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July 1, 2016

『ディストラクション・ベイビーズ』真利子哲也
結城秀勇

[ cinema ]

真利子哲也の作品では必ず、位相の違うふたつの世界が重なり合っている。『イエローキッド』のボクサーの日々とアメコミ、『NINIFUNI』の強盗犯の逃亡とアイドルの撮影、『あすなろ参上!』のアイドルの人間としての葛藤とゆるキャラが共存する街。それらふたつは平面的な距離において遠ざけられているのではなく、互いに重なりあって二重写しになっている。だからふたつの道筋が並行モンタージュ風につながれるとしても、それは文字通りに並行しているわけでもないし、一点に収束するわけでもないし、因果関係もないようであるような、そんなものである。
ただ絶対に誤解してはならないのは、そのふたつのどちらかが現実でもう一方が虚構なのではないことである。真利子作品においては、フィクションレベルの異なるふたつの世界の重ね合わせそのものが現実なのだ、と言ってもいい。VRだなんだという引き合いを出すまでもなく、すでにこの現実は、味もそっけもない事実と、絶え間なく増殖する虚構との、常なる二重写しである。
というわけで、『ディストラクション・ベイビーズ』における泰良(柳楽優弥)の人間離れした造形、動機の欠如、蓄積しないダメージ、喧嘩以外のことへの無関心、貼りついた笑み、などといったことは、その他の登場人物の"現実的な"振る舞いと真逆の虚構的な要素なのではない。彼と周囲の人物たちとの対比によって、二重写しになった世界が描かれているのではない。ただひとえに、周囲への徹底的な無関心のもとに、泰良という人物の肉体の動きのうちで世界は二重写しになるのである。
高校生に囲まれ地面にうずくまってボコボコに蹴られ、彼らのうちのひとりの脚にしがみつく緩慢な動き。パーキングからビルの隙間に引きずりこまれボコボコにされた後、仰向けの状態から体を反転させ立ち上がろうとする、あの粘っこいヌルっとした動き。かと思えば、繁華街の路地裏で繰り広げられるヤクザとの闘いの、ステップインからの鮮やかなクロスカウンター。背後から一気に振りかぶり飛びかかる急襲。緩急の予測がつかないリズムと常に顔に貼りついた愛嬌のある笑みは、まるで人間サイズのゴジラのような魅力に溢れている。
したがって私はこの作品が暴力についての映画だとはまったく思わない。より正確に言えば泰良によって暴力という観念が具現化されているとは微塵も思わない。ここに暴力なるものがあるとすれば、泰良を眺め、近づき、遠ざかり、飼い慣らそうとし、彼のイメージを増殖させ拡散させようとする者の側にあるのであって、彼にではない。彼はただ彼らの恐怖や憧れや嫉妬や蔑みや憎しみを、一切の無関心のもとに、彼の身体の、あの夏を目前にした潮風のような微温くねっとり粘りつくような動きの中に重ね合わせる。
たとえこの物語の最後に喧嘩御輿の映像が付け加えられ、彼にとって唯一の身寄りである弟がそれを見ている姿が映し出されているとしても、泰良を自走式の機械のように駆動させるなにかを、環境や遺伝や風土や慣習のもとに還元できようとはとても思えない。彼はもはや、群れ繁殖し、権力関係を構成し、情報を流布して自らを再生産する人間たちとは別の、彼一体に固有の種である。増えず、情報を遺伝させず、死なず、ただひたすら自己を再生させ続ける一個の細胞。それってもしかしてとてつもなく反暴力的なことじゃないのか?と、あのゲジゲジ眉毛とパッチリお目々とニヤけた口元が形成する表情を見つめているとつい思ってしまう。

テアトル新宿ほかにて上映中

nobody issue 45にて監督インタビュー掲載