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April 13, 2024

『オッペンハイマー』クリストファー・ノーラン
三浦光彦

[ cinema ]

phonto.jpg クリストファー・ノーランの作劇は常に「誰が物語作者になりうるのか」を巡るゲームとして展開され、このプロットの組み立て方は初期から『オッペンハイマー』まで基本的には一貫している。複数の軸を用意した上でそれぞれの軸に作者を用意し、各々による物語の奪い合いによって映画を駆動させる。並行モンタージュや時間軸の錯綜といったノーランの代名詞的な編集はそのようなプロット構築から必然的に要請される手法であった。『オッペンハイマー』もやはりこれまでの作品同様、カラーとモノクロにそれぞれオッペンハイマー(キリアン・マーフィー)とストローズ(ロバート・ダウニー・Jr)を割り当てつつ、とりわけ映画後半から物語の奪い合いの様相を呈しつつ展開される。ストローズが私怨からオッペンハイマーのドラマ全体を裏で構築していたという種明かしは、ジャンルこそ違えど『メメント』や『プレステージ』などノーランのこれまでの作品を思い起こさせるだろう。そうした点において、オッペンハイマーの「原爆の父」、「殉教者」としての物語を簒奪しようとするストローズが典型的なノーラン映画の人物であるのに対して、主人公のオッペンハイマーは決してそのような能動的なアクションを一向に起こさない。本作はこの点においては、ノーランのこれまでのフィルモグラフィーを一応は更新している。
 『オッペンハイマー』は単純に双方による物語の奪い合いのみではなく、その手つきをより複雑化させた上で、物語の組み立て方=時間の二つの論理(科学と政治)の対決として映画全体を構築している。オッペンハイマーとストローズでは、因果関係の組織の仕方が違う。ストローズは結果(アインシュタインの表情)から原因(アインシュタインとオッペンハイマーの会話)を想像する。実際、このストローズの解釈プロセスは多くの人々がごく自然にやっていることだ。物語とは原因から結果へと直線的に進む過程のことではない。現在時点から遡行して合理的だと考えられ、選択された因果関係の順序が各々にとっての「物語」となる。大文字の「歴史」とはこのような物語の構築方法とイデオロギーが強固に結束することによって生み出される。しかし、科学者であるオッペンハイマーにとっては必ずしもそうではない。現在時において原因から予測を行い結果を計算する(「彼のは庶民の言葉、君のは予言者の言葉だ」)。だが、これは決して彼が完璧であることを意味しない。オッペンハイマーが奉仕する量子論においては「隠れた変数」は存在せず、未来予測は常に確率論的揺らぎによって生み出される複数の可能世界のヴィジョンに苛まれつつ為される。予測可能な因果関係を全て考慮する(「全ての電話に出る」)のが科学者としての彼の倫理である一方で、現実では取捨選択を迫られる。原因から演算された結果と結果から逆算された原因が一致するのが彼にとっての最善だが、実際には演算をしても不可能な事態が隣の研究室で結果として起こってしまう。彼はビンを投げ、それによって描かれる放物線を計算し予測できても、ジーン(フローレンス・ピュー)が花束を投げる原因を遡行的に構築することは叶わない。ジーンの自殺描写は極めて曖昧で、その原因が果たして本当にオッペンハイマーの態度によるものなのかは判然としない(自殺描写自体が彼による空想である可能性を多分に残している)が、結果から逆算されたときに少なくとも主観的にはその原因を自分に帰せずにはいられない。原因から結果を演算し可能世界のうちから一つを選択する潜在的(≒科学的)時間と、結果から原因を遡行的に構成し単線的な時間を構築する現働的(≒政治的)時間、科学者であると同時に「政治屋」でもあるオッペンハイマーを苦しめるのは両者の狭間の亀裂、因果関係の魔だ。
 この亀裂は政治と科学が融合する地点としての原爆開発において最大化される。オッペンハイマーは原爆投下によって引き起こされる諸々の可能性を予測できるが、実際に原爆を落とすか否か、どこに落とすかに関する決定権は彼にはない。彼の役目は計算可能な事態を提示するに留まり、実際に引き起こされる結果(=広島と長崎)はフレームの外へと追いやられる。政府の決定によって為された結果を当然計算できてしまう彼は幻視に悩まされることになるが、問題はさらにその先だ。彼は計算を繰り返し、原爆を開発し、それによって多くの人が死ぬことになったが、結果として戦争は終結した。彼は「原爆の父」となり、それゆえに死者たちに対する責任も彼に帰せられる。であれば、事態は単純だ。しかし、トルーマン、つまり原爆開発と投下の決定を正当化した張本人であり、劇中における最高の超越的審級に位置する彼はそのようには考えない。「彼らが恨むのは君ではなく私だ」。彼自身が原爆の原因であったはずなのに、他者から遡行的に眺められた時にその原因はトルーマンに帰せられる。原因のズレ、このような事態はテラー(ベニー・サフディ)のような科学者にとってはむしろ喜ぶべきものだろう。トルーマンの台詞は「科学を純粋に追い求めなさい、倫理的責任は全て私が取る」と言っているのと同義なのだから。しかし、オッペンハイマーはこれを許すことができない。つまり、彼を苛むのは単に原爆によって多くの人を殺めてしまったことによる罪悪感のみではない。政治と科学を融合させることによって原爆開発をし、多くの人を殺めたにもかかわらず、戦争が終わってしまった後から遡行的に描き出される歴史において政治と科学とが切り離され、倫理的責任はなかったことになり、科学者としての功績だけが残る、そのような二つの論理(政治と科学)の圧着と分離こそが彼をさらに苦しめる。ストローズはこの論理を理解できないからこそ、オッペンハイマーが殉教者になりたがっていると錯覚するのだ。
 それゆえ「原爆についての倫理的責任感はどの段階で生じたのか」、この質問にオッペンハイマーを上手く回答できない。彼の論理では、「科学者は未来を予測し、その予測に怯えるからこそ原爆投下を辞めるべきと考えるが、庶民は落としてから初めて恐怖する、だからこそ原爆を投下すべき」だった。原爆が落とされた時にこそ人々は恐れ慄き、その恐れこそが今後全ての戦争をなくすだろう、広島と長崎は必要な犠牲であって、核(戦争)の連鎖反応は起こらない。この論理は原因から結果を演算する科学の論理を、結果から原因へと遡行する政治の論理より上位のものとして措定している。この点がオッペンハイマー最大の誤算だった。「歴史」は原爆が孕む倫理的問題と科学的達成とを事後的に分離した上で、前者をイデオロギー上の敵(ファシズムと共産主義)に投影し、後者を純粋化する。このような「歴史」の論理が働くとき、科学の前進(原爆から水爆へ)はどれほど倫理的に問題含みでも事後的に肯定されうる。この事態を前に彼は「連鎖反応は起こった」と呟くのである。
 『オッペンハイマー』はノーランが得意とする時間=因果関係の操作を歴史の相のもとで科学と政治の対立へと敷衍させており、主題と方法とを上手く合致させている。しかし、一方でノーランの映画自体が抱える問題点が依然として変わっていないのもやはり事実だろう。「誰が物語作者になりうるのか」、物語の構築それ自体を物語にするという既にメタフィクショナルな気配を多分に孕んだノーランの作劇は、鑑賞者の思考を常にメタへと誘い続けながらまさしく『インセプション』がイメージとして視覚化していたような無限後退を引き起こす。ノーランの病的に乱雑な編集は映画自体に内在する操作可能性を複雑化することによって、そこに鑑賞者を巻き込もうとする。しかし、その手つきをどれだけ洗練させても映画は我々の前に投影される頃には、既にして何者かの恣意的な操作による結果でしかなく、鑑賞者はその結果しか知り得ない。GUI上で操作可能なメディアが跋扈する現代において、なぜあえて操作可能性の低い映画を作り、観るのか。そうした映画というメディアの限界を巡るペシミスティックな問いかけがノーランの作劇の根底には常にある。ノーランのデジタル嫌いは有名だが、彼の作る映画のほとんどはそれを過度に内面化しており、その作劇の発想自体はむしろ映画以降のデジタルメディア(ゲームやコンピューター、インスタレーション)の手つきへとますます近づいている。とりわけ『インターステラー』以降は、複数の可能世界のヴィジョン(テセラクト空間)を提示しつつ、しかしそれでいて映画というメディアがそれら全ての可能性を描き出すことは到底出来ないという限界から出発しており、前作の『テネット』で繰り広げられた弛緩しきった茶番劇はほとんど開き直りにも近いだろう。その先でノーランが見出すのは、複数の可能世界を演算しうる能力を持ち合わせていながら、それらの可能性を事後的に覆い隠してしまう「歴史」の力の前で屈服せざるを得なかった男の物語であり、『オッペンハイマー』はその意味でノーラン自身のナルシスティックでマゾヒスティックな自伝にも近い趣を醸している。無論そうした倒錯した態度こそが(とりわけポストシネマ世代にとって)魅力となっているであろうことは疑い得ないが、そろそろ不毛なペシミズムを超えた光景を見せてほしいところだ。

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