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March 31, 2022

『憧れの地』アピチャッポン・ウィーラセタクン
三浦光彦

[ art ]

 札幌市の中心部、JR札幌駅から大通公園を経て、歓楽街すすきのへ至るまでの道には、冬に地上に雪が積もった際も人々が安全かつ気軽に街へ出歩けるよう長い地下通路が整備されている。ジャミロクワイの大ヒット曲"Virtual Insanity"が、この地下歩道空間に着想を得ていたことが数年前SNS上で少し話題になったが、札幌にかれこれ6年間住み続けている筆者にとっても、雪がしんしんと降り積もる地上には誰一人歩いていないのに、地下に潜ると、無機質な空間の中に人がごった返しているという光景は未だに異様なものがある。
 地下歩道を札幌駅から南下していき、大通公園のあたりで東へ曲がっていくと2018年にグランドオープンした複合施設さっぽろ創世スクエアへと地下直結で行くことができるのだが、この地下歩道から創世スクエアへ至る通路に『憧れの地』と題されたタイの映像作家アピチャッポン・ウィーラセタクンによるヴィデオインスタレーションが展示されている。西2丁目地下歩道映像制作プロジェクトの一環として制作されたこの作品は、幅約12メートルの巨大スクリーンを3分割し、さらに、3つのスクリーンにおいてブラインドのように映像が上下する構成となっている。ある映像が流れているところに上から別の映像が侵食するような形で降りてきて、その映像が降りきると、今度は下からまた、別の映像が上がってくる、といった形で映像が切り替わり、最大で6つのイメージがスクリーン上に並列させられるという極めて複雑な作品だ。それのみならず、それぞれのイメージには「寝てたら 遠くの音で起きたけど」「机上には別の夢のもの」など詩的な言葉が立ち現れては消えていく。上下に動く6つのイメージのうちほとんどは、森、川、煙の立ち登る荒野、無数の穴が空いた葉っぱの影、逆光で顔の見えない男が森の中でタバコを吸う姿、背面から捉えられた水浴びをする上裸の男など、非人称的かつ無時間的なイメージが占めており、それらは何度も反復されながら、微妙な差異を形作っていく。映像も言葉同様に抽象的であり、6つのイメージとそこに書かれた言葉、それらの関係は、多くのアピチャッポン作品においてそうであるように、観客の想像力に託されている。
 だが、こうした自然に満ち満ちた詩的なイメージの中に、ある特定の場所における特定の時期の映像がひとつだけ紛れ込んでいる。それは2020年から続いているバンコクでの反政府デモの様子を捉えた映像だ。コロナ禍で多くの人々がマスクを着けて一箇所に集まり、抵抗のためにスマホのライトを一斉に掲げる様子はどこか夢幻的であると同時に、確かな怒りに満ち満ちており、他の静的なイメージと見事な対象を作り上げている。そして、このデモのイメージに「存在しない何かを想うことは?」という言葉が重なる時、美しい自然の風景を写しとったイメージの意味は徐々に変容していくだろう。それらの非人称的なイメージは、一方では、「存在しない何か」、つまり文字通り「憧れの地」のようにも見えてくるが、他方で、現在のバンコクでのデモへと繋がる血塗られた歴史を抱えた土地のようにも見えてくる。『ブンミおじさんの森』におけるナブアの土地が大量虐殺の歴史を抱えていたのと同じように。
 『憧れの地』という作品が抱えるこのような両義性は、それが展示されている札幌の地下歩道、及び、さっぽろ創世スクエアのコロナ禍における状況の両義性と奇妙に響き合っていく。ジャミロクワイは"Virtual Insanity"の中で「地下で暮らしている僕らには何の音も聞こえない そんなのほとんど狂気じみている」と歌い上げている。ジャミロクワイが札幌の地下歩道に対して抱いたこのような感想は、確かに正しいかもしれない。本来、人の行き来が外的環境に左右されないように設計されたこの空間は、四季の移り変わりを感じさせない人工的な空間であり、「ほとんど狂気じみている」と感じてしまうのも理解できる。だが、実際札幌で暮らしてみてわかるのは、事態はそれほど単純ではないという事実だ。冬には厳しい寒さが街全体を覆ってしまう札幌においては、この地下歩道は無機質なその見た目とは裏腹に人々の命綱として機能している。「命綱」などというと大袈裟に感じる人もいるかもしれないが、札幌にも少なからずホームレスの人々が存在しており、彼らにとってこの地下歩道は紛れもなく命綱そのものである(もちろんこの地下歩道も夜は閉まってしまうために、ホームレスの人々は凍死しないよう夜通しで歩き続けることを強いられている)。さっぽろ創生スクエアも開館時間は基本的に全ての人に開かれた空間となっており、また、地下歩行空間も創世スクエアも、東京などの大都市に比べて文化的・芸術的なイベントや経験値が少ない札幌において、行政主導で文化や芸術に触れる機会を創設するための場としても機能している。アピチャッポンは『憧れの地』と題された本作にデモの映像を挿し込んだ理由について、「共同体のようなものを求めていた」と説明している。札幌における地下歩道も創世スクエアも、バンコクにおけるデモのような強い力で結びついた共同体ではないにせよ、札幌において身分、年齢、ジェンダー関係なく誰もが集まることのできる一種の緩い共同体を創り出す場として機能していた。
 だが、コロナ禍という特殊な状況下の中では、普段は見えないような問題が噴出してくる。人々の憩いの場であった地下歩道のベンチにはソーシャルディスタンスのために座る人数が制限され、創世スクエアの広場には一時期、いわゆる「排除アート」を思わせるような威圧的なオブジェが置かれた(こうしたオブジェが置かれることになった複雑な経緯については以下の動画でアーティスト本人たちによって詳細な説明・議論が為されている「しくみTV Vol.3特集:ソーシャルディスタンスと排除アート」)。背後に隠れていた場を巡る権力関係が顕在化することによって、札幌にとっての「憧れの地」は壊れていく。画面に映し出される美しい自然の意味が二重化していくのと同様に、それが展示されている空間の意味も二重化していく。
 インスタレーションの最後、次のようなセンテンスが立ち現れては消えていく。
 
この土地 友が去ったこの土地
​陽光を包む山を二人で登ったことも
​尊き沈黙があり
​二人で登る
​それぞれ登る

 
 比喩的な意味でも、物理的な意味でも人々の紐帯が絶たれてしまったこの状況下においても、「それぞれ」何かを為すことはできる。本当は離れているものを編集によって、連結させ、そこに回路を作り出すこと、それこそが映像の持つ力だ。アピチャッポンのインスタレーションは単にデモが行われているバンコクと匿名的な自然の風景を繋ぐのみでなく、遠く離れたタイの地と札幌の地下歩行空間をも繋いでみせる。バンコクのデモの幻惑的な映像と「それぞれ登る」と書かれた美しい自然の映像が並列させられるとき、人々が行き交う空間には、ささやかではあると同時に確かな、失われた「憧れの地」への願いが芽生えている。


札幌文化芸術交流センター SCARTS 西2丁目地下歩道映像制作プロジェクト

  • 対談:アピチャッポン・ウィーラセタクン×空族・富田克也 自由に開かれた<プラットホーム>のような映画を作りたい |