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December 11, 2022

【再掲】吉田喜重ロングインタビュー

[ cinema ]

12月8日吉田喜重監督が逝去されました。哀悼の意をこめて、2006年、多くの観客が吉田喜重を再発見した年に行われたロングインタビューの一部を公開します。

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2004年秋、そして2006年冬。2度にわたって吉田喜重のレトロスペクティヴが大々的に催された。会場のポレポレ東中野は連日活況に沸き、興奮した観客の身体から多くの熱量が放たれていた。往年のファンから、学校帰りとおぼしき学生服の高校生までもが駆けつけ、そのフィルムの肌理に触れようと、感覚を研ぎすまし、映像と音の洪水に嬲られた。
それは僕たちにとってとても官能的な体験で、単純にもっとそのフィルムに、吉田喜重に迫りたいと思わせた。吉田喜重がいかにして映画作家へと変身していったのか、彼の目には絶頂と凋落を同時に孕んだ時代のスタジオがどのように映っていたのかを聞きたい。そう思った。さらには、あまり語られることなかった助監督時代について、木下恵介との関係について、岡田茉莉子との共犯関係について...............。僕たちの吉田喜重への興味は尽きることがなかった。

──松竹という会社に在籍されていて、スタジオシステムの凋落というものが内部からも目に見えるかたちで現れていたのでしょうか。

吉田 松竹がはっきりと危機意識をもつようになったのは、私がデビューすることになる60年からだと思います。現在の天皇の御成婚式が1959年の4月にあり、日本の100万の家庭にテレビが普及したのですが、それが影響して松竹は株の配当ができなくなった。日本の経済は成長しているにもかかわらず、テレビという新しいメディアによって、映画界だけが不況に陥ったのです。
事実、観客動員数が激変し、新東宝が閉鎖されます。松竹はこれまでのようにメロドラマ、下町喜劇、歌謡曲映画の路線に不安を感じ、また小津さんや木下さんのような巨匠が撮る予算の高い映画よりも、若い観客をターゲットにし低予算の映画、いわば日活の太陽族映画のような映画をつくろうとして、私や大島渚をデビューさせたのです。その当時から私は発言しているのですが、マスメディアが命名した「松竹ヌーヴェルヴァーグ」が持続するはずはありません。たとえば日活の太陽族映画であれば、それは石原裕次郎が主演する映画であって、監督が次々と変わっても、商品として成り立ってゆく。しかし私や大島がる映画は、商品としての映画というカテゴリーでは収まらない。スターでなく、監督の個性に賭けたのですから、大量に安定した娯楽作品が生産されるはずもなく、1年足らずで「松竹ヌーヴェルヴァーグ」は控折せざるをえなかった。それが『日本の夜と霧』(60)と『血は渇いてる』の同時封切りです。

──若手監督として吉田監督が選ばれたのは、自費出版されていたシナリオ集が会社の目にとまっていたということなのでしょうか。

吉田 私がシナリオをもっとも数多く書いていたのは事実です。会社はそれを読んでいたのでしょう。木下組の5人この助監督のなかから、もっとも最年少の私を選んだのですから。
60年の2月初め、木下さんの次回作、『笛吹川』(60)のシナリオの口述筆記が終わった日に、会社からデビュー作を撮るように提案されました。そのときの条件は、津川雅彦君を主役にした青春映画をということでした。封切りが6月と決められていましたから、私は『ろくでなし』のオリジナルシナリオを20日足らずで書き上げ、4月初めにクランクインした。
当時の松竹映画、あるいは映画ジャーナリズムが私に期待していたのは、26歳という若さに見合った青春を描くことだったのでしょう。そのとき私が考えていたのは、映画の世界で青春は本当にありえるのか、コマーシャルベースとしての映画が期待する青春は偽りではないのか、という問いでした。青春は若さ、自由、暴力、そして既成のモラルに反逆することだと、すべて否定の論理で語られがちです。その否定の論理である青春は、若者が30歳を過ぎて社会のなかに組み込まれると、消え失せてしまう。いわば虚構の青春、やがて否定されるからこそ、社会はそれを偽りのものとして公認するだけではないのか。コマーシャルベースの映画では、青春のさなかにいる人間と、そうでない人間とをきびしく分けへだてて描くのが普通です。まず青春の側を肯定し、それと対立する側が古い世代、国家権力、会社の上層部、あるいはヤクザの幹部といった体制側がその役割を演じ、青春の側がいつでも正しく、かならず相手側を否定する。しかしこうしたその両者の対立は、単なる青春映画という物語のために成り立っている、曖昧で希薄な関係にすぎません。ドラマを際立たせるために、正とか不正、あるいは敵と味方という関係を、青春の名によって描こうと虚構なのです。私は青春をそうしたステレオタイプ化されたものではなく、いまだ既成の社会に組み込まれることのない、いわば宙吊りの状態、不安の根源としての青春を描くことを考えたのです。
『ろくでなし』では「私とあなたとは関係がない」というダイアローグが繰り返されます。それは青春と社会とを敵と味方、正と不正のように容易に対立するものとしてとらえずに、そうした関係化を拒絶しようとする私という存在、その宙吊り状態の不安のみを描こうとした。しかし「関係がない」と思いつつ、それでも「関係ができてしまう」のが、私の考える青春映画でした。
それというのも、たとえ「関係がない」と言い切っても、社会や他人との関係を簡単に断ち切ることができないのは、そこに資本の論理が働いているからです。青春は資本の論理まで抹殺しては、成り立つものではありません。青春を楽しく過ごすためには、お金が必要なのは明らかです。余裕と自由のない青春には、ただ過酷な労働だけが強いられる。
私が『嵐を呼ぶ十八人』で描こうとしたのは、こうした疎外された労働のありようです。時代や状況から決して自由になることができない青春、コマーシャルベースが求める青春映画への批判が、私の松竹時代の作品に一貫して流れているテーマでした。

──吉田監督は松竹を退社された後に独立プロを設立して映画を連作していかれました。吉田監督の突然の退社を決断されたのは、やはり映画が退潮していく当時の流れへの反応だったのでしょうか。

吉田 1963年ころになると、経済的な危機から松竹は、京都の太秦撮影所を封鎖することになります。当時の社長、城戸四郎さんから、「伝統ある太秦撮影所で、一度撮ってみないか」と言われて実現したのが、『嵐を呼ぶ十八人』でした。
はじめて大船を離れ、キャメラマンの成島東一郎と助監督の前田陽一以外は、すべて京都のスタッフで製作したのですが、当時の京都のスタッフたちは大船に転籍するか、退社するかの選択を、会社から迫られていたのです。映画の仕事を続けるには、大船撮影所に移らなくてはならない。太秦のスタッフは多くが京都の出身でしたから、生活の場を東京に移すことはむつかしい。これは事実上の馘首と言ってもよかった。
この年の暮れに、小津さんが亡くなるのですが、いまから思えば、幸運だったかもしれませんね。翌年に私は『日本脱出』を撮り、ご存じのように最後の1巻を、会社が無断で上映しなかったために、岡田茉莉子とともに独立するのですが、すでに松竹には昔日の面影はなかったのです。まもなく木下さんも、松竹を去ります。当時の木下さんはいわゆる国民的な映画を幾度か試みるのですが、成功しませんでした。時代がそのような作品を望まれなくなっていたのでしょう。高度経済成長へと向かっていましたから、観客には国民という意識が希薄になりつつあった。国民意識は戦前や戦後のような逼迫した状況が、国家を意識させる結果生まれたものですが、それが安保闘争を契機に日本の社会はラジカルに分断されつつあったのです。それは木下さんの映画作家としてのモラルでは、対応できなくなっていた。

──岡田さんは吉田監督の作品に出演される前に100本以上の映画に出演されていた大スターであるわけですよね。そのような方を独立プロ制作に入ってからも起用し続けるときに吉田監督はどのようなことをお考えだったのですか。

吉田 デビュー作のころは私の年齢が若かったからでしょうが、期待されるテーマは当然ながら青春でした。しかし独立して現代映画社を設立した当時、私は30歳を過ぎていましたから、女性を通して、それもその性(さが)を通して、戦前と戦後の日本を見返してみようとした。もちろん、私の身近なところに岡田茉莉子がいてくれたからです。
『日本脱出』によって私は松竹を離れる決心をしますが、岡田は松竹に残ったほうがいいと、私は考えていました。彼女はスターでしたから、小さな独立プロでは、岡田が出演するような映画はつくれなかったからですが、しかし彼女は自分の強い意志で松竹を離れたのです。そのとき私が考えたのは、彼女をスターとして扱う大きな物語、予算の規模の大きい作品を取ることは不可能である以上、岡田にスターではなく、一女優として出演してもらうような、テーマ性の強い作品を意図したのです。それが女の性(さが)を通して、映画を、そして日本を見返すことだった。彼女もクレバーな演技者でしたから、それに合わせて岡田自身、変わろうと努力してくれたのだと思います。
独立後の最初の作品である『水で書かれた物語』も、当時はメジャーの映画会社が映画館を独占的に支配していましたから、なかなか封切ることができずに、ようやく日活が配給、上映を引き受けてくれました。その翌年、人員整理を終えた松竹が2本立て興行を支えることができずに、私の独立プロ、現代映画社に2年間で4本の映画を撮ることを依頼してきました。きわめて低予算でしたが、それだけに作品の内容については比較的自由につくることができ、その最初の作品が『女のみづうみ』です。それ以後の作品も低予算と闘うために、いまでいうロードムービーのスタイルとならざるをえなかった。
その後、映画界はさらに危機的状況となり、2本立て興行を維持できなくなります。そして新東宝が解散、日活も大映も行き詰まってしまう。従って『さらば夏の光』以後は、独立プロのために作られたATGに配給をお願いし、製作を続けることになります。

──『エロス+虐殺』ではじめて海外の映画祭に参加されたときに、この作品が海外の人たちに理解されるのだろうかと大変な不安を抱えていらっしゃったそうですが、その不安はとても意外に思います。現在の私たちの目からその作品を見ると、当時の同時代の空気を呼吸しているように見えるからです。
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吉田 この作品は神近市子さんとのプライヴァシー問題と、当初のオリジナル版は3時間45分という長尺でしたから、容易に公開できないのではないかと考えていました。そうしたとき、アヴィニョン映画祭より出品依頼があり、結果的には最初の公開がフランスとなったのです。日本人でなくては理解できない日本の近代化の歪んだ歴史を、しかも過去の物語として描くのではなく、いまも生きつつある時間として表現する方法が、フランスの観客に理解されるとは思えなかった。しかも3時間45分ものあいだ、フランスの観客が字幕つきの作品を最後まで見てくれるかどうか、不安を抱くのは当然でしょう。
夜の10時から上映がはじまり、終わったのが深夜の1時半過ぎでしたが、それでも観客は帰ることなく、見てくれました。シネマテークフランセーズ会員のアンリ・ラングロワ氏もかなりのご年配でしたが、最後まで見ておられた。上映後には、映画祭のディレクター、ジャック・ロベール氏の司会によって討議が行われましたが、なかなか終わらず、翌日の朝ふたたび討議が続けられたのです。
このアヴィニョンでの上映は69年の8月中旬だったのですが、10月にはパリのパゴド劇場で封切りされ、それまで私はパリに滞在することになるのですが、こうした幸運は、フランスにおける1968年の学生運動の影響があったからです。その熱狂を引くなかで、若い観客は『エロス+虐殺』のなかに、彼らの抱く矛盾、反発のエネルギー、いわば共同幻想をスクリーンのなかに見てしまったのでしょう。そうでなければ、深夜までも席を立たずに、3時間45分の作品に見入ることは異様です。映画にはこのように思わぬ偶然が働き、その時代が映画に生命を吹き込むことがあるとしか言いようがありません。

──一昨年から今年にかけて吉田監督の回顧上映が行われ、往年の観客から高校生まで幅広い年齢層の観客が映画館に駆けつけておりました。そのようにして今改めて作品を見られていることについてはいかがお考えですか。

吉田 親しい友人の蓮實重彦さんが、一昨年よりはじまった私の全作品回顧上映を「変貌の倫理」と名づけてくださったのですが、私の映画におのずから隠された基層、無意識的に働く思考といったものを、鮮やかに指摘する言葉です。とりわけ「吉田喜重は、ひたすら無時間性に徹することで、そのつど鮮やかに歴史を露呈させてみせる」と、蓮實さんは指摘されているのですが、封切られた当時に見た観客は、私の作品のなかに自分と共有する時間を見出せずに、その無時間性に耐えられなかったのでしょう。それがいま、45年以上も前の1960年の映画が、刻々と過ぎ行く時代とは無縁であったその無時間性によって、かえって現代にも生き延びることができた。時間性のある映画、時代に反応する作品は、時の流れにしたがい古くなり、過去に組み込まれてしまう危険がある。いま若い世代の人たちが私の作品に同時代的なものを感じ取るとすれば、これは映画表現の魔術、それが隠しもつ時間の謎に、私は感謝するしかありません。もっとも半世紀が経っても、観客に同時代的なものとして見られることを、私が意図していたわけではありません。そのときはいま生きつつある時間として、その時代に答えようとして懸命に作ってきたつもりです。それができ上がると、私の願いを裏切るように、映画を無時間化してしまう何かが、私のなかにあるのでしょうね。
すでに私の処女作、『ろくでなし』についてお話ししましたが、コマーシャルベースの映画、それだけではなく映画を見る大半の観客が、青春を描く作品に期待するのは、反抗、挫折といったステレオタイプ化された物語です。そのように描いているかぎり、同時代的な時間を共有するように思えるのでしょうが、それは錯覚です。映画という枠組みのなかで仮想の擬似的な敵をつくり、それと闘っているふりをしている物語にすぎない。青春とはきびしい宙吊りの状態、不安の根源としての、いわば非青春でしかない。そのとき時代によって左右されることのない、無時間性がおのずからあらわになるのではないでしょうか。(聞き手 小峰健二、衣笠真二郎)

全文はnobody issue22に掲載