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November 15, 2023

『僕らの千年と君が死ぬまでの30日間』菊地健雄
結城秀勇

[ cinema ]

 人魚の血によって永遠の生を得たふたりの男が、百年に一度人間として生まれ変わるその人魚と30日間だけ巡り会う。その30日間が過ぎると人魚は死んでしまうので、その前にどうにか彼女に魂を返してこの呪いの連鎖を解きたい主人公と、そうなったら永遠の生を孤独に生きなきゃならなくなるので邪魔をする相方、ということを千年繰り返してきた三人の現代篇がこの映画版ということらしい。
 漫画、映画、舞台版が並行して制作されるという企画につきまう不自由さがどうしても散見されるのだが、とりわけ「オリジン」であるところの千年前の出来事が曖昧なかたちでしか描かれないのは致命的な問題であるように思う。それは舞台を見てねということなのか、漫画を読んでいればある程度わかることなのか。加えて映画版につけられた主人公・草介(辰巳雄大)の記憶喪失という設定にいたっては、それもう千年生きてる意味なくね?という感じがする......。そこを覚えてないと相棒・光陰(浜中文一)の孤独への恐怖がわからないし、ひいてはなんで彼が草介の邪魔をするのかもわからない。
 ということでこの作品は、もはや幾重にも曖昧になった「オリジン」を再演するという不可能な企てのリハーサル、という形態を持つ。夢というかたちで取り戻された記憶を、演劇として上演しようとすることで草介と舞(小西桜子)は出会う。稽古の最中に舞が「本当はこうだった」と直しを入れるくらいには草介の夢=脚本は間違っているらしいのだが、その修正が戯曲全体にどう影響を与えるのかを観客は知ることができない。演技を練り上げ、脚本をブラッシュアップすることで、この舞台は「オリジン」に近づこうとしているのか、それともそれを乗り越えて負の連鎖を断つ最初の一歩になろうとしているのか。
 普通ならば話の筋として後者でなければおかしいとは思うのだが、どうもこの作品が取る選択肢はそのどちらでもないようなのだ。草介と舞は稽古を重ねる、のだが、しかし彼らはほとんど劇団の稽古場には行かず、ひょんなことから舞も転がり込むことになった光陰の家で本読みを繰り返すのだ。彼ら三人が千年の間それと気づかぬまま繰り返してきた行為を、草介と舞は三人の住む家で演じ直す。だが、コンクリート打ちっぱなしで、いかにも練習にもってこいな舞台的な段差がついたその家で練習することの意味は、実は彼らの演じる劇を千年の呪いに匹敵する強度に練り上げることにあるのではなく、練習の後で、彼らの練習する家の中の「舞台」の逆構図の位置に存在するダイニングキッチンでみんなでご飯を食べることにあるのではないかという気がするのだ。
 素朴な感想として、百年間に30日間しか会えないという呪いは、裏を返せば百年に30日は必ず会えるという祝福にも思えるのである。呪いを解くのか、あるいはそれを一種の祝福として受け入れるのか。物語の必然として彼ら三人はそのどちらかを選択しなければならないわけだが、この映画が描こうとしているのはそこではないのだと思う。千年続く呪いをどうするのかなんてことよりも、千年前の「オリジン」よりは圧倒的にインパクトに欠けるありふれたこの30日間をどう生活するのかなのだ。それこそがこの映画の劇中で『シミラー・バット・ディファレント』というタイトルの映画が引用される意味なのだと思う。遠い昔の「オリジン」と似てるか違うかなんてことより、それと気づかぬほどに似ているけどでもどこか違うなにげない一日を今日も生きること。明日はなにを着よう(足立智充の驚くべきワードローブ!)、今晩はなにを食べよう(お腹が空いた女性に作ってあげるご飯の主菜が焼きそば!!)、そんな繰り返しを、草介と舞は途中まで終わりが来るなんて気づかずに生きるのだ。
 この映画のクライマックスで、彼ら三人はいろいろ決着をつけるために海に向かう。そこで思い出に三人は写真撮影をするのだが、そのときチェキで写真を撮ってくれる女子高生三人組が素晴らしい。千年だろうが30日だろうが数年だろうが、流れる時間の重みを決めるのはその長さではない。あの時彼女たちに流れていた時間が、主役三人の間で流れていた時間より濃密ではなかったなどと、誰にも言うことはできないはずなのだ。

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