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February 8, 2022

『クライ・マッチョ』クリント・イーストウッド
山田剛志

[ cinema ]

 盛りを過ぎた老人がひょんなことから血の繋がらないヒスパニック系の少年の護送を託され、ボロボロの車で追っ手から逃げ切り、少年を肉親のもとに送り届けるーー。
 新年早々、都内ではよく似たプロットを持つ2本のアメリカ映画が立て続けに封切られた。先陣を切ったのは、イーストウッド作品で長らく助監督、プロデューサーを務めた経験を持つ、ロバート・ロレンツの長編第2作目『マークスマン』(主演はリーアム・ニーソン)。その約1週間後に公開されたのが本作『クライ・マッチョ』である。
 両作を同じ日に公開順で鑑賞した筆者は、期せずして、役者・イーストウッドによる正反対の印象を与える愛の表現を、スクリーンで立て続けに目にすることになる。というのも、『マークスマン』では、イーストウッド主演の西部劇『奴らを高く吊るせ!』(1968)の映像が引用されているのだ。
 マフィアに追われる身となった退役軍人のリーアム・ニーソンとメキシコ人少年が場末のモーテルに腰を落ち着けテレビを点けると、粒子の粗いブラウン管画面に映し出されるのは、やに下がった顔の若きイーストウッドである。イーストウッドは白昼の野原で茹で卵を頬張っている。そしておもむろに傍らの女を抱き寄せ、唇を押しつけるのだが、口に含んだ卵を飲みくだす描写(間)が省略されているため、その様子はまるで、男から女への口移しによる餌付けのようである。
 上記の映像は、ブラウン管を見つめるリーアム・ニーソンと少年のポカンとした表情に切り返される。緊迫した展開を緩和させたかったのだろうか、どうやら引用者はその荒っぽく、専制的な愛の身振りを冷笑すべきものとして指し示しているようである。しかし、それを私は笑うことができない。なぜなら他者に愛を伝える行為は、往々にして他者を支配する行為と分かち難く、時には暴力的な形をとることを、人気D Jのファンからストーカーに転じる女性の狂気を孕んだ愛を描いた『恐怖のメロディ』(1971)を嚆矢とする、イーストウッドの諸作品を通じて知っているからだ。
『マークスマン』で引用されている、粗野で独り善がりなキスシーンに辟易した直後に観たからだろうか、『クライ・マッチョ』で描写される繊細で広がりのある愛の表現には心を動かされた。
決して明示的でインパクトのあるラブシーンがあるわけではない。引退した元カウボーイを演じるイーストウッドは、メキシコの小村で食堂を営む女主人(演じるのはナタリア・トラヴェン)と思いを寄せ合うことになるものの、母国語を異にする2人は言葉で愛を伝え合うことはなく、キスシーンは一度だけ、ロングショットでごく慎ましく描写されるのみである。本作では言葉や口づけによってではなく、もっぱら手の働きによって愛が表現される。
イーストウッドが女主人の腰にそっと手を添わせ、ボレロのリズムに合わせてゆったりとステップを刻むシーンと、聴力のない少女と手話を通じて心を通わせ合うシーンは、どちらも同じくらい感動的である。「土曜の夜に焼いて食っちまうぞ」などと乱暴な言葉を吐きながら、旅の相棒である軍鶏のクライマッチョを優しく撫で、病に伏した動物たちに手をかざし、荒馬の背をさすって瞬く間に手懐けてしまうシーンもまた、等しく感動的である。列挙していて気づいたのだが、筆者はどうやら、それらのシーンが等しく感動的であるという事態に、すっかり心を動かされてしまったようである。ともかく、そのような事態をもたらしているのは、無数の皺が刻まれ、ほとんど"第二の顔"と化したイーストウッドの手の働き、その"ハンドパワー"である。
イーストウッドが手を通じて蜜月関係を築くのは、人間や動物にとどまらない。車もまたそうである。などと言うと牽強付会が過ぎるかもしれないが、盗難車を含む4台もの車を乗り継ぎ、老練のハンドル捌きで事もなげに自分のものにしていく姿は単純にカッコいい。また、本作の時代設定が、オートマチック車が広く普及する以前の1970年代前半であることを嬉しく思う。マニュアル車特有のシフトレバーを操作するイーストウッドの右手の動きがとても魅力的だからだ。
ここまでもっぱらイーストウッドの手の動きにフォーカスすることで『クライ・マッチョ』の魅力に迫ってきたが、メインキャストである少年・ラフォへの言及がほとんどないことに、遅巻きながら気がついた。女性やその子供たち、動物や車に対してさえ、手を通じて有機的な関係を築いていく本作のイーストウッドだが、ラフォに対しては常に一定の距離を保って接しているのだ。それはラフォを愛していないから、ではないだろう。そうではなく、愛することが他者を支配する行為に直結することを、イーストウッドが痛いほど理解しているからではないか。とりわけ、愛する対象が未だ自立していない存在である場合、強すぎる愛情表現は両刃の剣である。ラフォを自らの支配下に置こうとする彼の母親も、彼女なりの流儀で息子を愛しているのではないか。手を通じた愛情表現と対照的な、厳しさを孕んだ、距離による愛情表現とも言える何かが、本作の魅力の根幹にあるのではないか。そのことを確認するためには、もう一度『クライ・マッチョ』を観に、劇場に駆けつけなければいけない。

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