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November 12, 2021

『記憶の戦争』イギル・ボラ
二井梓緒

[ cinema ]

  ベトナム終戦から40年以上が経過しようとしている。ベトナム戦争時における韓国軍による民間人虐殺の真相究明を求める市民平和法廷が始まろうとするカットで、映画は幕を開ける。原告として法廷に立つ赤いスカーフをした女性の緊張と不安の表情が目に焼き付く。
 
 ベトナム戦争時、韓国はアメリカの同盟国だったため、多くの韓国兵がベトナムに派兵された。そこでは当時9000人あまりの民間人の虐殺があったという説があるが、この件について韓国政府もベトナム政府も認めてはいない。そこで何があったのか、参戦軍人の孫である監督は残された人々に話を聞いていく。
 
 ファーストカットの法廷で不安げな表情であった「タンおばさん」をはじめとする虐殺の生存者は皆ぽつぽつと当時のことを穏やかに紡ぎ出す。家族のこと、当時の暮らしのこと。
 聴覚に障がいをもっているだろうおじさんは筆談で何かを訴えようとしている。手話と筆談で語る内容はひどく残虐なのに、口で「語らない」からこそ、彼が腕を振り上げその残虐さを表現するときに揺れる腕時計の音、もしくは外の物音や風の音がクリアに響く。
生存者が語るなか、ベトナムの景色、映し出される家々は穏やかで語られる内容とのギャップに引き込まれる。聞き出す力は監督によるものだ。劇中に露骨な描写はない。スクリーンの中で血は流れず、その代わりに語り手は涙を流す。

 ベトナムの景色からカットは変わり、タンおばさんは民間人虐殺の生存者としては初めて韓国を訪れる。再び苦しそうに当時のことを語る。涙はいくら流しても尽きることはない。一方その後のカットでは当時韓国からベトナムへ派兵された自らを「参戦勇士」と称する者たちがデモを起こし、彼らがそれぞれ語る様子が映される。 その対比。
 異なる記憶は交差する。歴史的に隠蔽された当時のことを知る者がいなくなったら、これらの記憶はどこへ行くのだろう。歳も性別も関係なく、「知ること」に意義があるのではないか。そしてこれはもちろん日本に住む私たちにとっても他人事ではない。慰安婦問題をはじめとする隠蔽された過去を知る権利は誰にでもあるはずだ。数年前のインタビューのなかでは監督自身が本作の日本での上映を望んでいた。また、前述の「参戦勇士」たちのように、あたかも「男」が行い「男」が語るものであるかのようにあつかわれる戦争を、本作は女性クルーだけで撮影している。監督は本作を制作後、『OUR BODIES』という女性の身体と生産権にかんする映画を撮っている。
 監督であるイギル・ボラの祖父も自らを「参戦勇士」と称しているという。ただでさえ隠され、言及されにくいテーマをその加害者側であった者の孫が撮るというその姿の真摯さに驚く。また、彼女の前作『きらめく拍手の音』は聴覚障がいの両親をテーマにしたものだった。音のない世界を生きる両親を娘の目線から切り取っていた。その両親の存在があったからなのか、本作で登場する聴覚に障がいを持つおじさんをはじめとして、全体を通して生活音や些細な音が響き渡るような編集は、音のない世界と音のある世界を行き来するかのようなひとつのスタイルを編み出しているようにも感じ取れる。彼女の映画づくりは自分の身に極めて近い場所から始まるのかもしれないが、声高に当事者性を打ち出すことはない。ただ彼女は粛々と、声にならない人々の声を拾っていく。

ポレポレ東中野にて上映中