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May 19, 2018

2018 カンヌ国際映画祭日記(5)
マチュー・マシュレによる濱口竜介『寝ても覚めても』評
槻舘南菜子

[ cinema ]

 現在のフランスで最も信頼のおける批評家のひとりマチュー・マシュレ氏による濱口竜介監督『寝ても覚めても』の批評が、どの仏メディアよりも早く、日刊紙「ル・モンド」の5月15日号に掲載された。フランスでは5月の初旬に公開されたばかりの『ハッピーアワー』についても彼はとても素晴らしい批評を書いたばかりだが、ここではマシュレ氏の厚意により氏の『寝ても覚めても』についての批評を翻訳掲載する。


恋愛の反復--濱口竜介は人間の魂の探求を続ける
マチュー・マシュレ

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 映画作家を発見することはつねに感動的な経験で、その作家の世界を見出すことと少しずつその人と親しくなっていくことの喜びが二重になる。それが今まさに濱口竜介監督とともに起きていることだ。彼は10年以上も精力的に活動し続けている日本人映画監督だが、フランスにおいてはこの5月にようやく彼への二重に敬意を表する運びとなった。まず何よりも、40代にさしかかった女性たちの友人たちの素晴らしい肖像を映し出す、『ハッピーアワー(仏題:Senses)』という長尺の作品の幸福な劇場公開とともに。そしてそれに続く新作『寝ても覚めても』がカンヌのコンペティション部門に驚きの選出を果たし、同時期にお披露目されることとなった。この『ハッピーアワー』と『寝ても覚めても』の2作は驚くべきほどに近接し、親密かつ実存的で、とりわけ人間関係の極めて繊細な結びつきを描く作風である。
『寝ても覚めても』は『ハッピーアワー』に比べるとスタンダードな上映時間の長編であり、より中間的な色合いの映画である。作品を見てただちに衝撃を与えられるような作品ではないにしろ、やはり繊細かつロマネスクで、登場人物たちの変容というものに注視した作品であることは間違いない。濱口は、人生の始まりに立ち向かう20歳の若者に関心を寄せるために、壮年期の苦悩というものに関心を払わない。朝子は大阪で暮らす慎み深く賢い学生であり、彼女は美しく神秘的な若い男である「麦」に展覧会の出口ですれ違う。洗練されたスローモーションとともに、二人の視線は道端で初めて交錯し、彼らは恋に落ちる。美しき「麦」が朝子を見捨てて消えてしまうまでを描いた繊細で詩的なワンシーンは、思春期の儚い次の恋への仮の道筋へと映画を向かわせる。
 それから二年後、東京のカフェテリアで働く朝子がいる。彼女はそこで「麦」と完全に瓜二つである「亮平」という男に出会うのだが、彼の性格はかなり真面目だ。朝子は亮平ともう一度望むように生き、時の経過とともにその関係性において、「麦」との恋におけるほどの唐突さはないものの、そのときよりも深い別の形の愛を見出す。しかし大阪の旧友との再会が、朝子に「麦」との記憶を蘇らせる。「麦」は有名なモデルへと転身していたのだ。「麦」の再びの出現が、朝子に胸を抉るような不安を蘇らせる。


越えられない痕跡
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『寝ても覚めても』は、時間の持続における不均衡こそあれ、何よりもまずそのデクパージュの見事さによって我々を魅惑する。青春時代の持つ強度というものが、経済的な安定と生産的な生活の穏かな流れの中で息切れしつつ、人生の様々な年齢における恋愛の身振りとそのアプローチの巨大なコレクションがここには構築されている。麦から亮平へと引き継がれる朝子の恋人関係において身振りは、東京でも大阪でも朝子を支える友人たちのカップルにおいても同様に変化の幅がある。このフィルムの省略的な展開は、広大な時間のパースペクティブの中に登場人物たちを投げ出す。そのパースペクティヴは、この映画におけるゆっくりとした変化と感情の積み重なりを測るための手助けとなるだろう。
 しかしそのような明瞭な単純さの内側で、その深層においてより強い曲折とコントラストをもたらすような変奏と反響のシステムがこのフィルムの原動力になっている。朝子の愛する二人の男の身体的相似はそれに反して、英語タイトルAsako I&Ⅱが示すように、彼女自身をふたつに分裂させてしまう。見せかけの一貫性にも関わらず、まるで、恋愛の体験の繰り返しが彼女の正気を失わせたかのように。外面的には平凡だが、内面的には奇抜な物語を介して、濱口は最初の印象を永遠に反復するかのような恋愛の動きを描いているのだ。
 それはきわめてプルースト的な構想だ。最初の恋は我々に消えない痕跡を残し、そのあとで我々はもはや駆け出さずにはいられない。朝子は本質的な発見をする。人は誰かをその人自身として愛すのではなく、その存在を介した最初の動揺をこそ生き続けるのだということを。朝子がいかなる道筋を要せず、自分の胸の鼓動というメトロノームだけを頼りに身を進ませる恋の歩みにおいて、「亮平の中の麦」と「麦の中の亮平」とは、「ひとつの恋」における「二つの時間」以外の何物でもない。


*翻訳協力:Clément Rauger, Hugo Paradis, Victor Bournerias