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August 30, 2018

『あみこ』山中瑶子
結城秀勇

[ cinema ]

 昨年のPFFの一次審査でこの作品を初めて見たときの感想をものすごくありていに言うなら、こんだけおもしろい映画なら、どうせもうどっかの映画祭で賞とってるとか、どっかのコミュニティ界隈ですげえ評判になってたりすんだろうな、だった。でも「あみこ 山中瑶子」でググってみて、わずかに出演者のツイッターとかが引っかかるくらいで、監督自身のSNSすら見つからなかったときにはマジか、と思った。こんなすげえおもしろい映画を誰よりも早く発見するとかありえるんだ!と驚いた。劇中、あみこは、「わたし長野市で自分が一番かわいそうな子だと思ってた。県ならベスト8で、北信越大会進出くらいかなって。でもアオミくんは長野県でぶっちぎりの一位だよ」というキレキレのセリフを吐くが、この映画の存在自体が、まるで公式戦記録のない日本代表クラスの逸材でも発見したかのようだった。味わったことのない喜びだった。
 それから一年。PFFでの観客賞、下北沢映画祭でのグランプリ、そしてベルリン、香港、ポツダム、全州、マドリード、モントリオール、NY、エクアドルと世界を回った『あみこ』はもう無名の逸材ではないけれど、この映画が真に発見されるのはこれからだと思う。今回改めて見直してみて、また『あみこ』を発見した。初見のときの喜びは、別に先に誰かが褒めてるとか、どっかでもう話題になってるとかとは関係ないんだとわかった。大学を休学して、地元の長野と大学の近くの池袋周辺で、SNSで見つけた主演ふたりと(カメラマンもSNSで見つけたっていうんだからすごい) 「無理にでも他人を巻き込んで、自分一人では作れない劇映画をすぐにでも作らないといけないと思い立ち」つくられたという『あみこ』は、これだけ誰でも映画がつくれる時代にあって(というかだからこそ)形式も内容も真に「インディペンデント」と呼ぶに相応しい稀有な映画だ。だからこそ、見る者の孤独に突き刺さってくる。この映画がもし10年後に日本インディペンデント映画のカルトととして世に広く知れ渡るようになっていたとしても驚かないし、たとえそうなったとしても、そのときもこの映画を初めて見るあみこと同じ年頃の若者は「この映画は私が発見するためにあった!」と確信するに違いない。
 あみこのスパゲッティのずるずるした食い方が『アデル、ブルーは熱い色』のアデル・エグザルホプロスのきったねえスパゲッティの食い方を彷彿とさせるとか、『ゴーストワールド』のソーラ・バーチとスカーレット・ヨハンソンを思い出させるあみことカナコの関係(500円玉貯金をカナコに両替してもらったときの、500円玉2枚わたして「これでジュースでも買いなさい」とか最高)だとか、あるいは物語最終盤のあみこの左手が某俳優が生涯に一本だけ監督した映画史上に残るカルト映画をいやがおうにも思い出させるとか、いろいろ言えることはある。だがそうした「映画史的記憶」はむしろ『あみこ』のむきだしの新しさによって事後的に生じているに過ぎないのだと思う。たたみかけるリズムで斬新なフレーズを刻みつけるダイアローグ、その風変わりささえ即座に距離化するように被さるナレーション、そして言葉が途切れた無音の時間さえビート感のある沈黙が満たしていく。あみこのアオミくんへの行動は、この息苦しい社会で自分に似た匂いを感じた相手への執着というよりも、まるでハードボイルドの私立探偵が悪の手に落ちたヒロインを救出しようとしているかのように見える。実際、あみこは「最強になれそうな顔してる」。
 『あみこ』はいま、赤いジャンスポのリュックに、カナコに両替してもらった二万円と、覚悟と、とびきりの純真を詰め込んで旅立とうとしている。絶対それに立ち会った方がいい。

9/1〜7 連日21:00〜 ポレポレ東中野にて1週間限定レイトショー