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November 6, 2021

『三度目の、正直』野原位
池田百花

[ cinema ]

 かねてから子供を持つことを望んでいたがその機会に恵まれなかった春は、再婚した夫の連れ子が留学に旅立ったのをきかっけに里親になることを考え始めていた。そんな時彼女は、偶然道で倒れていた青年を見つけて保護し、心的なショックが要因で記憶を失ったと考えられる身元不明の彼を半ば強制的に引き留め、母と息子のような関係を築こうとする。春は、この青年の意識が戻って何よりもまず、彼に、生人(なると)という名前で呼んでもいいかと尋ねるのだが、この映画全体が、ある種、個人の名前をめぐる物語であるように感じた。
 こうして、春と生人の親子関係は、命名するという行為から始まり、彼女が、まったく素性のわからない青年をいきなり生人と呼ぶようになることに、周囲の人々は違和感を露わにする。そもそも、生人というのは、春が別れた夫との間に死産した子供、つまり彼女にとって「一度目」の子供につけていた名前だった。しかし、人が生まれて親と子の関係が始まる時も、私たちには当たり前のように名前が与えられていて、誰もが、自らの属性と何ら関係性のない固有名を与えられるや否や、その名前で呼び続けられるほかないということ自体、奇妙なことではないだろうか。
 生人という人物をめぐる名前の問いは、物語の中盤、春が彼と親子のような関係を築きかけていた頃、彼の実の父親を名乗る人物が現れるところから、さらに発展していく。父親は、春が生人と名付けた人物を明(あきら)という名前で呼ぶのだ。父親が言うには、性格においても生人と明は対照的で、生人にはいつも寂しげな印象があるのに対して、明は(といっても、父親は10歳までの彼のことしか知らないのだが)太陽のように明るい子だった。一方、ふたつの名前で呼ばれる彼のほうは、どちらが自分なのか、あるいはそのどちらも自分ではないのか、わからない。明という名前を叫びながら近づいてくる父親に対して、彼が逃げようと必死で坂道を駆け降りていくショットに象徴的に表われているように、この時の彼はまだ、わからない、一種の脅威のようなものとして迫ってくる名前から逃れようとすることしかできない。
 自分が誰なのかわからないという問いは、記憶を失った生人/明だけでなく、春の兄弟の妻・美香子にも通じる。彼女は、精神的に不安定な状態から回復しているように見えた矢先、自分に対して好意を寄せている春の夫と共に一晩姿を消し、その夜ひとりでいるところを補導される。迎えに来た夫との帰りの車の中で、彼女は彼に対して、自分が誰なのか、隣にいる夫が誰なのか、自分の人生に何が起こったのかわからないと取り乱しながら訴えるのだ。しかしそれは、この瞬間まではラッパーの夫が紡ぐ歌詞を書き起こすのを手伝い、彼の言葉を反復する存在でしかいられなかった美香子が初めて自分自身の言葉を発する場面でもある。
 映画の最後に、『三度目の、正直』というタイトルが、Third Time Luckyという英語とともに示されるのを見て、結局、里親になることを考えるほど親になることを諦めきれなかった春にとって、生人との出会いが「幸運」という次元で語れるほどの出来事だったのか、彼女の思いの強さとこの言葉の持つ軽い語感との齟齬がしばらく引っかかっていた。個人の持つ思いの強さに関わらず、親と子の関係性はそれくらい運に委ねられていて、両者を結びつけているのも、私たちが信じているほど強固なものではないということなのだろうか。映画の中でも、生人/明は、春のもとにも父親のもとにも戻ってくることはなく、ふたりも、自分たちから自由になろうとする彼を追いかけることはない。こうして、生人/明だった彼は、その名前が誰をも名指さなくなり、誰でもない非人称的な人物になる時初めて、生き始めることができるようになるのかもしれない。しかし、同時に、ここで最後に彼がひとりで立っている海の場面で、私たちは、同じ海を前にしてふたりが並んで話していた映画冒頭の光景に送り返される。それは、あの日、春がいちばん好きな場所だと話していた海で、彼が誰であっても誰でもなくても、彼の中に春との時間が刻まれていることは、少なくとも確かなこととして思い出すことができる。

第34回東京国際映画祭にて上映