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November 9, 2021

第34回東京国際映画祭日記③

[ cinema ]

2021/11/6
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カルトリナ・クラスニチ『ヴェラは海の夢を見る』©Copyright 2020 PUNTORIA KREATIVE ISSTRA | ISSTRA CREATIVE FACTORY

◆土曜日夕方の銀座。もう日は暮れているが、街はおしゃれをして闊歩する人でいっぱいである。そんなキラキラした大通りを曲がり、シネスイッチ銀座のある銀座ガス灯通りに入る。少し通りの様子が落ち着いただけでも、この街特有の緊張感から解き放たれたように感じる。
 カルトリナ・クラスニチ監督の『ヴェラは海の夢を見る』を観た。男性優位社会および権力に立ち向かう女性ヴェラの葛藤と苦悩が描かれた作品である。コソボという国の社会情勢が背景にあるが、予備知識を必須とはしない作品であると思う。ヴェラの苦しみと抵抗は、万国共通のものではないだろうか。
 タイトルにも含まれている、「海」は幻想や夢としてヴェラの前に立ちはだかる。穏やかに波打つ海や、海の中に漂っているようなイメージが浮かび上がる。特に後者の場合は、ボコボコと鳴る水音と地上での荒い呼吸音が混ざり合って聞こえてくる。溺れているような、そうでないような...。闘う彼女の心の状態を反映したものが、海なのである。
 世代間での女性のあり方への認識の違いも描かれている。ヴェラの娘であるサラが、そのことを追及する場面がある。いわゆる良妻賢母であること、家事ができて前に出過ぎずにいること。そういったことをサラは母から教わってきたのだと話す。このことは、ヴェラが若い頃から正しいと信じてきたことだったが、彼女自身も変わらなければならないと心の底でわかっていたはずである。そのシーンから、家の中でヴェラが椅子に座っている前にアイロンが映ったショットが想起された。このアイロンとは、ヴェラに長年付きまとっていた社会の慣習や価値観の象徴のようである。彼女はそこから離れようとしたのだから。
 またヴェラの手話士の仕事自体が、彼女の最大の「武器」であるということがクリアに証明されていく。少し理想主義的過ぎるかもしれないが、それくらいの頼もしさと力強さに、これからの社会に対する希望に見せかけた願いのようにとらえられた。
 さて上映が終わると、映画館を出てすぐに駅へと向かった。『銀座カンカン娘』の発着メロディーが、銀座線銀座駅のホームに響き渡る。電車に乗り込んでから、この歌の歌詞でこういった箇所があることを思い出していた。
「家はなくてもお金がなくても 男なんかにゃ騙されまいぞえ」
...まさにこの歌詞は、今回鑑賞した作品の主人公ヴェラの意志に通ずるものがあるのではないか。コソボという国とかけ離れた、ここ銀座という街の中のままで作品に思いをはせたまま、自宅にたどり着くことができた。(井上千紗都)
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サンジーワ・プシュパクマーラ『ASU:日の出』

◆この日最初に見たのはサンジーワ・プシュパクマーラ監督『ASU:日の出』。彼の作品を見るのは初めてだ。乳癌に冒された女性の闘病の物語である。ショットは原則的に人物の全身を収められるくらいのサイズで、壁面に正対したアングルを保っている。監督のスタイルなのだろうか。厳しく限定された視点による一種のタブローを志向している以上、心理主義的な撮影からは距離をとっているのだろうと最初は思うが、必ずしもそうではないらしいことがわかってくる。一つ一つのカットの時間はそれほど長くなく、キャメラは頻繁に視点を変える(もちろんウェス・アンダーソン的なリズムと誇張によるユーモアとは異なる)。女性とその家族の懊悩が伝えられる経路は第一に彼らの顔で、表情の演技を排除しようとはしているものの、まだどこかに名残を感じてしまう。採光にすぐれた邸宅の部屋の映像は確かに美しい。けれど、画面の構図を重んじるわりにはキャメラの眼が人々に対し透徹したものにはなっていないような気がする。
 結論は道徳の教科書的なところに落ち着く。映画の冒頭から自己犠牲をテーマとする帝釈天とウサギの説話がモチーフであることが示されている。エンドクレジットによると、どうやら実在の女性がモデルになっているようだ。彼女の人生をある価値観によって肯定したいという思いは伝わったが、やや一本調子にすぎるという感想が残った。

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クララ・ロケ『リベルタード』©Lastor Media

 どこか洒落た店で昼飯でも、と思ったがビタミン不足のせいで無性に大量のサラダを食べたくなり、ガストに駆け込む。一度大学に行って課題を済ませ、慌ただしく銀座に戻って見たのはクララ・ロケ監督『リベルタード』
 主人公のノラは横たわる人だ。ベッド、芝生、プレジャーボート、そしてプールの水面でも、いつも気だるそうに四肢を投げ出している。人の横臥の姿を撮るのは意外と難しい。アングルが限られているし、下手をすると死体のようになってしまったりする。その点、この映画は実に生き生きと彼女をとらえていると思う。男性の視線がほぼ介在していないのもすがすがしい。
 ノラが寝転がってばかりいるのは、彼女がバカンスで連れて来られた祖母のいる別荘に退屈しきっている証拠だが、そこには高貴なやすらかさといったものがある。それに対して、ノラが出会う別荘の家政婦の娘リベルタードはいつも活発に動き回っている。彼女につられてノラは起き上がり、知らない世界に足を踏み入れる。また一方では、二人で出かけたクラブから帰った夜更けにリベルタードがノラのベッドに上がり、添い寝することで、彼女たちは対等の関係を結んだように見える。ところが両者の厳然たる「身分」の差は再び顕在化する。翌朝、家政婦であるリベルタードの母はノラのベッドから娘を起こして引き離す。このとき、彼女の髪の青く染められた毛先が逆光となった朝日によって輝くのが美しく、切ない。その後も二人の格差が動と不動の所作の違いで示され(たとえば、食卓についたままのノラと彼女の皿を下げるリベルタード)、それは最後の瞬間まで固定された状態で終わる。
 人々の関係の消失点にいる認知症の祖母も含め、登場人物は皆とても魅力的だし、グリス・ジョーダナのキャメラも素晴らしいのだが、ノラとリベルタードの関係に「うねり」が乏しい感じがして、また「どこかで見たことある」という印象をどうしてもぬぐい切れず、少し物足りなかった。(作花素至)
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◆毎日、何本も見てしまい、さすがに映画祭疲れ。数年前なら無限に見続けられたし、いつぞやの山形国際ドキュメンタリー映画祭のときは、朝から晩まで移動時間も含め綿密にスケジューリングして、上映作品を見られる限り見て、飲みにも行っていたにも関わらず、ホテルに帰ったあとに、持ち込んだPCで他の映画を見たりしていたことが友人・知人にバレて、「かわいそう」などと憐れまれていた。その頃と比べると、だいぶ体力が落ちた。そのため、最後の4日間は、11/6(土)に1本を見ただけ。
 シネスイッチ銀座2で、ワールド・フォーカスの『リベルタード』(クララ・ロケ)。主人公は15歳の少女ノラ。彼女は自分の家で雇っている家政婦の娘であるリベルタードと出会い、仲がよくなる。しかし、ふたつの対立構造が、登場人物たちの関係に、絶えまない緊張を張り詰めさせる。そのふたつの対立とは、雇用者であるノラ一家と雇われているリベルタードの母の身分に基づく階級関係、そして、母と娘の相剋だ。母娘関係は、ノラとノラの母、ノラの母とノラの祖母、リベルタードとリベルタードの母の3つが起点になる。
 忘れられないシーンがある。リベルタードとノラがたがいの後ろ髪を背中合わせで三つ編みに結び合う。家政婦として従順に仕事をこなす母に苛立ったリベルタードは、母の「家事を手伝え」という求めを無視し、ふざけたように笑いながら結ばれた髪で繋がったリベルタードをプールの方へ引っ張っていく。プールに落下する寸前でことなきを得るのだけれども、ノラの母はリベルタードを叱ることはせず、ノラを叱る。家政婦の娘を叱ることはせず、階級が上のものとして、寛容に振る舞うその姿がむしろ痛々しく、ノラとリベルタード、そしてそれぞれの母のあいだにつねに曖昧な緊張が張り詰めている。また、もしプールに落ちていたら、ノラとリベルタードも溺死していたかもしれない。それでも、プールにノラを引きずり込もうとするリベルタードが発する笑い声は、同世代の少女を道連れに死んでやろうというネガティヴな感情とは違う、こう言ってよければ、どこか「情死」を希求する者の投げやりな笑いのようにも聞こえた。物語はノラの認知症の祖母を中心に収束していき、彼女らのひと夏の記憶として苦い爽快感(矛盾した言い方だけれども)を残して終わる。大好きな映画だった。(鈴木史)


2021/11/7
◆夜は働いているバーを開けなければいけないのだけれども、出勤前に、イザベル・ユペールさんと濱口竜介監督のトークセッションの録画を見た。映画の出現とフロイトの精神分析の出現が同時期であること、バルザックの『幻滅』の登場人物リュシアンが「言うことがあるのと同じくらい、言わないことがある」と語ることなどを雄弁に話すユペールさんが、濱口監督の『ハッピーアワー』について、登場人物である芙美という女性が、「彼女はいつも下を向いている。俯いて、視線が下を向いている。それを見ると私は、彼女が考えているということがわかる。彼女の思想が動いていることがわかる」と言ったことに深く感動した。(鈴木史)
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アンドレア・アーノルド『牛』© Kate Kirkwoo

◆私は何より生き物が好きだ。映画の仕事をしていなければ、動物園の飼育員か獣医師になっていたかもしれない。そうした個人的思い入れもあり、また東京国際映画祭の開幕前からここまで話題になっている作品を観ずに終わるわけにはいかない。もうだいぶ評価も出揃っているようではあるが、それでもあの黒くうるんだ瞳がみつめている世界を私のものにしたい。こうしてまたもや前のめりに、『牛』の最終上映に駆け込む。上映前、銀座中央通りにあるドトールのやや高級な店舗ル・カフェドトールに入って、飲んだこともないローズヒップ&ハイビスカスティーという、健康に良さそうなお茶を頼む。「甘い味のするお茶です」と言われたが、酸味が強くてそんなに分からない。これで540円。もっと分かりやすいスイーツや紅茶でなければ、自身のような味音痴にはもったいない代物だった。そんなことを恨めしく考えながら、少しだけ空いた時間をつぶし、シネスイッチ銀座へと足を運ぶ。
 さて、期待値大のアンドレア・アーノルド監督『牛』である。冒頭から酪農場の作業員たちに繰り返し呼ばれるその名で、そうか、この主人公牛はルマというのか、と刷り込まれる。6回の出産を経ているという彼女は、牛の年齢としてはそう若くないと思うが、それでも前日アーノルドの過去作である『フィッシュ・タンク』(2009)を観た私は、隈元さんが「牛のいる酪農場がパーティーシーンに見えてくる」と書いていた意味がよく分かる。たしかに牛がギャルたちのようなのだ。
 搾乳器とリズムを合わせるような曲の使い方が心地よい。何より、作業員のラジオか何かからポップソングが聞こえてきているというよりも、『フィッシュ・タンク』で主人公の少女がダンスを踊りながらCDを聴いていたように、牛自らが聴き、まるで口ずさむ体で鳴き声を発しているように見える。こうしたショットや音楽はドキュメンタリーのような静謐な流れに映え、たしかに感情がくすぐられる。
 それでも、何か真正面から心を掴まれなかったのはなぜだろうか。おそらく生き物の無表情に人間の感情を仮託することについて、観進めるうちに生じた、倫理観の発露なのだと思う。作劇やルックといった、映画の要素以前の問題で評価してしまうのは正しいのか分からないが、それでも私はこの映画を受け止めるのが難しい。(荒井南)
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テオドラ・アナ・ミハイ『市民』©2021 Menuetto/ One For The Road/ Les Films du Fleuve/ Mobra Films

◆最終日が残っているが、映画祭に参加するのは今日まで。FILMeXの『時代革命』とさんざん迷った挙げ句、テオドラ・アナ・ミハイ監督『市民』を選んだ。理由はよく覚えていない。Twitterでどなたかが言っていたように、TIFFとFILMeXが合体しているはありがたいのだが、今回のように完全な同時開催だとどの作品を見るかで苦渋の選択を迫られる場面が多かったので、少しずらしてもらえないかな、などと勝手なことを考えていた。
 『市民』は犯罪が多発する町で娘を誘拐された母親シエロの物語である。彼女の顔がしばしば赤く照らし出されるのが印象的だ。そのとき顔は恐ろしい事態に直面してすっかり凍りついているのだが、その内側に不安や覚悟や、その他筆舌に尽くしがたい思念の嵐を察知することができる。ペットのカメレオンのケージが開けられ、保温用の赤外線ライトの光が彼女の顔に反射するのは、娘の身を案じながら何もできず家にとどまっているときだ。また、犯罪組織によって自宅を銃撃され、自家用車から立ち上る激しい炎の前で駆けつけた兵隊を見つめる彼女の顔は、彼女自身と映画を次のフェーズへ移行させる、ある決定的な顔である。そういえば冒頭で、シエロが運転する自動車の前に誘拐犯たちの車が突然割り込んできたとき、その車のサイドミラーに夕日が一瞬鋭く反射したのも、彼女の闘いの始まりを告げる合図だったのかもしれない。
 シエロはなりふり構わぬ戦闘的な人物に変身し、軍に協力してまるで内戦のような暴力の現場にも赴く(アクションシーンは迫力がある)。未知の領域に飛び込み、真実に接近する高揚があることは否定できないだろう。ところが、結局は何の収穫もなく帰宅する羽目になる。シエロも観客も追い返されたような気分だ。家では何も知らない元夫が呑気に朝食を作ったりしていて、世界はどんどんぐらついていく。娘にはいっこうにたどり着けず、ましてや組織の全容などは皆目わからない。行動的な映画だが、決して安直な解決には向かわない不全や不如意の感覚こそが醍醐味であることがわかってくる。徐々に疲弊する彼女の顔は最後にはどんな風に変わるだろうか。
 TIFFとFILMeXの同時開催に注文をつけていたくせになんだが、実は、毎日のように映画祭に通ったのは今回が初めてだった。学校の文化祭も体育祭もほとんど行かなかったくらい「祭」が苦手だった。この1週間、プログラムで用意された華やかなところには行かなかったし、苦手を克服したとも思わない。それでも、何軒かの露店で買い食いをしてそそくさと帰るようなお祭りの参加の仕方だってそう悪いものじゃないという発見があった。(作花素至)


2021/11/8
ベネシアフレニア_© 2021 POKEEPSIE FILMS S.L. - THE FEAR COLLECTION I A.I.E.jpg
アレックス・デ・ラ・イグレシア『ベネシアフレニア』© 2021 POKEEPSIE FILMS S.L. - THE FEAR COLLECTION I A.I.E

◆映画祭最終日にどの作品を観るかは大事な決定である。私は『ベネシアフレニア』を選んだ。ジャッロ映画はだいぶ前に一本観て、流血量の多さと残虐さに頬が緩んだ記憶があったものの、それきりジャンルとしてフォローしていなかった。しかし今回、『気狂いピエロの決闘』(2010)のアレックス・デ・ラ・イグレシア監督がジャッロを撮ったと知り、あの三角関係の血なまぐささが忘れられなかったため、俄然興味がわく。早朝のシネスイッチ銀座へ。そういえば今回の映画祭で、シネスイッチ銀座の場所も明確に分かった。
 ヴェネツィアで観光を楽しむ若者が、一人ずつ殺害されていく『ベネシアフレニア』は、マスツーリズムで観光地の文化が変容することの批判を説きつつ、血みどろ描写、精神的に錯乱した秘密結社、探偵小説要素で70年代にオマージュを捧げた社会派ジャッロ。オープニングクレジットから音楽(聞き覚えがあると思えば火曜サスペンスのテーマに似ていた)、デコラティブな仮面といった、細部で創り出される世界観にのめり込んだ。伏線の回収や心理表現を望むのはナンセンスである。流血と悪趣味こそすべてと言わんばかりの狂気じみた演出を褒め称えたい。
たしかに過去作『気狂いピエロの決闘』で、1人の女を巡る2人の道化師の憎悪劇を執拗なまでに描いたイグレシア監督にしては、人間同士の関係描写が希薄だが、それこそが作り手のセンスが現実感覚にアップデートされている証ではないだろうか。たとえば、序盤で若者の1人が、スマートフォンを失くしてしまう。彼は個人情報漏洩が怖く、SNSやクラウドデータサービスを使っていない。その後、彼が拉致されてしまうと、たちまち捜索困難になる。この展開は、スマートフォンやSNS、クラウドデータでしか人間関係を存在証明できない現代に即しているばかりでなく、サスペンス映画のツールとしてオンライン/オフラインが大きく寄与することに監督が意識的だったことを示しているように思えるのだ。
 銀座インズのマクドナルドで長々と作業。私は家で原稿が書き進められない質なので、思ったよりも作業スペースの多い銀座エリアは今回とてもありがたいと感じた。新宿にはマクドナルドが少ないのである。夜、この映画祭ですれ違い続けたNOBODYメンバーの一人である鈴木史さんとついに落ち会う。夜マック限定のポテナゲ大をふたりでつまみながら、映画祭で観た作品の彼是、私が観ることが叶わなかった作品の魅力、また女性の書き手として、どう作品に向き合い言葉を選んでいくかについてなど意見を交わす。特に、今回私も史さんも書いていた『ムリナ』で、女性の身体をどうカメラでとらえていくかについて興味深く聞いた。いい映画祭の締めになった。(荒井南)
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◆映画を見るつもりはなかったけれども、前日働いていたバーにお客さんが忘れ物をしたので、それを届けに有楽町方面へ夕方向かった。結局、忘れ物は急ぎではないとのことで、その日は唯一対面ではご挨拶をしていないNOBODYの荒井南さんが銀座で原稿を書いているとのことでご挨拶にだけ行く。映画祭でおたがいにいろいろと見たあとだったので、感想を話した。選定されている作品に、女性監督や、女性であることそのものが主題のひとつになっている作品がやけに多かったことなど話し、最終的に帰りの電車でおたがいの日々の生活や家族のことまで話が拡がった。渋谷駅でわたしたちはそれぞれ別の電車に乗り、わたしの東京国際映画祭は終わった。(鈴木史)

第34回東京国際映画祭