出席していた他の建築家たちに対しても、日本の建築家たちに対しても、シニカルな批判的見解を示していた。おそらくコールハースにとっても、このジェンクスとアイゼンマンの対立は茶番に見えるだろう。ならばそのコールハース的な思考をさらに掘り下げてみることは考えられなかっただろうか。より主体的に真理を求めて突き詰めた取材をすれば、おそらく映画の構成は今とは違ったものになっていたはずだ。裏を返せば今の群像劇的な周到な構成は、映画を映画として成立させるための予定調和に思えてしまう。そのことで外の世界とは隔絶される。
ところで「ジェンクスおよびアイゼンマン両者の言説がすでに相対化された過去のものである」というのは言い過ぎたかもしれない。実のところそれほど詳しくは知らない。おそらくだが、それぞれの言説にも、今でも興味を惹かれる面はあるのだろうと思う。しかし登場人物同士の掛け合いが重要視され、特定の事件に次々とスポットを当てていくことで歴史を描こうとするこの作品では、そうした個人個人の思考の全一性は失われ、それらはあくまで部分ないし要素として、映画作品の全体に従属することになる(おそらくそのとき、それぞれの個が全体に従属したように感じさせないのが、よい群像劇の条件なのだろう)。
『だれも知らない建築のはなし』では、限られた登場人物による限られた出来事についての限られた語りを、ただ単に過去の興味深いエピソードとして提示することに飽き足りず、さらにそこに歴史としての権威をまとわせようとしているように見える。登場人物たちの語りには2種類ある。個人の経験やそれに基づく実感に根ざした語りと、そことはいったん乖離した、より超越的・観念的に時代や歴史を論じる語りだ。本作ではその2種類の語りが巧妙に組み合わされ、あたかも個々人の経験と時代の全体とが連続して一体となったものであるかのようなイメージを観る者に与える。個と全体のあいだが虚構として起ち上がる。とはいえ虚構だから駄目だというわけではない。あらゆる歴史は虚構的なものだろう。問題はその虚構がどのような主体に根ざしているかにある。
何人かの登場人物たちが語る時代や歴史は、たとえその背景にそれぞれの話者なりの思想があるとしても、この映画の中では個人の有機的な全体から切り離され、それぞれが部分として別の構造に位置づけられ、意味づけられる。一方で、それらの断片を最終的な作品として統合すべき監督も、すでに目の前にある素材をいかに映画として成り立たせるかに意識が向いていて、その素材以外も含む建築の歴史の大きな流れを引き受けた上で創作をしているというふうには見えない。だからこの映画が示す歴史には、責任者不在のまま、自動的に起ち上がってきたものであるかのような印象を受ける。そして私は、そこで起ち上がってくる分かりやすくスリリングな歴史よりも、そこからこぼれ落ちるもののほうがどうしても気にかかる。そもそも建築の本質とは、とりたてて事件が起きるわけでもない日常にこそ見いだせるのではないかと思うのである。

[追記]たった一度観ただけの映画について一息に書いてしまったこの文は、3月に刊行した個人雑誌『建築と日常』No.3-4(特集:現在する歴史)の問題意識を背負っている。特集号で引用した文をふたつ、ここでも引いておきたい。

●「一発の銃声で歴史が変った」とか、「一枚のドローイングで近代建築の歴史が開いた」といったよく耳にする言い方は、こうした浅薄な理解の代表だ。私達は、歴史や評論の中で、何度こうした言い方を聞かされてきたことだろう。それは全く間違った言い方だ。たとえ一発の銃声で革命の戦いの火ぶたが切られたとしても、その前に長い長い準備の時があり、革命戦の後には又長く苦しい反動の時が続くのだ。その全体を、すなわち社会と歴史の全体を、数式のように、明快に説明することはあり得ない。近代のいくつかのそうした空しい試みを知った私達は、それは全くの間違いだと、今や断言していいだろう。
その理由は、経験と感覚というひとつのゆるぎない地盤に立ってみれば、明確である。歴史とは、私達のいのちがそうである如く連続的なものであり、そしていのちがそうである如く、常に複雑と対立に満ちているものだからだ。それがあるからこそ、歴史は、そして私達のいのちは、混沌と渦巻きつつ、流れ動き続いていくのだ。(香山壽夫『プロフェッショナルとは何か──若き建築家のために』王国社、2014、p.217)

●このあいだある歴史の学会がありました。出てこい、と言うから出ていってみたのです。ところが事件の話ばかりをするわけです。歴史というのは事件の連鎖だと歴史学者は思っています。ですから、私はだんだん腹が立ってきました。あなた方の話を聞いているとイライラすると、どうしてそういう話ばかりするのだと、もっと大事なことがあるのではないかと。(多木浩二『映像の歴史哲学』今福龍太編、みすず書房、2013、p.88)


渋谷シアター・イメージフォーラムにて上映中


『建築と日常』No.3-4(特集:現在する歴史)