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June 10, 2020

『エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ』ボー・バーナム
ゆっきゅん

[ cinema ]

 主人公のケイラがYouTubeに公開している自己啓発的な動画で始まる『エイス・グレード』は開始1秒でSNS時代を生きる若者たちへ向けて作られた映画であることを宣言してくれる。中学卒業と高校進学を目前に控えた主人公のケイラは、コンスタントに動画投稿をしているが、それを見ている人はほとんどいない。学校で年間無口賞を獲ってしまうような、友達のいない中学生だった。唯一の家族である父親との関係もうまくいっていない。クラスメイトのホームパーティーに行ってみたり、高校の見学で知り合った先輩に誘われて遊びに行ったりするけれど、何にも思うようにはいかなくて、それでも、自分を少しずつ受け入れて前向きに生きていく、というのが大筋である。
 「自分らしさとは?」「一歩踏み出す自信を持つには?」「大人になるとは?」そんなテーマを語る動画の中のケイラはかしこくて正しくて頼もしい。ケイラは自分の世界を持つこと──自分が見る範囲の世界を出来るだけ楽しく煌めいたものにすることが大切だと知っている。動画の中ではポジティブなメッセージを発信する自分でいること。思春期の肌荒れを隠してくれる可愛いフィルター加工のアプリでセルフィーを撮影すること。自分の部屋を可愛い電飾でデコレーションすること。毎日見つめる鏡の周りには自分を鼓舞する文言を書いたカラフルなポストイットをたくさん貼ること。周りの音を遮ってイヤホンで大好きな音楽を聴くこと。
 なぜかって、外の世界が全然面白くないってことを毎日痛感するからだ。学校にいても同級生はバカばっかで、家でパパと話したいことなんてなくて、でも自分からもっと外に出ていく勇気もなくて、見たい世界はいつだって心と画面の中だけにあるのだった。このような営みを「偽りの自分」「現実逃避」などと呼ぶのは間違っている。あまりにもつまらない現実を前にして、好きな音楽を聴いて可愛く自撮りをするしかないと判断するのは知性であり、素晴らしい努力である。
 映画はケイラの見たい世界とケイラの居る世界を行き来する。例えばクラスメイトのホームパーティーに誘われたときには、胸の高鳴りを示すポップソングが流れる。物語世界の外で流れているかのように思えるが、続く帰宅後の食卓のシーンではそのままケイラがイヤホンで聴いている音楽になっている。つまりケイラの感受する世界が、映画のまなざしそのものになっているのだ。ここでは父親の呼びかけによって音楽が一時停止され、ケイラが見たいはずの世界が現実に引き戻される。クラスの気になる男の子を見たときだってそうだ、心の中で鳴り始めた音楽はいつも他者によって停止され、そこでは孤独が静かに鳴るのだった。ケイラが見たい理想の世界だったはずのiPhoneだって、父親が部屋に入って来た驚きで放り投げてしまって画面がバッキバキに割れてしまった。ああ、最悪。何が最悪か?この客観性が最悪なのだ。
 ケイラが抱えている悩みはいつも、客観視が出来てしまう聡明な知性のせいで発生しているように見えた。自分がきっともっと輝くべき人間であることを知っていると同時に、今の自分が全然イケてないこともわかっている。理想の自分と現状が乖離していることを、誰よりもわかっているのはケイラ自身だ。なりふり構わず突っ走れたらどんなに気が楽だろう。厚顔無恥でいたれたらもっと楽しいだろう。己の未熟さ、あの子との違い、はっきりわかってしまっている人の憂鬱がなんとも切なかった。誰よりも自分のことを信じたいと願いながら、明らかに自信がない人の歩き方で憧れの先輩たちの元へ歩いていくケイラの姿は微笑ましく映るだろうか。それとも、まだヒリヒリするだろうか。
 経験から大いに学ぶことのできるケイラは、何歳になってもきっと、そのときの今が一番マシと思えるタイプである。昔に思い描いていた自分ではなくとも、昔よりは良くなった部分を見つけることができるはずだ。大人になってもそんなことばかりなのかと途方に暮れつつ、彼女なりの人生を歩んでいくのだろう。10年後や、20年後のケイラを主人公にした映画も、きっと最高に面白い。

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