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April 27, 2023

『聖地には蜘蛛が巣を張る』アリ・アッバシ
荒井南

[ cinema ]

聖地には蜘蛛が巣を張る メイン★.jpg 編み上げた巣に獲物をからめ捕るようにして被害女性を部屋に引きずり込み16人を殺したサイード・ハナイは、その手口から"Spider Killer"と呼ばれたらしい。アリ・アッバシ監督『聖地には蜘蛛が巣を張る』は、2000年から2001年にかけて起きたこの連続殺人事件を主軸にしている。しかしこの正視に耐えない惨事自体のおぞましさには、さほど驚かない。今から130年以上前にイギリスで起きていた娼婦殺害事件や、先日来より激化している、居場所を失った若年の少女を支援する団体への執念深いヘイト行為を、わざわざ論う必要もない。いつでもどこでも、直接的にも間接的にも、女はずっと殺されているからだ。それでいてなお、この映画にはまるで初めて感じたかのような激しい感情を新鮮に喚起させられる。
 アリ・アッバシ監督は、本作を「連続殺人的な社会」についてのフィルムだと語る。サイード(メフディ・バジェスタニ)はイラン・イラク戦争に従軍し、殉死できずに帰国した負い目と、国家に尽くした自分が些末な労働に日々をすり減らしている現実に耐えられない。社会の敗北者という鬱屈を神への信仰にすり替え、聖地マシュハドで夜ごと身体を売る女性たちに憎悪と殺意を向ける。この「連続殺人的な社会」は、とにかく女性を嫌悪しながらも、女性が居なければ存立することも出来ない。劇中に現れるシングルマザーの娼婦の身体は痣だらけで、日常的に客から暴力的なセックスを強いられていることが瞭然で、酷薄な現実をやり過ごすためか薬漬けだ。そうしてでも街角に立たなければならない彼女たちの物語を、誰も推し量ろうとしない。サイードの妻ファテメ(フォルザン・ジャムシドネジャド)は、不意に凶暴になるサイードの顔色をうかがい、伴侶による唯一の義務の如く夫婦生活へ誘う。ラヒミ(ザーラ・アミール・エブラヒミ)もまた、ブルカから出ている毛束ひとつで安ホテルにチェックインすることすら手間取り、男性警官から性的に侮辱され、サイード逮捕の功績は横からかすめ取られる。聖地から麻薬と穢れを一掃することで神に報いようとするサイードに、彼の殺人を"聖なる営み"としてもてはやす従軍兵士のコミュニティと地域住民。そして、父の背中を偶像のようにみつめる息子アリ。女である限り、彼女たちは皆同じ絶望の地平線をまなざす。さらに「連続殺人的な社会」は被害者を分断し、ヒエラルキーの最下層でさらに互いを抑圧させ合う。
 ナチスの忠実な僕として、極めて事務的にホロコーストに手を下し続けたアイヒマンをハンナ・アーレントによる定義「悪の凡庸さ」によって今さらながら思い出している。悪と暴力と抑圧にバリエーションはない。陳腐で似通った様相はいくらでも再生産を繰り返す。マシュハドで多くの声がこの世界から消されたように、サイードはどこにでも存在し、今なお誰かの口を塞ごうとする。年老いたらベルトコンベアのように命が抹消されていく社会が理想と吹き散らす経済学者もさることながら、前途洋々たる少年がその悪意に大きく同意してしまうのも、憎悪が再生産され拡散されていくサイード的な我々の現実だ。ゆえにアリ・アッバシ監督はサイードただ一人を消して映画を終幕させるのを拒否した。彼は時代の平凡な犠牲者ではなく、彼の憎悪を再現することで、凡庸で邪悪な構造を暴いたのだった。映画的フィクションとドキュメントの距離を、表現者として如何に取るかを熟考した監督によって、報復されるその瞬間が訪れる。見たらいい。これほどまでに悪は凡庸なのだと。
 映画をリードするのはたしかにラヒミだが、名もなく殺されていく娼婦から始まるオープニングの作り方から分かるように、彼女はヒロイックな存在ではない。ここまで辿り着いた理由はそれとなくほのめかされるが、はっきりとは明かされない。ジャーナリストの職業倫理だから?私も同じような屈辱を受けた(ラヒミは前職で、上司との不適切な関係の濡れ衣を着せられた経験がある)から?ラヒミの叙事が細部まで書き込まれていないからこそ、眼前で起きている惨事への率直な怒りだけが、重量のある手ごたえとして我々に届く。この映画の根底にあるのは怒りであり、それはサイードにまつわる憎悪や暴力とは完全に異なる意識だ。「連続殺人的な社会」で生きる価値があるのかは分からない。しかし、ラヒミが一人の娼婦に手を差し伸べたように傍らの誰かを愛する行為が連鎖するなら、とどまる価値があるのかもしれない。私たちは怒らなければならない。怒りは世界への憎しみではなく、まだ残されたせめてものよすがだからだ。

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