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July 17, 2015

『海街diary』是枝裕和
若林良

[ cinema ]

『そして父になる』に続いてカンヌ映画祭コンペティション部門に出品された、是枝裕和監督の新作である。日本の美を色濃く残すような"古都"鎌倉で、四姉妹が織りなす一年間の日々をじっくりと描いている。鎌倉を舞台にした映画と言えば、小津安二郎の『晩春』『麦秋』など「家族の静かな別れ」を描いた作品が有名であるが、本作で描かれるのはそうした作品群とは対照的な、「家族の再生/誕生」である。それは『誰も知らない』『歩いても 歩いても』など是枝が一貫して追い続けてきたテーマであるが、本作では両親に捨てられた三姉妹のもとに、実父の死をきっかけに腹違いの妹が入りこむところから物語が始まる。四人はそれぞれ屈折した想いを抱えているが、やがていくつかの出来事をへて彼女たちが「本当の家族」となるまでの一年間が、鎌倉の四季や風物を交えて情感豊かに描かれることとなる。綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆、広瀬すずという豪華なキャスティングは、なにげない動作や会話一つひとつをとっても画面を活気づけさせており、さながら現代版『細雪』のような華やぎが、私たち観客には自然と伝わってくる。撮影や美術の絶妙さもあって、本作はこれまでの是枝作品の中でも、もっとも「絵画的な」美しさ――たとえば四姉妹が花火に興じるシーンやラストの海における対話のシーンなどの、美女たちと風景の絶妙な調和――のそなわった作品と言えるだろう。
しかしながら、その「絵画的な」美しさ、また鎌倉という舞台の静謐さが、本作の映画的強度を弱める方向に作用していることも確かである。ドキュメンタリー出身のゆえか、是枝作品には激しい心理的葛藤や、決定的な対立を拒む視点が常に存在している。それは『誰も知らない』のような、フィクションとドキュメンタリーの手法を融合させた作品においては功を奏していると言えるが、第一級の俳優たちを擁した本作においてのそれは、表面的な意味での「わかりやすさ」と密接に結びついてしまっているのだ。この四姉妹のなかでも複雑な内面を持っていると推測できるのは、長女の幸と、新たに「家族」の仲間入りをした四女のすずであるが、このふたりは恐らくは、心理の深い部分で共鳴し合う関係にある。幸は父親が愛人を作って出奔した後、母親にも捨てられたことから幼い妹たちに対して「小さな母親」のように振る舞わざるをえなかったし、それは自身の「少女時代」を封印することにもつながっていた。またすずの場合は母親の死後、だらしのない義母に変わって父を看取らざるを得ず、幸と同様、「少女」としての自分の意志を抑え込まざるを得なかったのだ。しかしながら、こうした鬱屈の劇中における発露は、端的に言えばもっとも平明な形でしか、言いかえれば無個性な形でしか描かれることはない。たとえば、中盤ですずが「お父さんのバカ」と寝言をつぶやくシーンや、幸が祖母の法事に現れた母と言い争うシーンなどは、正直なところ予定調和以上のものではなく、鬱屈におけるそれぞれの「個」は、深みをともなった形で私たちに見えてはこない(そもそも、寝言で「お父さんのバカ」などとはあまりにも紋切型すぎる)。これはおもに脚本上の問題となるが、本作においての台詞は、あまりにも説明過剰にすぎる。つまりは、映画中における姉妹たちの感情の揺れ動きは、ほとんどが台詞によってあっさりと明らかにされてしまうのだ。
それはたとえば、幸と母親との口論のあと、すずが自身の母親の行動を詫びるシーンや、三女の千佳が父親を知らない寂しさをすずに打ち明けるシーンなどだが、そうしたシークエンスは、本作においてはまさに枚挙にいとまがない。この映画におけるもっとも大きな葛藤であると思われる、幸の抱えるジレンマ――妻のある男性と不倫関係を持つことにより、かつて父親を"奪われた"自分が、いま"奪う"側の存在になりつつあることへのジレンマ――でさえも、次女・佳乃との対話によって簡単に解き明かされてしまう。本作においては、佳乃の勤務先の上司や恋人の学生、千佳の務めるスポーツ店の店長、すずのクラスメート兼サッカーのチームメイトの少年といったさまざまな男性が登場するが、いずれも描かれる四姉妹との関係性はフラットなもので、彼らとの関わりのなかで、四姉妹の隠れた心理(言いかえれば、四姉妹の閉ざされた生活のみでは見えてこない別のパーソナリティー)もついに露わになることはない。是枝に『秋のソナタ』のようなベルイマン的資質を求めるのはお門違いなのかもしれないが、この映画における四姉妹は、鎌倉という背景によく調和した、「絵ハガキとしての華やかさ」しか感じられず、生活感に根差したリアリティは、ほとんど浮かび上がってこないのである。ここには、脚本上の問題ももちろんだが、より根本的な物語や人物設定の弱さを、「美女や風景を美しく撮ること」で完全にカバーできるというような、演出や撮影に対する過信が現れているように思えてならない。
また、映画における「家族」という問題についても指摘できる。前書きの繰り返しとなるが、是枝作品ではこれまで、「家族」というテーマが繰り返し奏でられてきた。それは両親が不在の子どもたちだけの生活(『誰も知らない』)であったり、心を宿したダッチワイフと人間との交流(『空気人形』)であったり、福岡と鹿児島で離れて暮らす兄弟の姿(『奇跡』)であったりである。一見すると多様性に満ちあふれたものに見えるが、しかしながら、そこにはある大きな問いが欠落している。それは「家族とはそもそも何であるのか」という問いである。言いかえれば是枝にとって「家族」とは存在して当然のものであり、そこから逆算した形でしか、つまり「家族/共同体」における役割を割り振った形でしか、人物のパーソナリティーは生まれてこないのだ。ここには男性的な視点による「家族の復権」から一歩も外を出ないという視野の狭窄ももちろんだが、家族以外にもさまざまな関係性によって異なった顔を見せる、「人間」そのものへの軽視が見え隠れしていることもまた否定できないだろう。しからば、一見自明なもののように見える「家族」というものの存在を、まずは疑ってかかってみること。この作業を通してしか、是枝映画の"新たな地平"は開かれないのではないだろうか。