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July 21, 2019

第30回(2019年)マルセイユ国際映画祭(FID)報告
槻舘南菜子

[ cinema ]

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 2019年7月9日から15日まで開催されたマルセイユ国際映画祭は、今年30周年を迎えた。35カ国以上から125本の作品が選ばれ、フランスにおける中規模映画祭として、圧倒的な国際性を有するジャンルの垣根を越えた豊穣なプログラムは今年も健在だ。記念の年を祝って、映画祭に所縁のある32人の監督の手がける40秒から4分の短編によって編まれたオムニバス映画が製作され、ラブ・ディアズ、クレモン・コギトール、ピエール・クルトン、ヴァレリー・マサディアン、エドゥアルド・ウィリアム、パスカル・ボデなど国籍と世代を越えた顔ぶれが並び、本作には日本から諏訪敦彦監督も「Extrat from " the phone of the wind(『風の電話』からの抜粋)」で参加している。プログラム全体を見渡してみても、映画祭が始まって以来、最も日本映画が大きな存在感を示している年だったと言えるだろう。カンヌ映画祭の批評家週間部門で特別上映されたばかりの『典座』(本作は観客賞を受賞)の上映とともに、インターナショナルコンペティション部門の審査委員を富田克也監督が務め、小谷忠典監督『たまらん坂』がインターナショナルコンペティション部門に、加藤直輝監督『Blood Ecco』、水江未来監督『THE DAWN OF APE』、大力拓哉&三浦崇志監督『金太と銀次』がそれぞれコンペ外の併行部門にノミネートを果たした。ほぼ同世代でありながら、それぞれにまったく異なる映画的アプローチや美学をもった監督たちが集まるのも、マルセイユ国際映画祭の醍醐味と言えるだろう。

 昨年のイザベル・ユペールに続き、カンヌ映画祭監督週間部門に新作『Zombi Child』がノミネートされたばかりのベルトラン・ボネロとともに、今年のコンペ部門の審査委員長であるシャロン・ロックハートへのオマージュが本映画祭から捧げられた。
 彼女は写真家であるとともに映像作家であり、日本を舞台にした作品も制作している、主にロサンジェルスを拠点として活躍するアーティストだ。長きに渡るキャリアにも関わらず、初めての開催となった彼女のマスタークラスでは、構造的作風と言われる彼女のフィルモグラフィ全体への詳細な言及がなされた。自身に大きな影響を与えたアーティストとして、アンディ・ウォーホルやホリス・フランプトン、ケン・ジェイコブス、シャンタル・アケルマンの名前が挙がる。写真/映像という自信の手がける二つの芸術の境界・美学とともに、人類学的な側面の混在が彼女の大きな関心であるようだ。ロックハートの作品の大きな特徴のひとつは、静止したカメラとフレーミングに対する被写体の意識的なアクションであるだろう。彼女の作品における時間はつねに直線的であり、フレーム内においては大きな変化を欠いた運動が繰り返されるばかりであるがゆえに、そこに流れる時間を否応なく見る者に感じさせる。しかしながらロックハートは写真と映画の違いをそのように時間軸のみに限定するのではなく、登場人物と空間の関係性、あるいは音響デザインによって、その関心をフィルモグラフィーの中で徐々に発展させていったことが今回のマスタークラスでは明らかになった。

 ハリウッドの特殊メイクの実践を捉えた映像から、ジョン・カサヴェテスの『壊れゆく女』にインスピレーションを受けたワンシーンへと繋がる三部構成の処女作『Khalil, Shaun, A Woman Under the influence』(1994) においては、すでに固定ショットが多様され、カメラに対する被写体の意識の顕在化が見てとれる。監督第2作となる茨城県守谷市立御所ヶ丘中学校の女子バスケットボールチームの普段の練習風景から着想を得たという『Goshagaoka』(1997)では、フランクフルトバレエ団のスティーブン・ギャロウェイの振付けにより、彼女たちの「1、2、3、4」という掛け声に合わせて、日常的な練習動作が体育館という空間の中でコレグラフィーのように演出されていく。そして『Theatre Amazonia』(1999)では、舞台を見つめる観客を固定カメラで捉えるというロックハートのスタイルの確立がなされ、そして音響への関心の発展の萌芽がそこに垣間見える。本作は舞台上で上演されているオペラの映像から始まるが、そこでは音響が観客席の雑音に切り替わっているのだ。画面はそこから変わらぬまま、音だけが切り返され、私たちは退屈して眠る観客、隣に座る恋人と雑談をはじめてしまう観客、微動だせずまっすぐに舞台を見つめる観客たちを凝視することになる。

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シャロン・ロックハート『Nō』

 再び日本を舞台とした『Nō』(2003)では運動=労働がテーマとなり、儀式的とも言える日常の動きとともに、その画面のフレーム内には存在しない、しかしそこに繋がる空間に生起した音を導入することで、画面外にもうひとつの空間を生起させるという本格的な実験が始まる。タイトルが「能」との言葉遊びであることからも分かるように、労働にまつわる動きを自然主義的にではなく、ほぼ完全に定型化された儀式的な運動として捉えるのだ。それに続くアメリカ・メイン州を舞台に日に2度の干潮の時間に貝を採集する女性を被写体とする『Double Tide』(2009) 、あるいは造船所の労働者たちを映し出した『Exit』(2008)でも、まるでリュミエール兄弟の『工場の出口』のように人々の日常を儀式のように見せるという試みが継続する。このシリーズではどの作品でもフレームの外部の音が画面内に響いており、登場人物はカメラの前で自然に振る舞っているようでいて、確実にそのフレームを意識している。そして『Pine Flat』(2005)から『Podwórka』(2009)へと繋がる、中心人物としての「子供」のフレーム内への導入は、完璧にはコントロールできない彼らの存在に起因する偶然性が、ロックハートの作品に新たな色彩を加えたものだといえよう。静止したカメラとフレーム外の音をめぐる確固としたスタイルによって、現代アート的なコンセプチュアルな試みに留まることなく、時間と運動への関心と思考によって織り成される映画として結実している。
 まさにマルセイユ国際映画祭におけるプログラムの幅広いスタイルを全て凝縮したかのような彼女の作品に対するへのオマージュは、この映画祭の歩んできた30周年を祝福するのに相応しいものだといえるだろう。

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ジャン・ルイ・シェフェール、ピエール・レオン、リタ・アゼヴェド・ゴメス『Danses macabres, Skeltons, and other fantasies』


 本年のコンペティション部門においては、難民の青年を物語の原動力にしながらも、悲劇というクリシェに陥ることなく、人々の生を音楽とともに軽やかさを持って描いた、ルイーズ・ナルボニ監督『Sad song』とピエール・クルトン監督『A beautiful summer』、あるいは、死をモチーフとした映像や絵画を挿入しつつジャン・ルイ・シュフェールの言葉に真摯に耳を傾けたポートレート『Danses macabres, Skeltons, and other fantasies』(ジャン・ルイ・シェフェール&ピエール・レオン&リタ・アゼヴェド・ゴメスの共同監督作品)や、サーカスの一団に属する男女のグループのほとんど無為とも言える時間を鮮やかな色彩とジャック・リヴェットを思わせる感覚で描いたjuan rodrigáñez監督の『Rights of man』などが忘れがたい作品となった。

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大力拓哉、三浦崇志『金太と銀次』

最後に、昨年の同映画祭でグランプリに輝いたアルベール・セラ監督『Roi Soleil』に匹敵するような過激さと狂気に満ちた、大力拓哉&三浦崇志監督の『金太と銀次』に言及しておきたい。この作品は、固定キャメラで捉えられたフレームの中で、何度か場面を変えながらも、ふたりの登場人物(ロボットと狸の被りものをした監督自身)が大阪弁で取るに足りない会話をすることに終始する。一切の切り返しもクロースアップもなく、物語といえるようなものは生起せず、そこでは時間だけが経過していくことで、ふたりの存在そのものの強度が時間を追うごとに高まっていく。フレームと音響を巡る方法論において先述したシャロン・ロックハートに近接しているともいえる本作が、コンペ外でのセレクションであったことは残念でならない。

マルセイユ国際映画祭公式サイト https://fidmarseille.org