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November 6, 2019

『ジョージ・ワシントン』デヴィッド・ゴードン・グリーン
結城秀勇

[ cinema ]

 デヴィッド・ゴードン・グリーンの処女長編である本作は2000年の映画だから、1997年の『ガンモ』とほぼ同年代の作品と言っていいだろう。廃墟はハリケーンによって生み出されていて、あたりにはゴミや動物の死骸や糞が散乱し、そこら辺をクソまみれの犬がうろついていて、それが当たり前であるような光景が広がっている。ひとつの街を舞台にしていながら、ひとつのショットか隣接を示すふたつのショットくらいで描かれていたはずの集団の構成員が、映画の最後には、もう決して交わることができないほど遠くに離れてしまったような感じがするところも、どこか似ている。ただ、粗いデジタルも交えた『ガンモ』のトラッシュな作りに対し、『ジョージ・ワシントン』の35mmフィルムの色調は、なにかがもうすでに終わってしまったにもかかわらず、それでも終わることのない夏の午後といった物憂げな感じを湛えている。
 ノースカロライナ州の郊外の町、ナレーションの少女の語りによれば、「戦争に行き、機械を作っていた」親たちの世代とは異なる人生を生きねばならない時代の少年少女の物語である。そして物語の中心には、タイトルの通りジョージ(ドナルド・ホールデン)というひとりの少年がいる。だが、上映後のトークでも語られていた通り、なにかのきっかけで内面を吐露する周囲の人々とは異なり、ジョージという口数の少ない少年の思考や感情が表立って示されることはほとんどない。だから、「ジョージ・ワシントン」というタイトルとひとりの少年は、まわりの少年少女たちやすぐ近くで働く労働者たちを描くための不在の中心のような役回りを持っている。
 しかし、ジョージという少年の存在だけがそのような構造をつくりあげているのかと言えば、それはおそらく違う。むしろ彼の存在以上に、 彼の物語を語ろうとする少女のナレーションこそがこの構造の本質である。ジョージに恋をしたナージャ(キャンディス・エバノフスキー)の声が、「彼は大統領になりたかった」「彼は英雄だった」「彼には永遠に生きていて欲しかった」と語る瞬間にだけ、ジョージはタイトルである「ジョージ・ワシントン」に近づく(実際にはジョージの苗字はワシントンではなくリチャードソンだ)。彼女は言わば「信頼できない語り手」でもあり、彼女の物語がすべて映像で提示されるわけではない。彼女がまるでジョージはすでに死んでしまったかのように語る根拠を観客は映像の中に見出すことができないし、「彼はドブの中の死体を蘇らせた」などというエピソードが本当のことであるのかどうかさえ判断がつかない。
 本来ならば「ジョージ≠ワシントン」というタイトルであったほうがふさわしい物語を、彼女は「ジョージ=ワシントン」として語り直す。すでに崩壊した国で、新しい自由の国を立ち上げる希望など持ち得ないはずの黒人少年を、ひとりの英雄として描き直す。少年は、生まれつき柔らかい頭部を守るためのヘルメットと、レスリング用コスチュームと、シーツの切れ端をマント代わりに、ヒーローの衣装を身にまとう。
 「ゴードン・グリーンの作家性なるものをこの映画の中で発見することは容易くないように思えた」と隈元は書いていたが、むしろ私にはこれを撮った監督がのちに『スモーキング・ハイ』を撮ることはとても腑に落ちる気がした。ここにも書いた、まだ生きているのか、それとももう死んでいることに気づいていないだけなのかよくわからない男たちの無駄なおしゃべりが続くダイナーでの時間が、『ジョージ・ワシントン』では、すべてが終わったはずなのになにひとつ新しく始めることができない少年少女たちの時間として、作品の最初から最後まで流れている。

ルーキー映画祭アンコール in アップリンク吉祥寺にて上映


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