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March 14, 2022

『オリヴィア』 ジャクリーヌ・オードリー
板井仁

[ cinema ]

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C)DR
 森は、社会の外延をかたちづくる境界としての役割をはたしながら、それじたいが社会の外部としてあり、どこからが森であるのか、はっきりとした輪郭をもつものではない。映画の冒頭、オープニングクレジットが流れているあいだ、カメラは左から右へと流れていく森の木々を映し出すのだが、社会と隔絶された森の奥の寄宿学校を舞台とするジャクリーヌ・オードリー『オリヴィア』の主題は、こうした境界へと向けられている。それはとりわけ、われわれが自明視しているジェンダー規範が生産する境界であり、カメラはそうした境界を移動し、飛び越え、あるいは無効化し、自由に通り抜けようとする運動を映し出している。
 映画内において寄宿生たちは、建物の内部を自由に移動する。階段を昇降し、扉を開閉し、ときに手をつなぎながら、部屋から部屋へ、そして屋外へと流れるように駆けぬけていく。それぞれの階をゆるやかにむすびつけるエントランスホールの螺旋階段は、このような運動を象徴するものである。映画の冒頭、オリヴィア(マリー=クレール・オリヴィア)を出迎えるシーンにおいて、校長のジュリー(エドヴィジュ・フィエール)が階上から螺旋階段を降りて彼女のそばへやってくるとき、そこには上下の関係ではなく、対等な関係をとり結ぶことをめざすイメージがあらわれている。それは、オリヴィアの部屋が先生たちと同じ階に割りあてられていることからも示唆される。
たしかに、先生と生徒は教える/教えられる関係ではあるのだが、食堂や授業のシーンにおいて、先生と生徒はテーブルを共有しているし、生徒たちは先生たちの部屋でさえ自由に出入りすることが許可されている。たとえばオリヴィアがはじめてジュリーの朗読会に参加するシーンにおいて、ジュリーは、自分の質問に答えられたオリヴィアを自分の隣の席へ来るように促すが、それもまた先生と生徒のあいだにある距離をとり払おうとするものであるだろう。
 寄宿学校の二人の設立者、ジュリーとカーラ(シモーヌ・シモン)は、対照的な存在である。ジュリーがみずからさまざまな領域を行き来する――生徒の部屋へと出入りし、また馬車で学校外へとつうじている――活動的な存在であるのにたいし、虚弱なカーラは部屋に閉じこもり、用事を申しつけて生徒を自分の部屋へと誘いこむ存在である。また、本が並べられた書斎をもつジュリーにたいし、カーラの部屋は中心にソファが据えられた装飾的な空間によって構成されている。それぞれがいわゆる「男性的イメージ/女性的イメージ」を担っており、女性的/男性的だとされる特性が、実際には性別とは関係のないものであることが呈示される。

 寄宿学校の内部に男性の姿はない。男性は、街へとつうじる馬車を曳くもの、あるいは女性たちを尋問する顔のない法としてのみ存在し、その多くは後頭部あるいは横顔が映されるのみである(顔が正面から映されるのは、学校から出てゆくほんの一瞬だけである)。それは男性が排除されていることを意味しない。むしろ、女性の側が社会の外部へと放逐され、私的な領域へと閉じ込められているのである。
けれどもこの寄宿学校は、性差別的なシステムが要請する「女性の規範」を植えつける教育機関ではない。性別による知識の差、そうした分断を解消する場としてジュリーとカーラが設立したこの学校は、異性愛主義社会の外部として、むしろそうした社会がもとめる性規範に抑圧されることのないアジール的領域として展開されている。寄宿学校の内部では、女性どうしの愛が逸脱として描かれることはない。オリヴィアが友人にたいしてジュリーへの恋心を語ることはなんら問題ではなく、むしろ当然のこととして受けとめられている。

 戦後のフランスにおいて、商業的に成功した唯一の女性監督であるというジャクリーヌ・オードリーが監督した『オリヴィア』は、原作者のドロシー・ビュシーが実際に通っていたレ・ルーシュという寄宿学校を舞台としている。この寄宿学校は、フェミニストであり無神論者のマリー・スーヴェストルが、パートナーのキャロリーヌ・デュソーとともにフランスに設立した、当時としては珍しい宗教的教育が行われることのない寄宿学校であった。現在よりも異性愛規範が強烈に支配していた1950年代において、それに抗うようにして女性たちだけで『オリヴィア』を制作したにもかかわらず/それゆえに忘れ去られてしまったオードリーの功績は、聞き、見届けられなければならないものであるだろう。