« previous | メイン | next »

February 9, 2024

梅田哲也展「待ってここ好きなとこなんだ / wait this is my favorite part」
山田愛莉

[ art ]

 最近私は日記を書き始めた。日記に書くことで、私の記憶は蓄積される。そして、数日前または数か月前の日記を読むと、私は当時の記憶を取り戻したかのような気分になる。日記は、私の存在の連続性を保証してくれるかのような安心感を与えてくれる。そんなとき、福尾匠さんの日記を題材にした授業を受け始めた。一番初めの授業から、私の日記観は崩れ落ちた。日々を連続的に生きる私が、分散的で不連続な私を生産することが日記なのだ。
 私は、たまたま訪れたワタリウム美術館で、梅田哲也展「待ってここ好きなとこなんだ / wait this is my favorite part」が開かれていることを知り、足を運んだ。展示会での経験は、不連続な私を認識するものであった。不連続性の認識の仕方は、数日前の私の日記を読むことと似ていた。日記は文字であり、私が文字を書くことで不連続性を生むのだから、日々の生活の中で不連続性を感じることは不可能だと思っていた。そのため、梅田哲也展は不連続性を測りうるものにした非常に素晴らしい展示会である。人間は、過去を蓄積し、現在の時間の中に流れ込む。つまり、連続した世界の中にいる。ワタリウム美術館の展示によって、私が過去から分離し、現在に滞在する経験は、非常に面白く、観客に考えさせる仕掛けをつくっていたように思う。気づいたときには、私は時間的な現在そして空間的な現在に点在していた。
 この展示会は、演者と観客の入れ替わりが起こる。入れ替わりを可能にしたのは、手を振る動作だった。展示会の中で、私は2回手を振った。観客としての1回と演者としての1回である。私は展示ツアーの中で船と呼ばれる足場に乗る。演者が船を動かし、観客は大きな窓の目の前に到着する。私はワタリウム美術館が置かれる土地にさらされ、足先には人が歩き、道路が走る。そして道路の反対側に目を向けてみると、そこにはまた演者がいる。彼らが私を見て手を振ってきて、私は振り返す。これが観客としての1回である。その後、一旦ワタリウム美術館を出て、信号を渡り、道路を挟んで反対側の仮設建築に上がる。そこには数分前に手を振った演者がいて、私は彼らと入れ替わる。そして私は次のツアー客に手を振りかける。これが演者としての1回である。気づいたら演者に変わり、観客に戻っている。
 手を振られる振るの動作の連続は演者と観客の入れ替わりを可能にし、私はその過程で他者と接触する。私がこの経験から得たことは、数分前の他者の存在が、私の存在を揺り動かすということである。そして私が連続な存在なのでなく、不連続な存在だということが明らかになる。不連続性について言及する哲学者の言葉を借りて、私が展示会を通して感じたことを再度定義したい。その言葉はデカルトの「私が少し前に存在したことから、私がいま存在しなければならないということが帰結するためには、何らかの原因がこの瞬間に私をいわば再び創造する、つまり私を保存するということがなくてはならない」である。デカルトが言うには、自分を証明するとき、今"考えている"自分以外は証明できないのである。数分前の自分ですら証明できないのだ。すなわち、数分前の自分ですら他者であり、数分前の自分と現在の自分を連続した自分として捉えてはいけないのである。不連続な私は他者なのである。そこで、他者に注目することで、不連続な私の存在を明らかにしてみたい。2回目の手を振るとき、現在の私と現在の他者は、手を振る主体と客体に置き換わることから同じ時間に存在する。すなわち、現在の私と現在の他者は分離している。このときの私が他者に手を振る動作は、数分前に別の他者が私に手を振った経験と一致している。つまり、現在の他者と過去の私は同じ行為を異なる時間において経験しているといえる。よって現在の他者と過去の私の分離が明らかになる。今証明できたのは、現在の私と現在の他者、そして、現在の他者と過去の私である。この2つから導き出されるのは、現在の私と過去の私の分離である。現在の私と過去の私が他者を挟んで認識されることで、日記の文字と同じように不連続な私に触れることが出来たのだ。
 梅田哲也展そしてワタリウム美術館によって、日々を連続的に生きる私は、分散的で不連続な私を認識することができた。私が思う不連続性を認識すべき理由は、社会を不連続的に見ることが重要だからである。そして、我々が分散的であればあるほど柔軟になるからである。日本は、様々な文化を取り入れ土地に根付かせてきた。日本は様々な国から文化を輸入することで、様々な国の不連続な歴史をつぎはぎしながら、日本の歴史を形成し歩んできたのである。不連続に社会を読み解くことは、その変遷を多角的な視点で捉えることにつながる。日記と同じように我々の日々は様々なことが蓄積されている。時間軸と空間軸が様々な方向を向いている。私が存在している軸が一つの連続した軸ではなく、複数の連続していない軸の蓄積であることを認識することが必要である。私は、展示を見る前には不連続な私を認識することとはどういうことなのか理解することが出来ず、それ以前に不連続な私が存在していることを知らなかった。不連続な私だけでなく、不連続な世界すら見えていなかったのである。見えていない関係性を見るために、私はたまたま梅田哲也展に足を運ぶべきなのである。

ワタリウム美術館にて、1期:2023年12月1日→ 2024年1月14日 2期:2024年1月16日→ 2024年1月28日の日程で開催された