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February 3, 2024

『女性として生きること』『都会の名もなき者たち』他 チェチリア・マンジーニ
結城秀勇

[ cinema ]

 『都会の名もなき者たち』『ステンダリ 鐘はまだ鳴っている』『マラーネの歌』という3本のピエル・パオロ・パゾリーニがテキストを担当した短編を見ていて、あれ、テキストが語ってることと映像が語ってること、なんかすげえ違うぞ、と思った。
 たとえば、『都会の名もなき者たち』。テキストは、社会構造から必然的に生み出された「恐るべき子供」たる不良少年たちだが、しかしながら彼らの中には優しさと残酷さ、無謀さと希望のなさのような対になる概念が複雑に同居しているのだ、というような流れになっていたと思う。つまり、テキストはこの事象をこういう角度で切りとります、と設定した上で次第にそこからこぼれていくディテールの方面へと向かう。しかしこの作品の映像は、はじめから言葉が規定するものから横溢し続ける細かなものを映し続けている。一番印象的だったのは、テキストが「意外なことに」彼らには優しさもユーモアもあり、おしゃれが大好き、みたいなことを語る場面だ。いやいや、映像だけで見るぶんには、彼らが優しくてユーモアあっておしゃれ好きで女の子にモテたくてしょうがないのはなにも「意外なこと」でもなく見たまんまだし、さらにそんな彼らが怠惰な労働やゴミ漁りやかっぱらいや意味のない暴力に従事してることもまた同時に「意外なこと」じゃないんじゃ、と。
 といっても、別にパゾリーニが型通りのことを言ってるのに対してマンジーニの撮影が自由だとかいう比較をしたいわけではない。「ピエル・パオロ・パゾリーニの小説家としてのデビュー作「生命ある若者」(1955)に触発されて製作した『都会の名もなき者たち』」という紹介文からも読み取れるように、そこには明確にテキスト→映像という順序があり、その時間差をマンジーニはある意味積極的に利用しているのではないかということなのだ(当然ながら、撮れ高を見てからナレーションを考えるというようないまのいわゆる「ドキュメンタリー」っぽい制作体制ではないから、ということがあんなにガンガンレールを敷いてることからもわかる)。そしてその時間差は逆説的に、フィルムという媒体を通じて、過去に起こったなにかにすぎないものが、それでもいま目の前で起こりつつあるという観客との共時性をもたらしているような気がするのだ。
 『マラーネの歌』では、マラーネ=河と呼ばれる湿地帯で一日を過ごす少年たちの姿が描かれている。だがテキストは、それがもう失われて戻らない幼年時代でもあるかのように語る。たとえば「カタツムリ」というあだ名の少年。彼の姿が画面に映し出されその名が呼ばれたときすでに、彼はもうこの場所にいないことが仄めかされている(後に彼は盗みで捕まり収監されていると語られる)。しかし、そんなことよりなにより、仰向けに寝そべったまま膝と踵と腰を使ってズリズリと動く、あだ名の由来となったカタツムリ動きから目が離せない。彼の将来にどんな暗い影が落ちていても、いま目の前をズリズリ横切る彼の姿に思わず微笑まずにはいられない。
 同様のことがラストの少年たちのアップを次々とパンしていく場面にも感じられる。階級格差、南北の経済格差、失われた幼年時代、開発によって姿を消すかもしれない光景。そうした考えが頭をよぎっていく一方で目の前に次々と現れる、どんな社会問題によっても説明することなどできない、彼らの顔という以外の何物でもない顔に、目を奪われるのだ。

 ......本当は、上記のような読み上げられるテキスト=音声と映像のズレを積極的に使っていた初期の作品と、『女性として生きること』の方法論は決定的に違う気がする、ということを本題にしようと思っていたのだが、前置きが長くなりすぎた。
 でも少しだけ書くならば、モノクロの作品なのにそこだけカラーなファッション誌から切り取られたピンナップと、核実験の様子が交互に編集され、さらにそこに「アラバマ・ソング」が被さるというオープニングですでにいったいどこへ連れていかれるのかという気分になる。もちろんそれらのイメージが、これから語られる、資本主義経済の低層で生きる女性たちを抑圧するものの象徴なのはわかるのだが、『ティファニーで朝食を』のオードリー・ヘプバーンのパロディのようなピンナップガールや、「次のウイスキーバーへの道を教えてよ」と歌う「アラバマ・ソング」の女たちは、本当に労働者たちとは対極にあるのだろうか、という気もする。やはり彼女たちもまた、ある意味でこれから登場する労働者たちと同様に資本主義に踏みつけにされた者たちなのではないかと。
 それと似たようなことを、工場労働者へのインタビューの場面でも感じる。1分間に30回だったか、とんでもないペースでのハンダづけを要求される機械の部品の生産現場や、昇給の見込めるより専門的な部署へは絶対に昇級できないというようなことが語られる紡績工場。そこでベルトコンベアで流れてくる部品や、一定のリズムで音を立て続ける機械の映像は、まさしく彼女たちを疲弊させ搾取する装置に他ならない。......はずなのだが、カットが変わるごとに微妙にリズムを変えて接続される紡績機が奏でる音は、まるでこうした現状にプロテストする彼女たち自身の音楽のように、聞こえてくるのだ。
 そして、近代化に取り残され、出稼ぎに行く男たちのために、歴史的に女性専門の仕事にされてしまったオリーヴの収穫や葉タバコの乾燥といった手作業を見ていても、同じようなことを思う。薄暗い小屋のような場所で、おそらくその地方で歌い継がれてきたのだろう労働歌を歌いながら作業する老婆たち。けれどその暗がりに紛れた若い女性と、これまでのコンテクストからは矛盾してなぜかそこにいる若い男性が、それぞれ伏し目がちな作業姿を抜かれ、そして次の引きのカットで、彼らが視線を上げさえすればお互いに見つめ合うことができるような位置関係にあることがわかるとき、そこにここから派生する別のストーリーの可能性を見てしまうことは、あまりにロマンチックすぎるのだろうか?

国立映画アーカイブ「蘇ったフィルムたち チネマ・リトロバート映画祭」にて上映