« previous | メイン | next »

September 11, 2021

『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介
中村修七

[ cinema ]

sub8.jpg 濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』を見て、ここにはワーニャ伯父さんと2人のソーニャがいる、と思った。この映画は村上春樹の短編小説を原作とするが、濱口が「もう一つの原作」と述べるほど、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』が重要な位置づけを担っている。
 途方もなく豊かな魅力をもつ傑作である『ドライブ・マイ・カー』をめぐっては既に多くの言葉が費やされており、これからも多くの言葉が費やされていくだろうが、ここではワーニャと2人のソーニャという観点から書いてみたい。
『ドライブ・マイ・カー』においてワーニャと重なり合うのは、言うまでもなく、主人公である家福悠介(西島秀俊)だ。彼は、舞台でワーニャを演じた経験があり、ワーニャのセリフの部分だけを抜いて妻が朗読したテープを愛車で聞き続けている。愛する妻を亡くしたのちの彼は、中年のワーニャが伴侶もなく失意を抱えて生きていかなければならないように、喪失と悔恨を抱えたまま生きることとなる。
 彼の前に現れる1人目のソーニャは、『ワーニャ伯父さん』のためのオーディション会場で姿を現す。韓国手話を用いる女優のイ・ユナ(パク・ユリム)は、そこでまさしくソーニャを演じる。演じられるのは、医者から盗んだモルヒネを返すよう、ソーニャが伯父のワーニャに説くシーンだ。家福の目を見つめながらイ・ユナが操る手話は美しく、心の奥深くに語りかけてくるかのような説得力がある。もともとはダンサーだった彼女に流産の経験があることが、のちに明らかとなる。
 2人目のソーニャは、主人公の愛車である赤いサーブ900の寡黙な運転手として初めは現れる。アキ・カウリスマキの『希望のかなた』において喫煙者たちが共に煙草を吸いながら連帯を築き上げていたように、家福と運転手の渡利みさき(三浦透子)は共に煙草を吸う回数を重ねるごとに信頼関係を築いていく。さらに、煙草は、人物たちを繋ぐ媒介となるだけでなく、亡くなった者を弔う際には生者と死者を繋ぐ媒介ともなるだろう(最近の映画でここまで喫煙シーンが多い映画は珍しい。僕自身は非喫煙者なのだが、煙草を厭う近年の風潮を反映して、映画でも煙草が魅力的な小道具として用いられることが少なくなっているのを残念に思う)。
 家福が心の傷を克服しなければならなくなった時、2人は、渡利の生まれた北海道の寒村へと向かう旅に出る。そして、チェーホフの戯曲において、自らも哀しみを抱えるソーニャが伯父であるワーニャを励ますように、実家が雪崩事故の被害を受けた際に母を見殺しにしたという自責の念をもつ渡利は、家福が再生へと向かう決定的な役割を果たす。雪に埋もれた家の跡を見下ろしながら2人が身体を寄せ合う姿が印象に残る。恋人でも夫婦でも親類縁者でもない、親子ほど歳の離れた男と女がこのように身体を寄せ合う姿をかつて映画で見たことはあっただろうかと考えてしまうほどだ。
 ところで、家福悠介の妻である音(霧島れいか)は、『ワーニャ伯父さん』におけるエレーナと重なり合う。2人は互いに愛情を寄せる夫婦生活を営んでいる。けれども、夫の側は、愛情だけではなく、意識することを避けてはいるものの、怒りや哀しみの感情を妻に対して抱えている。それは、ワーニャが、いじましく恋情を訴えるかと思えば時に憎まれ口を叩いてしまうような複雑な感情をエレーナに対して抱いているのと似ている。そのため、妻を亡くしたのちの家福は、ワーニャを演じることが困難になる。エレーナに向かってワーニャのセリフを述べる時、彼が妻に対して曝け出すことができなかった感情が込みあげてきてしまうからだ。彼は、ワーニャのセリフを口にすることで胸の奥に隠していた妻への感情が表に出ることを恐れ、ワーニャを演じることを避けるようになる。彼が再び『ワーニャ伯父さん』の舞台に立つためには、妻に対して抱いていた感情を曝け出すまでの厳しい旅を経なければならない。
 映画は、終盤に至り、舞台で演じる役者たちを映し出す。『オープニング・ナイト』の終盤でジーナ・ローランズとジョン・カサヴェテスが舞台の上で恩寵のような時間を作り出していたように、家福とイ・ユナが演じる舞台の上でも救済と言うべき美しく静かな時間が訪れる。舞台と観客席には、妻を亡くした男と流産の経験がある女と母を亡くした女が揃う。この3人は、喪失を乗り越えて生きていくことを心に決めている。それは、辛く苦しいことがあっても生きていくという『ワーニャ伯父さん』の主題と響き合うものだ。チェーホフの戯曲においてワーニャはソーニャの哀しみの理由を知らない。一方、濱口竜介の映画においてワーニャ(家福)は2人のソーニャ(イ・ユナと渡利みさき)の哀しみの理由を知っている。だからこそ、『ドライブ・マイ・カー』に訪れる救済は大きく感じられる。

全国ロードショー中

【関連記事】
  • 特集『ドライブ・マイ・カー』