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November 22, 2018

『幻土』ヨー・シュウホァ
隈元博樹

[ cinema ]

 半世紀前から今も続く土地の造成によって、その国土を拡げてきたシンガポール。目の前の埋め立て現場を眺めながら、「きっと30年後もこの光景は変わらないだろう」と刑事のロク(ピーター・ユウ)が相棒の刑事へささやくように、この東南アジアの島国は再開発を背景とした都市の変容が宿命とされ、彼らの営みは、絶えず定まることのない地盤とともにある。加えて造成に必要な土砂たちは、マレーシアをはじめ、カンボジアやベトナム、韓国といった近隣諸国から取り寄せられたものである以上、シンガポールという不確かで曖昧な場所とは、仕事を求めて集う多くの移民労働者たちそのもののようにさえ見えてくるだろう。
 『幻土』で描かれる物語は、けっして容易に理解できるものではない。埋め立て現場に起こった失踪事件は、彼の行方を追うロクと追われるワン(リュウ・シャオイー)との回想場面を中心に据えることで、事の真相を暴くためのフィルム・ノワールな趣向を画面に漂わせている。そのいっぽう、「私は予知夢を見ることができる」というロクのモノローグのあと、堆積した土砂の上から埋め立て現場を臨む彼の姿と、その背後でワンが右腕を負傷する回想場面へと接続されるロングショットは、現在と過去を地続きにつなげる役割だけでなく、これから起こる物語の一部始終が継ぎ目のないシームレスな世界のもとにあることを予見している。こうしてつながれたワンの過去の顛末は、ネットカフェで気ままに働く女性店員(ルナ・クォク)とのロマンス、埋め立て現場で働く親友アシッド(イシュティアク・ジコ)の失踪、埋め立て現場の社長に従順な甥ジェイソン(ジャック・タン)の不可解な行動などを通して詳らかにされていく。
 だが、後半にかけてネットカフェへ入り浸るワンによって「夢の中に二人の刑事が出てきたんだ」という一言が匿名のチャット相手へ放たれたとき、彼の過去の中に「予知夢を見ることのできる」ロクと、その相棒の姿がネットカフェの階段上に捉えられる。つまりここで、「ワンはロクの夢の中の人物なのか、それともロクはワンの夢の中の人物なのか」という至極単純な問いを突き付けられ、追う者と追われる者の混沌とした状況に対し、それを見守る私たちさえも、ロクやワンと同じ不眠症患者のようにしてその混乱の渦中へと引きずり込まれてしまうのだ。
 ただそれでも、この誘いを興味深く思うのが、元々何もなかったはずの不確かな場所であるにもかかわらず、『幻土』という映画には確かな想像力があるということだ。マレーシアからの分離独立以降、「夢の国」と謳われたこの国は、ないはずの場所にあるものを希求し、あるはずの現実にないものを想像することが許された場所でもある。だからこそ国土の拡張によって多くの労働と社会的状況が生まれ、そこに夢現の世界が複雑に絡み合った「幻土」が存在しているのではないだろうか。マゼンタを帯びたネットカフェのビジュアルしかり、不特定多数の人物たちが埋没するシューティングゲームしかり、そしてどこからともなく聴こえてくるミックスバラードしかり、たとえ現実にはありえない(あるいは現実ではない)世界だとしても、そこで想定されうる限りの事態や物語を誘発させるべく、彼らはつねに何かを想像するのだ。
 つまり『幻土』に蔓延る夢現な世界を知るためには、シンガポールという固有の土地が夢幻郷であることを前提として、目の前に起こる事象が現実でもあり、また夢でもあることを容認することから始めなければならない。現実か夢かの二者択一を迫るのでなく、どちらも現実であり、また夢であるということ。つまりそれは、この「幻土」という地に足を踏み入れた彼らこそが、夢そのものでもあるということだ。最後の場面、ネットカフェの女性店員とロクが向かった先に待ち受ける光景とは、彼こそが幻土(=シンガポール)であることを受け入れたからこそ見えたものであったはずだ。『幻土』は実際の工事現場や移民労働者たち、雇用主の会社組織やNGO、さらには政府への取材といった実践上のアプローチによってもたらされた現実であり、同時に映画という夢でもあることをまざまざと語りかける。そしてこのフィルムに映る工場のネオンと彼らを取り巻くシンガポールの夜は、きっと私たちを眠らせてはくれないだろう。

第19回東京フィルメックスにて上映