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October 14, 2019

『空に聞く』小森はるか
結城秀勇

[ cinema ]

 タイトルにある「空」にはふたつの意味が込められている、と映画祭カタログに所収の監督のことばにはある。多少言葉を自分なりに言い換えてみると、ひとつは死者の魂の居所としての空(sky)、もうひとつはこの作品の主人公である阿部裕美さんの声が響く仮想の空間としての空(air)、というようなことではないだろうか。前者には過去が、後者には未来が対応している、などと言えなくもなさそうだが、その辺は見る者それぞれの判断に任せるのがいいだろう。
 阿部裕美さんは、和食屋の女将として働いていたが、震災で店も家屋も失い、その後なんの経験もないながら陸前高田災害FMでパーソナリティを務めることになる。そうした背景は彼女の話の流れからなんとなくわかるものの、なぜラジオだったのか、それもなぜ声を届けるという仕事だったのか、その辺の詳しい事情というか心のありようというかは、特に触れられないままだ。そのような構成にしたのはなぜなのか、と上映後のトークセッションで監督に尋ねると、「私の知っている阿部裕美さんは、ラジオのパーソナリティとしての阿部裕美さんだったから」という答えが返ってきた。女将としての阿部裕美さんという歴史(女将であった阿部さんという過去の状態)は情報としては知っていても、それは私の知っている阿部さんとはうまく重ならなくて、だから客観的な情報として説明することはしなかった、というようなことを監督は言っていた。そうした意図に加えて、この映画で初めて阿部さんに出会う私のような観客にとっては、「ラジオのパーソナリティとしての阿部裕美さん」という存在すらもがすでに過去の状態でしかないことがわかっていて(随所に差し挟まれる一番新しい時間軸でのインタビューは、また新しく店をオープンした新たな「女将としての阿部裕美さん」であることがわかっていく)、薄い過去の層が一枚一枚積み重ねられていくようにこの作品が出来ているのだと感じる。そして、この映画で描かれるメインの状態である「ラジオのパーソナリティとしての阿部裕美さん」という(彼女自身の言葉を使うなら、どこか非現実のような)状態を挟んで、阿部さんはかつての「女将であった阿部裕美さん」から新たな第二の「女将さんである阿部裕美さん」へと"戻った"と呼んでいいのか、という疑問こそが、直接言及されることはないにしろ、この作品の核であるように思えた。
 なによりこの映画の素晴らしい点は、阿部さんが毎月の11日に黙祷を放送する(なんだか奇妙な表現だが)場面であると思う。それは決まって、「これから黙祷を始めます」という感じで始まることがない。カットが変わり、なにもしゃべっていないけどなにしてるんだろう、と思っていると、彼女がこれで黙祷を終わりますと告げ、ああそうかこれは黙祷だったのかと気づく。その沈黙の時間は、なにかがこれから始まる待機の時間に見えて、実は積極的な行為そのものがまさに行われつつある時間である。だから、あるディレクターに、毎月同じ内容を放送するんだから録音したものを使えばいいと言われた時の、阿部さんの「バカじゃないの?」という発言は、この映画の中でなにより強い言葉として響く。生放送でやること以外に意味なんてないじゃないか、と。
 黙祷を集団的な行為として成立させるためには「これから〇〇分の黙祷を始めます」という儀式的な宣言が必要になる。しかしそれによって、個人の祈りという記述も記録もし得ないつかみどころのないはずのものが、容易に「録音でいいじゃない」というような極端な固定化を施される。『空に聞く』はその固定化に徹底的に抗う。黙祷は黙祷というラベルを剥がされて、作品のいたる隙間に、なんでもない沈黙と見分けのつかないかたちで忍び込む。それを見つけるために映画を見ているはずの私たち観客にさえ、ただの沈黙と祈りを見分けることは容易ではない。その見分けのつかない沈黙と祈りが混じり合ったまま漂う場所こそ、空(air)なのだと思う。
 語る行為は、語り手と聞き手との間の伝達行為であるにとどまらず、両者の間にあって震えを音として響かせる大気の媒介を必要とする。『空に聞く』には、そのなにもないはずなのになにかがある、なにかがあると私たちが気づくために必要な場としての空が映っている。その場所で、すでに過去のひとつの層になったはずの「ラジオのパーソナリティとしての阿部裕美さん」は、震えが声に変わるその瞬間を、いまも我々に届けてくれる。


山形国際ドキュメンタリー映画祭2019 日本プログラムにて上映


  • 『息の跡』小森はるか 結城秀勇

  • 『にじむ風景/声の辿り』小森はるか+瀬尾夏美 三浦 翔