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March 7, 2019

挑戦の場としてのフランス映画――「映画/批評月間~フランス映画の現在をめぐって~」によせて
ジュリアン・ジェステール

[ cinema ]

これまで20年近く続けてきた「カイエ・デュ・シネマ週間」をあらため、今年より「映画/批評月間~フランス映画の現在をめぐって~」と題し、同雑誌を含みより多くのフランスのメディア、批評家、専門家、プログラマーらと協力し、最新のフランス映画を紹介する。そして特集名が示すよう「映画」と「批評」の関係にスポットライトを充てられるイベントにしていきたいと思う。それこそフランス映画の醍醐味であり、ひいては映画全体を豊かなものにする関係であると信じているからだ。第一回目は、かつてより共に仕事をしたいと思っていたジュリアン・ジェステールに企画協力をお願いした。フランスのメジャーな(左翼系)日刊紙「リベラシオン」の映画批評家、文化部チーフのジュリアン・ジェステールが本特集を企画するにあたり寄せてくれた紹介文を以下に訳出する。(坂本安美)

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挑戦の場としてのフランス映画

 日刊紙での映画批評の体験や仕事を成す一年のうちの様々な行事の中で、年末になって映像と音との12ヶ月に及ぶ出会いからどのような驚嘆が残っているのか振り返り、作品のリストを作成するいう恒例の行事は、遊び心をくすぐることは否定できずとも、もっとも刺激的な作業とは言いがたい。しかし一年を振り返りながら、一人の観客の好み、あるいは集団の好みを序列化し、選別し、考えを明確化し、作品を挙げていくことは、遅まきながら発見することがあるという利点があり、それは毎週、次からと次へと公開される映画の流れの中では同じような明白さでは感知できないような発見であるだろう。たとえば「リベラシオン」紙では、過去一年から20本のベスト作品をリストアップする時になって、2018年がフランス映画にとっていかに驚くべき、特別な一年であったのかが、あらためて明らかとなったのだ。我々「リベラシオン」の映画批評家たちによって選ばれた20本のベスト作品の内まさに8本がフランスで製作された作品であり――実際それ以上のフランス映画が選ばれてもおかしくなかった――今回、アンスティチュ・フランセ日本から提案を受け、セレクションした本特集のプログラムを見ても、フランス映画の盛り上がりが突如明白になったことが強く感じられるだろう。
 フランス映画は、ここ何年か、製作資金の問題もありあまり力を奮わず、形式の面でも、テーマにおいても、使い古されたものが多く、狭いところに留まっているとしばしば批判されてきた(そしてそれはあながち間違ではなかった)。しかしそうしたフランス映画を牽引してきた女性監督の何人かは、斬新で、偉大な作品を発表し、彼女たちの豊かなフィルモグラフィーにさらなる奥行きを与えている。たとえばクレール・ドゥニは、その素晴らしい新作『ハイ・ライフ』に、ロバート・パティンソンとジュリエット・ビノシュを載せ、宇宙に旅立ち、しかも英語で撮るというあらたなる冒険に出ている。そしてパトリシア・マズィはその予測不可能な『ポール・サンチェスが戻ってきた!』にて、かつて撮られていたフランス映画の刑事ものからラオール・ウォルシュの西部劇を思わせるような作品へとあえて漂流している。またソフィー・フィリエールは、ギャグによってラブ・コメディの規範を覆し、形而上学的眩惑にまで至らせる『20年後の私も美しい』によって、これまででもっとも自由奔放な作品を生み出している。
 しかし 昨年の間に自分たちのアートの頂点をはっきりと示すことができた他の映画作家たち―-その中で、アブデラティフ・ケシシュ、クリストフ・オノレ、ヤン・ゴンザレス、セルジュ・ボゾンなど、何人かの作家の作品の上映が叶わなかったにせよ―ー、彼らの作品を挙げるとしたら、フランス映画が並外れた才能を持つ新たな世代が誕生する素晴らしい土壌となっていることをとりわけ述べる必要があるだろう。そして今回の特集にて日本初上映となる作品の中でももっとも注目すべき作品の多くが、若い世代の監督たちによるものであり、それもほとんどが処女作であることも強調すべきだろう。それぞれがピリピリとするような強烈さを放ち、使い古されたフランス式自然主義の枠を超え、通常のフランス映画であれば舞台とならないような場所(『シェエラザード』のマルセイユの娼婦街、『ブラギノ』のシベリアに広がるタイガ、あるいは『ソフィア・アンティポリス』のコート・ダジュールの奇妙なテクノポールなど)を占拠し、あいも変わらぬイニシエーションの物語を語り続けよとする教えを根本的に刷新している。それはあたかも、神話の過剰さに挑んでいるかのようだ。神話はあるときは犯罪ものであり(驚くべきジャン=ベルナール・マルランの『シェエラザード』はデ・パルマとパゾリーニの間にある)、あるときは崩壊学(コラプソロジー)であり(執拗なほど心につきまとってくる『ソフィア・アンティポリス』はブレッソンとボードリヤールの間にある)、あるときは冒険ものであり(超=官能的トロピカルな世界を描くベルトラン・マンディコの『ワイルド・ボーイズ』はウィリアム・バロウズとジュール・ヴェールの間にある)、あるときはビデオゲーム化されている(キャロリーヌ・ポギ&ジョナタン・ヴィネルの『ジェシカ」は『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』と『メタルギアソリッドV』の間にある)。
「我々にとって重要な映画は抵抗している」と昨年開催された「カイエ・デュ・シネマ週間」の紹介文にてニコラ・エリオットは記している。現在の若手監督たちが撮ったこれらの作品は、まさに高い志や独特な想像力によって、使い古されたコードや時代が強いる陰鬱な運命にはっきりと抵抗を示していると言えるだろう。あるいはユスターシュやガレルとさほど遠くない、従兄弟のような存在でありながら、人目にあまり触れることなく映画を撮り続けていたギィ・ジル、彼の映画もまた忘却に抗う力を秘めていると言えるだろう。今回、彼のもっとも美しい作品群を日本で初めて特集上映する。ギィ・ジルはその最期までヌーヴェルヴァーグの作家たちからもあまり愛されることなく、理解されることのない弟分のような存在であったが、初期の時代に『地上の輝き』(1970)や『反復された不在』(1972年)といった傑作を残している。『反復された不在』はジルの最も美しくも、最も悲しい作品であり、ジャンヌ・モローの声が作品全体に宿っている。ギィ・ジル作品にはつねに悲しみに満ちた自伝の叙情性があり(母の死や、惨憺たる恋愛体験や、アルジェからパリへの亡命が痕跡を留めている)、その独特な色使いはロマン主義の陶酔のようで、編集によって創意に富んだ文体が練り上げられており、そのエクリチュールは記憶とのやけどしそうほどに過敏で、波乱に富んだ関係にふさわしいのだが、彼の諸作は遺憾ながら、フランス映画の膨大な詩人たちが織りなす公式な歴史の中に、まだ十全な場所を見出してはいない。


映画/批評月間~フランス映画の現在をめぐって~
日程:3月9日(土)〜4月21日(日)[14日間]
会場:アンスティチュ・フランセ東京 

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ジュリアン・ジェステール(Julien Gester)
1986年ストラスブール生まれ。2012年よりフランス日刊紙「リベラシオン」のジャーナリスト、映画批評家として活動、現在は同紙の文化部チーフを務める。それ以前は人気カルチャー雑誌「レザンロキュプティーブル」に執筆、またファッション、メディア業界でグローバルに活躍するマリ=アメリー・ソーヴェが2017年2月に創刊したラグジュアリーファッション誌『Mastermind』の編集長、『Grazia』フランス版創刊にも携わる。そのほか、ポンピドゥー・センターやシネマテーク・フランセーズでの講演や、セルジュ・ダネーらによって創刊された映画雑誌『トラフィック』、ファッション・カルチャー雑誌『ヴォーグ』、『Acne Paper』、『Vanity Fair』など多種多様な雑誌への寄稿も定期的に行う。フランス、世界各地の映画祭、シネクラブなどでは、日本映画、アメリカのコメディを積極的に紹介、プログラムしている。作曲家でもあり、映画音楽も手がける。