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October 29, 2022

《第35回東京国際映画祭》『この通りはどこ? あるいは、今ここに過去はない』ジョアン・ペドロ・ロドリゲス、ジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ
鈴木史

[ cinema ]

Sub1_Where_Is_This_Street?_or_With_No_Before_And_After©Terratreme Filmes.jpg 人の姿をした孤独な魂が急に人であることをやめて、明後日の方向に飛び去っていくのを取り逃すまいとするように、厳かな固定ショットやゆるやかな移動撮影を見せていたカメラが、取り乱したようにパンやティルトをする。等間隔に街灯が並ぶ整備された小綺麗な歩道では、愛する幼な子に外の景色と風を感じさせるべく、ベビーカーを押した男女が行き交うばかりで、まるでミケランジェロ・アントニオーニ『太陽はひとりぼっち』(1962)の終盤の光景のような寂寥感が漂う。カメラはただ無人の街路やバー、半地下の窓が覗くガレージにそのまなざしを向けているが、固定ショットや移動撮影は時折、あたかも画面には映っていない人物の動作を追うように、急速なパンやティルトで中空を彷徨う。それは、かつてこの街で繰り広げられた、若い男女の愛の航跡を追うかのようだ。
 かつてポルトガル映画の新時代を告げたパウロ・ローシャ監督による傑作『青い年』(1963)が撮影されたリスボンの街には、あらゆる世界の都市と同様に新型コロナウィルスが蔓延し、緊急事態宣言が布告されている。一様にマスクをした人々がまばらに行き交う街には、ごく無愛想な声の「他人と距離を取りましょう」というアナウンスがひしめいている。人が姿を消した街並や、壁や、木々そのものが時折、言葉を持って観客に語りかけてくるかのようだ。愛の行き場を失った街で、ドアノブに触れることを嫌うように、手のひらを使わず、腕で無理にドアを開け閉めしようとする中年男が醜く体を揺らしている。森の木陰に寝そべった若い男が人影などない遠くの丘に虚ろなまなざしをやりながら、向ける先を失った愛を確かめるかのように、おそらくは膨張しているのであろうペニスをズボン越しに弄っている。木立が茂る暗い夜の公園は、昼は多くの男女が愛を囁き、夜は多くの男たちが情交を結んだ場所であろうことが感じられるが、もうそこには誰もいない。誰もが感染症を忌避するこの街で、唯一、人と人が触れ合うショットは、ふたりの男性によるものだ。彼らは『青い年』のルイ・ゴメスとイザベル・ルトがそうだったように、街路で落ち合い、仲睦まじそうに抱擁を交わす。彼らの歴史は誰よりも「感染症」の恐怖を知っているだろう。だからこそこの映画においては、彼らだけが抱擁を交わす特権を持っている。
 カメラは、人物の動作を追いきったあとも、無人の路地や、ドアノブや、倒れた椅子を映し続け、そこに人がいたことのみをわたしたち観客に告げる。あたかも、ロベール・ブレッソン『やさしい女』(1969)の冒頭の数カットのように、人物の行為の痕跡のみが、そこに映し出されている。『やさしい女』冒頭の倒れゆく椅子のカットが告げるのは、「すでにその人は死んでいる」ということなのだが、本作『この通りはどこ? あるいは、今ここに過去はない』は、そのようなトーンに貫かれており、過去に繰り広げられた愛の物語が、この画面には残り香としてしか映りようがないことを示している。
 カラーフィルムに収められたリスボンの街は斯様に愛の喪失を告げるばかりなのだが、中盤、突如画面がモノクロームに染め上げられ、モノクロームであることにより逆説的にすべてが若く華やいでゆくかのようなショットがある。スカーフを被ったイザベル・ルトが道の向こうからやってくるそのショットは『青い年』を見たことのあるものならその見覚えのある構図に、誰もがアーカイブ・フッテージによるものであろうと錯覚するはずだが、徐々にカメラに歩み寄るイザベル・ルトの顔には、深い皺が幾重にも刻まれている。その画面を目にして、堪えきれずに、わたしのマスクと頰の間にはただ涙が伝うばかりだが、同時に彼女は誰の姿を探しているのだろうとも思う。『青い年』で、彼女の姿を追い求めていたルイ・ゴメスは、すでに2001年に62歳でこの世を去っている。
 孤独な魂たちが彷徨うリスボンの街の点描が続く本作。愛を向ける先を失ったそれらの人々の多くは男性で、彼らの街にはただ、孤独と歌だけがひしめいている。『青い年』で、時に身勝手とすら思えるイザベル・ルトへの恋心をルイ・ゴメスは湛えていた。パウロ・ローシャのフィルムはその後『恋の浮島』(1982)などを持って、男性の女性に対する幻想を伴った愛着を苛烈に批判していくことになるが(『恋の浮島』においては、百年前の外交官モラエスの女性への恋慕の物語と並行して、百年後の女性により「"ポルトガルの女の首"、"日本の女の足"......。女のことばかりだ」とモラエスの手記に対しての感想が吐き捨てるように呟かれる)、ローシャの映画はつねに愛の彷徨についての物語であった。
すでに80歳を超えたイザベル・ルトは、『青い年』を反復した本作のラストシーンにおいて、青年ルイ・ゴメスに代わって、再びわたしたち観客の前に姿をあらわすだろう。身勝手さすら湛えた怒りで、行き交う車の流れさえ押しとどめて見せた『青い年』の精悍で力強いルイ・ゴメスの姿を、彼女はその深く刻まれた皺と歌声を持って演じ直し、彼女は喪失を抱えながら生き続けることそのものによって、今度は自分自身の側に愛の彷徨の物語を取り戻していく。

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