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August 31, 2019

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」』クエンティン・タランティーノ
千浦僚

[ cinema ]

 いま自分が観ているこの映画は何であろうか、と思いつつ、散りばめられたというよりもその無数の細部に全体の重量を担わせるようなネタの連打、乱れ撃ちと、いくつかのシーンにおいてスクリーンにみなぎる映画らしい空間、時間、ムードによって楽しく観た。あっという間の百六十分。幾分ダラッとした穏やかな満足で、観終えるやいなやもう一回観てもいい気分。
 しかし、もしそうしたとしてもおそらくこの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』には過去の一般的なジャンル映画や普通の娯楽映画のように一本の映画を観たという、例えるなら"ドルを一掴みする"ような確固とした充実はないのだが、そういう形式や認識による映画の次代のもの、茫漠としながら存在感を発揮する映画を標榜しているとも思える。
 ......いや、これは本作のタイトルがオマージュを捧げているセルジオ・レオーネ『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト』(aka『ウエスタン』)が近くリバイバル公開されるそうで、数日前にその試写を観たばかりなのでついそこに引きずられて書いてるんだけれども。セルジオ・レオーネが『荒野の用心棒』(64)、『夕陽のガンマン』(65)、『続・夕陽のガンマン』(66)というイーストウッド主演の"ザ・マカロニウエスタン"な三部作から、『ウエスタン』(68)、『夕陽のギャングたち』(71)、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(84)という歴史映画に移行した感じ。『ワンス~ハリウッド』もある歴史の叙述であり、そこにさらに現代映画流、タランティーノ流の味付けが(だらしなく、ルーズに?)なされている。
 そう。この引用、あの引用という"ある"ことのトリヴィア談義が盛んなのは必至だし、そこの話は充実していると思われるので逆に監督が消した、書き控えたネタのことを思うならば、セルジオ・レオーネとクリント・イーストウッドのことが出てこないのは結構ポイントだと思う。セルジオ・コルブッチについてもろに言及し、そのフィルモグラフィーにディカプリオ出演作を偽史的に加えて映画の筋の一要素にしておきながら、そのコルブッチを"もうひとりのセルジオ"、"マカロニウエスタンのベスト第二位の監督"などと映画プロデューサー役のアル・パチーノに言わせることでタランティーノはセルジオ・レオーネの絶対的な優位と価値を暗示する。それはまだこの監督の趣味みたいなものだとしても1969年に、ハリウッドの役者、落ち目になっていることを意識し、再生を図りイタリア映画界に参加する(あのディカプリオのフェイクなイタリアン映画キャリアは、イタリア娯楽映画民としてはその感じがわかりすぎて爆笑してしまいました)人間がイーストウッドのことを考えない参照しないなんて、有り得る?また、これだけテレビ西部劇に言及している映画だというのに......。『ウエスタン』に、ジョン・フォード映画に出ていたときのイメージを覆す冷酷な悪役で出演したヘンリー・フォンダだってレオーネ映画への出演オファーを受けてから『荒野の用心棒』を観たんだぜ。つまりここはイーストウッドがいない世界なのだ。
 そこのところを考えればこの『ワンス~ハリウッド』は一種のSFというか、パラレルワールドを描いているのだとわかる。というかこの監督の映画はだいたいその路線であり、その大嘘を強く効かせるためのディティールの積み重ねをいつもやっていると言える。『キル・ビル』は日本刀が飛行機内持込オッケーで(おそらく石井輝男『現代任侠史』で高倉健が平然と日本刀を持ってパンナムの飛行機から降りてくることへのオマージュ)、風祭ゆきと佐藤佐吉が東京でショウブラザーズ武侠映画の旅籠ふうの料亭を経営している世界、『イングロリアス・バスターズ』はヒトラーが××される世界。『ワンス~ハリウッド』はイーストウッドが存在しなくて、シャロン・テートが○○な世界。いいんじゃないでしょうか。
 潤沢な予算と丁寧な美術仕事が1969年という時代を作り出していたが、その外見のみならず、それはピュアネスと邪悪が表裏一体に存在する時代であったという解釈も打ち出されていた。その無邪気さ美しさを象徴する存在として描かれるのがマーゴット・ロビー扮するシャロン・テート。魅力と秘めた暗黒を表すのが、ブラッド・ピットがなんとなく見初めて、三度目の遭遇で車に乗せて送っていってやるヒッピーの娘。あの娘がまたもんのすごくいい!佇まい、表情、裸足、腋毛!その明るさ、かわいさが段々怖くなってくるところ、スパーン映画牧場のコミューンのところがすごいです。見事です。異人、外部者としての西部劇ヒーローが敵の待ち受けるタウンに足を踏み入れるという映画のクリシェを、ブラピ演じるタフガイのスタントマンがマンソンガールズがたむろする映画セット廃墟に歩み入る場面に使うこと。馬も走る。全体のクライマックスではないのにたぶんあそこが一番良いような。この部分だけで結構充実感ある。
 えー、あとこの映画に関して関係者(シャノン・リー、ダン・イノサント)からの遺憾の念や抗議というかたちでブルース・リー描写問題(傲慢でかっこわるく、弱く描かれている)も持ち上がっていますが、そこについてはドラゴン主義、ブルース・リー原理主義というほどではないにしてもブルース・リーをいくらでも賛美したいところはある私もちょっと残念な気はしました。『キル・ビル』で『死亡遊戯』のトラックスーツをフィーチャーしながらも(そのことはまあ良かった。ユマ・サーマンの動きはイマイチだったが)、『サイレントフルート』の企画をブルースから奪ったデヴィッド・キャラダインを大役にあてているあたり、どうしてもタランティーノはブルースがぶちあたった壁の違う側にいる人間だという感じもする。しかし、この映画ではこうなのだからしょうがない。本作でタランティーノは自らが"非・ドラゴン映画民"であることを宣したことになる。
 余談だが、そういえばこの映画でかなり丁寧に紹介されるディーン・マーチン主演シャロン・テート出演『サイレンサー 破壊部隊』、シャロン・テートとナンシー・クワンのなんちゃってクンフー対決がブルース・リーの指導のもとにあるということ、なんとなく知っていた。ゼロ年代のいつだかに谷垣健治さんによるクンフー(&アクション)映画論みたいな講演を見た、聴いた覚えがあり、そこでふんだんに引用抜粋上映された映画の場面のひとつにこれがありました。非香港映画のへなちょこクンフー数あれど、あえてそれが出されたのはブルース・リー指導、ということであった。谷垣さんの解説は忘れたが、私が感じたのはブルース・リーに対する免罪である。『王様と私』でシャム王が西洋からの客を迎えるときに金銀の箸を用意させよ、といい、それに対してアンナが、陛下、金銀のフォークとナイフにいたしましょう、というとシャム王が、おう、たしかに、西洋人はまだ箸を使えるほど進歩しておらんからな、という、あれである。1969年、ハリウッドはまだブルース・リーとクンフーに到達していなかった。......おそらく日本全国で五万人くらいが同じことを考えたと思うが、私が『ワンス~ハリウッド』の終盤を観ているときに連想したのは梶原一騎・中城健の漫画「カラテ地獄変 牙」のハリウッドスターリンダ・キャロンをカルトヒッピー集団が襲撃した際に空手使い牙直人が彼女を救う件である......。
 ひとつのファンタジーとしてタランティーノはシャロン・テートのために、『パルプ・フィクション』のラストに持ってこられた場面のトラボルタとサミュエル・L・ジャクソンのような、ディカプリオとブラピ演じる虚構の、無名の、自覚なきヒーローという防衛線を引いた。私もまた、そこに乗っける夢想としてもはやこの映画を離れて、何重かの防衛線を引ける。ポランスキー邸に招かれていたブルース・リーがマンソンファミリーに対峙するとか、ブルース・リー仕込みのジークンドーでシャロン自身が闘うとか......。そういう妄想の喚起もふくめて、映画がそういう装置にもなりうるという可能性によって、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』、好きだ。

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