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May 25, 2024

『ゴースト・トロピック』バス・ドゥヴォス
二井梓緒

[ cinema ]
6 サブ.jpeg

©︎ Quetzalcoatl, 10.80 films, Minds Meet production


フィルムで撮影されたブリュッセル郊外の夜景は心地よく、静かな環境音とそれを決して邪魔しない音楽は観客を落ち着かせ、作品に没入させる。映画館で見ることにぴったりな作品だと思う。
 清掃の仕事を終え、いつも通りに列車に乗るが、気づいたら終電まで寝過ごしてしまう中年の女性ハディージャ。彼女は娘に電話をかけるが、応答はなく、「迎えに来てほしい」と留守電を残し、仕方なく歩いて自宅を目指す。

 帰り道を歩く中で、昔家政婦として勤めていた家を覗いて、窓の向こうに男の姿を発見する。静かに彼と視線を交わした後、ハディージャは玄関へ下っていく。そうすると近所に住んでいるのだろう男に何用か尋ねられ、怪しい移民がいるから気をつけていること、この家にはもう誰も住んでいないことを告げられる。家の中にいた彼はちゃんと実在していて、それでも近所の男にとっては移民という名の幽霊であり、目に見えない存在なのだ。そしてハディージャが目撃したその男のことを近所の人に告げずに立ち去るのは、空き家の男と同じような、ある種の人々の目には見ることができない部分を、彼女もまた持っているからではないのか。
 たった一夜の物語なのに、ハディージャが自宅に着くまでに出会う人々にはきっとそれぞれに物語がある(しかし出会う人々の前後は映されないので観客がさまざまに想像することができる)。静かに歩いていくハディージャは、おそらく忙しい人だったら──とりわけ日が出ている時間なら尚更──絶対に見ないような人たちをまじまじと見つめていく。夜でしか、一人でしか、静かに見つめることのできない景色がそこに映し出される。

 空き家の男が近所の男には見えないように存在が目に見えなければ、寒さに凍えるホームレスのように他者との関わりを持たなければ、もっとわかりやすく言うなら対話しなければ、人は人として存在しないのか。そんなある誰かにとっては存在していないのと同じような人たちが映し出されても、何も起こってないかのように見えてそれぞれの人が生きている時間の前後が主人公を通して透けて見えてくる。あの空き家に住む幽霊のような男との、出会いとも呼べない幽霊同士としての出会いがより一層そう思わせる。
 冷静に考えてしまうと、夜道を一人の女性が歩いているのは危ないし、ホームレスに話しかけるシーンではこの後何か良くないことが起こるのではないかと身構えてしまう。しかし心配したようなことは起こらず映画は進む。どこか透き通ったようなハディージャの存在のあり方は、この映画を見る私たちの生活の忙しなさを浮き彫りにしていく。

 作品の終盤でハディージャは自分の娘が夜遊びしているところを目撃する。学生である娘はすでに家族とは違った社会にも属している。家族の外にいる娘、おそらくこれまで見たことのない娘の姿を、ハディージャは声をかけることもなくこっそりと見つめ続ける。普段見慣れたのとは違う若い娘の姿が、母親にとって幻のようなものなのだろうか。それとも、いまも自分を見つめているなんて思いもしないような母親の存在こそが、娘にとって幽霊のようなものなのだろうか?

 娘はいつか、母親とともに住む家から巣立っていくのだろう。そのとき、母にとって娘は、この夜に見た見慣れない若い自分の知らない娘のような幻になってしまうのだろうか。そのとき、娘にとって母は、そこにいて自分を見ていたなんて思いもよらなかった幽霊になってしまうのだろうか。
 ジョーン・ディディオンは『さよなら、私のクィンターナ』の中で、結婚によって家を出ていく娘について、思い出とは「もはや思い出したくないこどもだ」と書いている。「こども」が思い出の中にしかいないのではなく、思い出が「こども」なのであり、だからこそその対象が自分の元を去っていったとしても自分とは切り離すことができないものなのだと。この本を書いたとき、彼女は夫と娘を相次いで亡くしている(つまり彼女は娘を、結婚と死によって、二度亡くしたのだ)。娘は母の手を離れてどこへ行ってしまうのだろう?母は失った娘と、なんらかの関係を持つことはもうできないのだろうか?そんなことを、夫を失ったと語り、娘が家族ではないどこかに居場所を見つけようとするのを目撃するハディージャを見ていると考えてしまう。彼女が留守電に残した言葉は、どこを漂っているのだろう。
 そして『ゴースト・トロピック』の冒頭に置かれていた、誰のものでもないような声としか言いようのない、あの誰もいない部屋に流れていたナレーションのことを思い出す。空間を人の痕跡が埋めていくのはつらい仕事なのだと語っていた声、その場所を赤の他人が訪れたら恥を感じるのだろうかと自問していた声を。

 よくよく考えれば、ハディージャがすんなりと真夜中の病院に忍び込むのも面白い(なんなら受付のおばさんに断られているのに腰を低くして受付にみられないように忍び込む様はなんだかお茶目である)し、先ほど病院へ送ったホームレスがすでに亡くなっていても、娘が留守電を無視して男の子とお酒を飲んでいたのを目撃してしまっても、帰路についた彼女は少しだけ寝て、いつものように朝はやってきて、そして少しだけ微笑んで再び仕事へ出かける。まるでそれは昨晩出会った人々のその瞬間だけでなく、前後の生きていた(あるいは生きている)記憶を包み込むようでもある。母親としての役目を終え、彼女は母親という役目から段々と透明になっていく──彼女がそんな気がなくても私には彼女が優しい透明なおばけみたいに感じて、彼女が知っているから大丈夫と言われたような気がして、なんだか安心した。

 この静かで美しい映画が東京という忙しない街で静かにロングランしているのもとてもうれしい。

恵比寿ガーデンシネマほか全国ロードショー中

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