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October 16, 2015

『パウリーナ』サンティアゴ・ミトレ
常川拓也

[ cinema ]

2015年カンヌ国際映画祭批評家週間でグランプリに輝いた『パウリーナ(原題:La Patota)』は、判事の父を持つ弁護士のパウリーナ(ドロレス・フォンシ)が、そのキャリアを捨て、社会奉仕を志してアルゼンチンの都会から生まれ故郷の田舎町へ帰るところからはじまる。誰かの人生のためになるべく、そこで暮らす貧しい若者たちへ現代の民主的な権利などを教える教師となった彼女だったが、しかし、同僚女性の家でワインを飲んだ帰り道で、自らが教える男子生徒をも含む不良集団「パトータ」から突然レイプ被害に遭ってしまう──そのようにして知識人が田舎の村にやってくる本作の出だしは、まるで『発情アニマル』など「レイプ・リベンジ・ムービー」とよく似ている。が、本作の主眼は別の、性的暴行を経験した者のより複雑な心理を考察していくところにある(パウリーナが性的暴行に遭う場面は少し画面が暗く設計され、その裸体を見世物的に晒し出そうとはしておらず、決して「セクスプロイテーション」として描こうとはしていない)。
まず特徴的なのは、手持ちカメラでパウリーナを追いつつ、同じいくつかの場面を視点を切り替えて加害者の側から、あるいは父親の側からも描くことである。製材所で働く、彼女に振られたばかりの実行犯シロ......教室の外から彼女を獲物として見定めるかのような男子生徒......または、犯人を逮捕すべく動き回る父親......被害者の視点からのみ加害者をただ一方的な憎悪すべき悪として描いていくのではなければ、しかし彼らに共感するでも理解するでもなく──加害者が犯行に至る動機や言い訳を描こうとしているわけではない──、ただ視点を加えていく。つまり、世界を単純化しようとはしないのである。
サンティアゴ・ミトレは、私たちが実際に生きているように簡単に割り切れるものではない多様な世界を描いていくわけだが、ミトレはパウリーナが回顧して事の顛末を語っている形式を取ることで、様々な視点からの出来事を整理しながら手際よく観客に提示していく。
パウリーナは事件の詳細を聞いてくる──セカンド・レイプ的な警官による調査にも全く辛い様子も見せずに答えていき、彼女は犯人たちが誰かを突き止めてもなお、通報することもしなければ訴えることもしない。それどころか、「警察は、容疑者が貧困者なら有罪にするだけ」と考えるパウリーナは真相を知るべくシロに会うため製材所へ行き、彼の仕事後に自らが犯された現場で会って話しをする約束まで取り付けてみせる。彼女は被害によって植えつけられた恐怖に怯え続けて日々を過ごすのではなく、対峙する道を選んでいく。そして判事として長いキャリアを持つ父がその権力を利用して捕まえた犯人たちを目の前にしても、そこに暴力による自白があったと知る彼女は、彼らが犯人であると知っているにも関わらず、なんとそれを否定し、さらにはレイプによる妊娠が発覚しても中絶することを頑なに選ばない。そんな彼女は、次第に手を差し伸べる父親や同僚女性からも全く理解を得られない存在と見なされさえしてしまう。
しかし、彼女なりに納得のできるやり方で心に負った傷と向き合うパウリーナは気難しくも見えるが、人の善意を反故にしようとしているわけでも絶望して自暴自棄になっているわけでもでなく、彼女はむしろ聡明で進歩的、かつ揺るぎない強い信念を持って前を向いているのである。力によって説き伏せることを忌み嫌う彼女は、全く偏狭でネガティブではない意味において(パンクな)フェミニストだと言ってもいいかもしれない。強姦魔たちは厳しい処罰を受けるべきで、望まない妊娠による出産は避けるべきである、とする父や同僚女性の考えは圧倒的に間違っていない「正論」である。ほとんどの観客は彼らの側に寄って立つだろうし、彼らと同じように周囲と衝突し逆行する主人公パウリーナの行動に疑問を抱いてしまうだろう。観客は主人公の痛みに寄り添いながらも、彼女の感情を理解できない狭間で揺さぶられる。怒りに駆られた復讐や彼女を癒していく救済など紋切り型の答えを慎重に避けていく『パウリーナ』が暴き出すのは、被害者は被害者らしく振舞わなければいけない、という私たち観客の多くの中にあるステレオタイプな態度や考え方なのだ。
パウリーナはどんな最悪に見える状況になろうとも、「暴力に満ちた世界の産物」=「犠牲者」になることを拒否する。彼女のイデオロギーをめぐる戦いとは、暴力被害による悲観的連鎖への反抗であり、自由意志を選択する冒険なのだ。だからこそ、周囲から理解されず非難されようとも、決して正しい行動ではなくとも、自分が自分であることを肯定できるよう、彼女は覚悟を持って勇敢に信念を貫くのである。パウリーナの懸命に強くあろうとするまなざしと決意、そして未だに現代でも終わることのない悲劇を運命として受け入れるのではなく、自らの足で歩み出して人生を切り開いてこうとするその生き方の気高さには、少なくとも政策や法律ではなくアイデンティティーによって現状を打破しようとする変革へのダイナミズムがあるように思えてならない。

第12回ラテンビート映画祭にて上映