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December 3, 2019

第20回「東京フィルメックス」日記②
三浦翔

[ cinema ]


フィルメックス日記①はこちらへ

2019/11/29

 この日は映画鍋と共催のシンポジウム「映画の"働き方改革"〜インディペンデント映画のサステナブルな制作環境とは?〜」を聞きに行った。興味があったのは、実のところ経済産業省側の視点で、彼らは日本映画の現状をどう考えているか気になりその話が少しでも聞けたのは良かった。経済産業省にはコンテンツ産業課というものがあり、今年の夏に映画制作現場実態調査なるものを行っている。
 重要なのは経産省側が何を意図してこのような調査を行っているかだ。彼らが考えているのは、映画業界への人道的配慮なんかでは決してないだろう(そのように考えてしまうことが如何に政治経済的な視点を曇らせることか)。目指しているのは「コンテンツの時代」に対応する日本の映像産業の強化である。「コンテンツの時代」とは、これまで映画は映画、テレビはテレビとそれぞれコンテンツとメディアが一対一で対応していたのに対して、デジタル化によって映像コンテンツが様々なメディアを国内外問わずに行き来する時代には「コンテンツの質」が経済的な発展を左右するという考え方だ。海外資本との共同制作やグローバルな市場を見据えていく提言である。
 経産省側としては「コンテンツの質」を上げるためにまずは労働環境の整備を図ろうという意図らしい。また「コンテンツの質」が上がれば海外市場に進出することが出来るので、資金力が上がり労働環境も改善していくという循環が生まれる、そういう考え。逆を言えば、お金もなく質も低下し、労働環境も劣悪になっているのが今の日本映画界だということなのか。結局のところ海外進出が鍵だと答える経産省側に対して、やや乱暴に深田晃司さんの主張をまとめてみると、日本は英語圏のアメリカ映画のようには海外市場を獲得出来ないので、フランスや韓国などマイナー言語で制作する国のように助成金で支えていくしかない、というものだったと言えるだろう。しかし、両者にはあまり生産的では無いすれ違いが起きていたと思える。
 まず経産省が考える「コンテンツの質」の実質が不明瞭で、これからどういう映画を作れば海外市場に進出出来るのか具体的な話は聞けなかった。正直なところ、念頭にあるのは既に人気のある日本のアニメくらいで、実写映画についてもその延長でしか考えられていないのではないか。第一、今日のデジタル環境では従来言われてきた「良い映画かどうか」とは関係のない基準で、環境に適応したコンテンツが消費されているわけだし、そこらへんを戦略的に考えないで「コンテンツの質」とだけ言ってみても現実的ではないだろう。それから深田さんの言語の問題に還元してしまう考えも短絡的過ぎるだろう。そもそも日本という特殊な国では言語も文化も似てもいないアメリカ映画がここまで消費されているわけだし、そこには多くの要因が絡んでいることを見なければいけない。
 (映画に限らない助成金問題に関して)反感を恐れずに言えば、文化の多様性を守るという大義名分のもと不明瞭に助成金を推進するだけでは多様性の根を耕せていないだろう。大衆の賛同という明確な基準を得られれば良いのでも当然ない。新しい可能性を考えるべきで、そこに知性を注ぐことを忘れてはならないと思うだけだ。映画はメディア環境の変化と共に新たなかたちを生み出してきたとも言えるのだし、むしろ「コンテンツの時代」をどう捉えて反撃を仕掛けるかは、当然考えられても良い可能性のはずだと思う。それは、経産省の人間だけで短絡的に考えられることでは当然ないし、芸術的な発想こそが求められているだろう。
 他に幾つもツッコミどころはたくさんあったが割愛。一つだけ付け加えるならば、本題の「映画の"働き方改革"」を労働法の区分でやってしまうと大資本制作だけが耐えられる自体になってしまうという指摘は重要だろう。結局のところ業界内ルールを整えて行くしかないことにもある程度同意する。しかし、そのときの業界とは一体なんなのか。そもそも産業として成立していない状況で「労働」を考えること自体が僕の中ではよく分からないままなので知りたい。そもそも芸術と労働の関係についてちゃんと勉強して考えられるようにしたいと最近思っている。

 モヤモヤしたままなので、映画を見ないと1日を終われない。夜は、ニアン・カヴィッチ『昨夜、あなたが微笑んでいた』(2019)を見に行く。ホワイトビルディングとは、クメール・ルージュの時代を経て廃墟になっていた場所に、行政指導のもと芸術家たちを住まわせた歴史的建造物である。三脚を構えてしっかり撮影されたフィックスの画面は、その場所が解体される団地である点で『ヴァンダの部屋』(2000)を思わせるかと思いきや音の圧がそこまで高くなく、あるいはワイズマン映画のようにとにかく喋りながら行政に抗するタフな住民たちが描かれるわけでもない。失われゆく場所へのノスタルジーも、悲劇的な態度も見せないまま、どちらかというと変わらずに楽しく生きていく住民たちが良かった。面白かったのは、行政との会議で「ドアと窓は持って行っても良いですか?」という質問に「どうぞ」と答えが返ってくると拍手で会場が沸いたりする点だ。この監督の興味はモノにある。何に使うのか分からないけれど、ドアの木を丁寧に剥がしたり、ガラス窓を慎重に一枚ずつ取り外しては持って行く。リサイクルの思想とかではなく、徹底的にモノを使い倒す姿勢が、(全員がそうではないにしても)芸術家らしくて良かった。極め付けは、すべての住民がいなくなった後、解体された瓦礫の中から鉄骨を分別するクレーンを、おそらく嬉々として撮影していることで、解体にはある種の創造的快楽が伴うことにこの監督は正直なのかもしれない。

2019/12/1

 最後の1日。『HHH:侯孝賢』(1997)『フラワーズ・オブ・シャンハイ』(1998)を見て今年のフィルメックスは終了。これからの時代には国際合作だと言っていたシンポジウムの後に『フラワーズ・オブ・シャンハイ』を見ると、別に今までそういうことをやって来なかったわけじゃないよね、という当たり前の事実に打ちのめされる。梅本さんの授業で勧められて、初めて侯孝賢を見ていた大学一年生の夏休みでは、恥ずかしながら良く分かんない(特徴を掴みづらい)監督だなと思っていたが、それは彼が実に多様なフィルモグラフィーを撮ってきたからなのだと『HHH:侯孝賢』と合わせて見て気付かされた。
 『HHH:侯孝賢』を撮っているのがオリヴィエ・アサイヤスであることには必然性があるし、侯孝賢自身の魅力もさることながら、彼の周りに集まる人たちの情熱に胸が熱くなる。エドワード・ヤンや侯孝賢の作品は見ているけれど、そこから表面的に知れる台湾ニューシネマ像というものは形式的な話に終わりやすく、この作品を見て初めて新しい映画が生まれてくる土壌がどういうものか分かった気がする。サボり症を自称する侯孝賢がアイデアを出して、脚本家の朱天文と呉念眞が素早くまとめ上げていく話や、エドワード・ヤンの家にいつも集まって、そこにはホワイト・ボードがあって、どんどんアイデアを共有していくことなど。どこにでもあり得る平凡な風景なのかもしれないけれど、今となってはそんな簡単なことが難しいと身を持って知っているし、それが6年間も続けられていたのだと聞くときにはそのかけがえのなさに感嘆する。あらゆる映画が気軽に映画館で観れる状況が理想だけれど、『HHH:侯孝賢』に限らず、「現代の映画作家シリーズ」はすべて公的に見られるようにして欲しい。最良の教科書なのだから。

 今年のフィルメックスで印象的だったのは、良くも悪くも質問者に外国語話者の方、特に中国圏の方が多かったことで、国際映画祭なのだから当然のことで喜ばしいことでもある一方、日本の観客はどこに行ってしまったのかと気が重くなった。これからフィルメックスはどういう場になっていくのだろうか。オリンピックを目指した広告が増えても変わらず堂々とアジア映画を紹介し続けるフィルメックスは、今後も頼もしい存在であり続けて欲しい。


第20回「東京フィルメックス」映画の未来へ

  • 『HHH:侯孝賢』オリヴィエ・アサイヤス 結城秀勇

  • 『アクトレス ~女たちの舞台~』オリヴィエ・アサイヤス 坂本安美

  • 『台湾、街かどの人形劇』ヤン・リージョウ 千浦僚

  • 『黒衣の刺客』ホウ・シャオシェン 結城秀勇

  • 『台湾新電影時代』シエ・チンリン 隈元博樹