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July 15, 2021

《特集 カンヌ国際映画祭とフランスの女性監督》『すべてが許される』

[ cinema ]

7/17(土)より横浜シネマリンにて《特集 カンヌ国際映画祭とフランスの女性監督》が開催される。そのオープニングを飾るミア・ハンセン=ラブ監督の初長編作品『すべてが許される』について、フランスの映画批評家、人気カルチャー雑誌『レザンロキュプティーブル』代表のジャン=マルク・ラランヌによる優れた批評を訳出してお届けする。

梅本健司



父と娘のあいだの苦悩と和解を描く驚くべき第一作
ジャン=マルク・ラランヌ

IMG_2473.JPG フランソワ・トリュフォーの『家庭』(1970年)において、アントワーヌ・ドワネル(ジャン=ピエール・レオ)は、別れたばかりの妻に、自分の幼少期の辛い体験や失敗した恋を綴った自伝的な小説の草稿をどう思うか尋ねる。妻(クロード・ジャッド)は困惑を包み隠さず、自分の人生との和解を目的として、芸術的に面白いものを作ることはできないのではないかと答える。この台詞は、いわずもがなトリュフォー自身の作家としての態度に通じており、『大人は判ってくれない』(1959年)のルサンチマンを含んだ怒りから距離を取っているように聞こえるかもしれない。しかし、作家としての態度は表明したものにしか価値がなく、非常に美しい作品(ベルイマン、デプレシャン...)が自らの人生の清算、和解を原動力として作られていることは知られていて、そこではルサンチマンを内包した痛みを表現することが絶対に必要とされている。
 ルサンチマンと、その克服、あるいはその過程の不在は、『すべてが許される』と題された本作の中心に当然なるだろう。しかし、この若き新人監督ミア=ハンセン・ラブの初長編作の題名にある「すべて」とは何を意味しているのか。映画はまず、1995年12月、ウィーンで暮らす6歳のパメラを登場させる。彼女の父ヴィクトール(俳優であり監督でもあるジャラール・ブランの息子、ポール・ブランが演じている)、オーストリア人の母アネットと共にパメラは暮らしている。夫婦は愛し合っているが、作家でありながら執筆をせず、薬に溺れ,無為な生活を送るヴィクトールを前にアネットは苦悩する。新しいチャンスを彼に与えるため、家族はパリに引っ越すが、そこでさらにヴィクトールの薬物中毒が悪化してしまう。彼は、アネットを裏切り、彼女はパメラと共に彼のもとから去ることを決意する。映画の後半は、それから11年後に展開し、パメラは亡霊のような父に再び会うことを決意する。ふたりの再会はとても穏やかになされる。その穏やかさは一体どこから来るものなのか。それがこの映画のもっとも大きな謎だろう。精神分析の基礎が築かれたウィーンという街で幕を開けながら、本作が語る苦しみは精神分析的な症状を示すことがない。『すべてが許される』はふたつの時代で構成されており、その前後半は相反している。無意識的にトラウマが形成される幼年時代と、そして大人への入り口に足を踏み入れ、その傷に慣れていく時期。奇妙にも第一部に蓄積された不幸は、第二部に重くのしかかることなく、浮遊する。二つの時代の因果関係は緩く、ぼやけているものの、その間にはほとんど見えないながらも小さな道が通っている。
 10代のパメラを演じる若い女優コンスタンス・ルソーは、繊細なる優雅さと、磁器のような儚さで、護持された温情と奇跡のような優しさを理想的に体現している。パメラはこの気まぐれな父との関係を清算しようとすることはない。彼は再び現れ、彼女は手を差し伸べる。確かにこの映画にはルサンチマンが通りぬけていくものの、それは主人公パメラを貫いているわけではない。それが貫く場所はやはり映画そのものであり、とりわけ作品の後半において、母親に与えられる驚くべき役割においてそう述べることができる。前半では感動的かつ威厳のある犠牲者の立場だった彼女は、後半では物語のごく周辺に追いやられることになる。彼女の新しい夫でさえ、関係の修復や再建の意思があり、より立体的に描写され、密度のあるシーンが用意されている。まったく予期せず、言葉に表すことができないほど、『すべてが許される』は、許すことをしない母親を許すことがない。登場する度に、彼女は娘と一緒に昼食をとることも、元夫の葬儀が終わる前に手に持っているバラを棺に入れることもできず、漠然とした憤りの中で孤立していく。その行程は美しい宙吊りの瞬間まで続く。説話的な必要性のないそのシーンで、彼女は仕事場であるオルセー美術館へと向かい、ひとり歩みながら彫刻の中へと消えていくのだ。
 清算されることのないアネットの苦しみはこの映画の中で言及される権利を与えられないにせよ、彼女を打ちのめさない(いずれにせよ、父親とは違い、彼女に罪はなく、その選択は正当なものだが)というその決断には清さがあるだろう。説明されることのない、あるいは物語の設計上の選択によるのか、このほとんど非の打ちどころのない登場人物に対するこうした敵意は、主人公パメラの驚くべき許しの力以上に、この映画において心揺さぶる点である。それでは、過去から何が堆積しているのか? まさにそれこそミア・ハンセン=ラブという映画作家が大いに関心を持っていることだろう。『すべてが許される』のフレームの端で、子供たちを捉えた数々のショット、その中で、子供たちは、彼らの周囲を往来する大人たちの暴力に無関心であるように、 (彼らのあいだで、あるいは人形と) 遊び続ける。この映画は子供の想像力が作り出す安全であるけれど、多孔質な泡のような保護システムに魅了されている。しかし、(大人と子供の間は)一見すると断絶しているようでありながら、引き継がれていくものがある。パメラは、ヴィクトールから、その中味(存在論的重さや文化的世界)というよりも、むしろその態度、無重力とのある種の関係性、歩くこと、散策することですべてを横断していくその振る舞いを引き継ぐ。娘と父、彼らはこの映画で登場する時、ほとんど移動している(父は売人を探したり、たんに庭や街をさまよったり、つねに通路や敷居の上にいる。それに対して、母は、定まった場所、空間によって認識される)。
 最後のショットが素晴らしい。パメラはテラスで食事をしている家族のテーブルを去り、フレームの中へと進み、不穏なほど緑濃い森の前で姿を消す。彼女はその森で妖精や狼に会うのだろうか? それまでやすやすと抑えられていたかのように見えていた世界の暴力がその端で待ち受けているのだろうか? いずれにしても、この暗闇の予感とともに、この魔法のような明澄さを湛えた本作は幕を閉じる。ミア・ハンセン=ラブの次回作が待ち遠しい。

『レザンロキュプティーブル』2007年9月26日号


すべてが許される

フランス=オーストリア/2006年/105分/カラー/デジタル/日本語字幕

監督:ミア・ハンセン=ラブ
出演:ポール・ブラン、コンスタンス・ルソー、マリークリスティーヌ・フリードリッヒ

ウィーンで妻のアネットと幼い娘パメラと暮らすヴィクトールは、仕事もせず、放埓な生活を送っていた。パリに戻ってもそれは変わらず、ついにアネットは娘と一緒に彼の前から姿を消す。それから11年後、パリで母と暮らしている17歳になったパメラは、ある日、同じ街に父が暮らしていることを知り、会いに行くことを決意する...。
ミア・ハンセン=ラブが25歳で撮った長編デビュー作。自伝的要素からスタートし、場所や俳優の「今とここ」を捉えながら、語る対象への洞察力に富むその距離感は、すでに成熟した才能を感じさせ、その年の最も優れた新人に送られるルイ・デリュック賞を受賞。また長編二作目『あの夏の子供たち』では、2009年カンヌ国際映画祭ある視点部門審査員特別賞を受賞。確実に大きな存在として成長し続け、新作『Bergman Island(原題)』は今年の同映画祭コンペティション部門にてベールを脱ぐ。

2021.7.17(土) - 8.1(日) 特集 カンヌ国際映画祭とフランスの女性監督たち


  • 『すべてが許される』ミア・ハンセン=ラブ 梅本洋一