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January 28, 2022

『街は誰のもの?』阿部航太
金在源

[ cinema ]

machidare_press1.jpeg 原風景と言うのだろうか。過去を振り返ったとき、あの日の街、匂いや緑、そしてそこにいた人々が浮かび上がる。わたしがあの瞬間切り取って胸にしまった風景はもう二度と同じ形でわたしの前に現れることはない。
 『街は誰のもの?』は監督が2018年10月から2019年3月の半年間ブラジルに滞在した中で出会ったグラフィテイロ(ブラジルにおけるグラフィティライターの呼称)やスケーター、民衆によるデモやカーニバルを追ったドキュメンタリーである。グラフィティとは、スプレーやペンキなどを用いて、街の壁や電車などの公共物に描かれた絵や文字のことである。ブラジルでは2006年に商業広告の規制により街に空白の壁が溢れたことでグラフィティが描かれるようになった。その行為はブラジルだけではなく日本を含めほとんどの国で違法となっているが、ブラジルでは多くの市民から受け入れられている状況に街の懐の深さを知る。一人のグラフィテイロが街を歩く姿を後方からカメラが追う。ふいに周囲を気にしはじめ、持っていたカバンからスプレー缶を取り出し壁に吹きつける。あっという間にひとつの作品が完成する。描くスピードと警察に見つかるのではないかというスリル、描き終えたときの達成感に見ている側もカタルシスを覚える。彼はグラフィティを描く行為について「この街に存在したかったんだ」と語る。グラフィテイロたちが描く絵は黒人、同性愛者、抱き合う人々、ドラゴンとさまざまである。込められた思いも十人十色だが彼らは「街の風景をつくっている」という共通した意識を持っている。そのような視点で描かれたグラフィティを見たとき、それらは街から発露したこの世界に対する祈りのように見えてくる。作中何度もブラジルの路上や広場が映される。スケーターたちが当たり前のようにトリックを決めているその横で座って談笑している人、散歩する人が一つの画角の中に存在していることに感動する。
 グラフィティやスケートボードは「ストリートカルチャー」と称され、1970年代にアメリカの路上で生まれた。この「ストリート」という言葉を的確に表現できる日本語は存在していない。面白いことにブラジル(ポルトガル語)では「rua(フーア)」という単語で路上とストリートの両者を言い表すらしい。昨年強行された東京オリンピックではスケートボードが新種目として加わり、ストリート競技で13歳の選手が優勝した。日本でもメディアが大きく取り上げ話題となった。また神奈川県川崎市では「ストリートカルチャーを活用したまちづくり」と称して複数のアーティストが本庁舎の工事現場の囲いにグラフィティを描くプロジェクトが行われた。これは一体どう受け止めればいいのだろう。ストリートカルチャーとは権力が生み出した格差や差別に対して、民衆がプロテストし、抑圧を押し退けて自己表現をしていく過程で生まれてきたものではなかったか。その事実に目を伏せたまま、権力側がその上澄みだけを消費する姿勢に強い違和感を覚える。自分たちの街に目を向けると公園には「スケートボード禁止」の張り紙や看板がそこらじゅうにあり、壁にグラフィティを描くことへの理解はされないままだ。それらは街の雑音として存在を見えなくされる。公共の空間が誰のものかを語るとき日本では「みんなのもの」という意識が強い。公教育の中では和を乱さない存在であれということを繰り返し教え込まれる。学校現場で「社会生活を営んでいく上で大切なことは?」という質問を投げかけると、多くの子どもから「ルールを守る」「迷惑をかけない」と答えが返ってきたことに驚いた経験がある。みんなとは誰なのだろうか。人は自分が排除したいものに対峙したとき自分よりも大きな存在を出して理由を正当化する。「みんな、法律、政府がそう言っている」のだと。日本に住むわたしたちが「みんなのもの」と語るとき、その多くは「誰のものでもない」という言葉の言い換えではないだろうか。わたしという主語を消失させながら何か大きな姿の見えない存在に帰属させようとする。そこにはわたしという主体を失った「みんなの街」が実体のない幽霊のように浮かび上がる。
 本作に登場するリオデジャネイロのグラフィテイロは壁に描く行為を「手放すこと」だと口にする。描いている間は自分のものであるが、作品が完成するとそれは自分のものではなく街のものになるという彼の思いにハッとする。対してわたしたちは「わたし」が存在していないみんなのものを簡単に手放せなくなっているのではないか。実体のないみんなに路上に生きる生身のわたしたちは抑圧され、それはわたしという個をまるでないもののように透明にしていく。一方ブラジルのグラフィテイロたちが描く「無許可でありイリーガルであることが前提」の絵は描き手の個を強く感じさせる。多彩な色使いやデザインは街が多様であることを自然と表現しているかのようである。そしてわたしのものであったグラフィティが街の中でわたしたちのものとなるとき、手放すとは「分け合う」ことだと気付く。「街の風景を変え、人の関係を変えていきたい」と語るグラフィテイロ、「自分たちでこの場所を守る」と話すあどけなさの残る少年、「路上の民衆が独裁者を倒す」と叫ぶ人々の姿は生きることにみんなの許可など必要ではなく、路上にいるわたしが街そのものであり変革の力を持っていることの宣言のようだ。
 住んでいる街を歩いてみる。子どもが減った公園。閑散とした商店街や繁華街。マスクをつけ表情が隠れた人々。外に出ることが良しとされない社会。かつてそこにいた人々の存在や息遣いがより感じられなくなったのは気のせいではないだろう。ありのままのわたしがその場所にいる街の風景を「わたしたち」は取り戻せるだろうか。

2月11日(金・祝)より京都みなみ会館、2月12日(土)よりシアターセブンにて上映