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June 14, 2024

倫理的な映像とはなにか
梅本健司

[ cinema ]

phonto.jpg  他人には見せるつもりがない登場人物たちの表情が随所で捉えられている。山添くんが部屋でひとりでいるときの顔、藤沢さんの耐えている顔、栗田社長や辻本の泣きそうな顔。そうした顔たちはカメラで不意に抜かれてしまうことはなく、常に流れのなかで見えてくるように演出されている。
 辻本の泣き顔は元部下である山添くんが移動式プラネタリウムについて語る流れのなかで見せられる。役というよりも演じる松村北斗自身の癖かと思うほど自然に、山添くんは言葉を発するときに伏目がちで人を見ない(むしろ彼は遠くから人を見守る)。それゆえに目の前にある、いまにも泣きそうな辻本の顔はしばらく気付かれることなく、山添くんの意気揚々とした語りを中断させることもない。そのとき切り返しはすれ違う視線を強調し、別々のショットで切り取られた人物たちのそれぞれ異なる事情を浮かび上がらせる。話し終えた後に山添くんは辻本が泣いていることに気付くが、直後にレストランのウェイターが話しかけてくるため、その理由に深入りはしない。「中のお席が空きましたが」というウェイターの提案に「ここ(テラス席)で大丈夫です」とすぐさま応える山添くんは、むしろ辻本の泣き顔をパブリックな見せモノにしないための気遣いをしているように思える。必要以上に辻本の泣き顔を捉えないカメラも山添くんのその行動に寄り添うようだ。つまり流れのなか、というのは登場人物たちの表情の変化以外の演出の論理が用意され、複数のアクションが相対化されているということである。「人間たちの感情とは無関係に、この世界が動いている」という藤沢さんが口にする言葉は物語の主題としても考えられるが、『夜明けのすべて』はなによりもそれを演出の問題として実践しているのである。

 しかし『夜明けのすべて』が複雑なのは、監督である三宅唱だけがそうした表情を特権的に捉えられるわけではないと示しているところである。栗田科学以前の職場で藤沢さんがPMSの苛立ちを発露させたとき、その様子は誰かのタブレットで撮られ、上司にまで共有されてしまう。揺れ動き、物陰からズームをするその映像は盗み撮りであることが強調され、映像としての倫理を欠いているように思える。ただし、映画自体がその映像を否定的なものと見做しているのかは定かではない。脚本上では撮影者の存在は明かされ、藤沢さんの行いよりも、撮影したことの方が問題だと注意されるのだが、映画版ではこの件が削除されている(『月刊シナリオ 2024年3月号』)。理由を勝手に推測するならば、藤沢さんを撮影するという行為ひとつで登場人物、並びに彼を演じる俳優(『ケイコ 目を澄ませて』で高校生ボクサーを演じた安光隆太郎)が判断されてしまうことを避けたかったのではないだろうか。想像はできるものの撮影者の存在がぼかされた本編では、やはりその撮影行為自体の善し悪しも曖昧なものになる──もちろん観客各々が善くないことだと判断することはできるが、それは自身の倫理に従ったもので、作品の倫理に沿ったものではないと思う。少なくともそのタブレットの映像は、藤沢さんの苛立ちの発露がどのようなものなのか、本編を「代行」して観客にはじめて見せてくれている。
 『夜明けのすべて』では撮影、というよりも記録することがささやかにテーマとされており、たとえば栗田科学は中学生ふたりによって映画中ずっとカメラで記録されている。引きの画が多い『夜明けのすべて』のなかでも、中学生が行う社員たちへのインタビューは登場人物たちを寄りで捉える契機を与えてくれている。同時にそれだけではなく、比較的自由に社内でカメラを回し続けている彼らの様子もところどころで見せられる。では、そのようにカメラを向ければ否が応でも捉えてしまう可能性のある、他人が容易に踏み込めない社員たちの個人的な事情、つまりPMSやパニック障害、あるいは栗田社長の弟のことなどに中学生たちはどのように向き合っていたのだろうか。完成したドキュメンタリーが長く見せられることがないためにはっきりとはわからないが、撮影するうえでの彼らの重要な判断が読み取れる場面がひとつある。栗田科学ではじめて藤沢さんが山添くんに激しくあたったとき、まさしく中学生たちはドキュメンタリーを撮影している最中だった。他の社員たちが速やかに藤沢さんと山添くんを引き離した後、その場に取り残された彼らのうちのひとりがカメラのレンズを手で覆い、もうひとりに目配せをしている。観客にとっては栗田科学がどのような職場であるのか端的に示される最初の場面とも言えるが、一方中学生たちはその様子を見せるべきではないものと判断するのである。ここでは人の個人的な事情を無断でカメラに収めることを回避しようとする倫理的な意思がある。以前の職場での出来事とここでの中学生たちの身振りを対として考えるのならば、たしかに後者の方が肯定されよう。藤沢さんでも、山添くんでもなくわざわざ中学生たちで場面を終えるのは、撮らない、という態度こそを尊重しているようにも思える。しかし、ことさらこのふたつの場面は関連づけられておらず、いずれにせよ藤沢さんや山添くんの人には見せたくない表情を捉えなくてはならないフィクション映画『夜明けのすべて』にとって、それは撮る/撮らないというような二者択一の単純な問題ではないはずだ。
 それにあれだけ気を遣える中学生たちであっても、見せてもいい栗田科学だけを的確に選択できているわけではないのかもしれない。藤沢さんが栗田科学を辞め、山添くんのナレーションが映画をまとめにかかるとき、中学生たちのドキュメンタリーが一部抜粋される。朝のラジオ体操をトラヴェリングで映していくなかで、社員を演じている足立智充や久保田磨希は笑顔でカメラを迎える一方、藤沢さんを演じる上白石萌音には少し異なる演出が施されている。フレームに入った瞬間、藤沢さんは顔を伏せてこちらを見ておらず、フレーム中央に収められてから、顔上げ、カメラに向かって会釈をする。最初の暗い表情がどのような感情からくるものなのかは語りようがないが、それは撮られていることに気付いていない、人に見せるつもりなどなかった顔に思える。あるいは、笑顔をつくり、完全にはカメラを見ずに会釈をする藤沢さんからは、少なくとも撮られることへの恥が見て取れるのである。
 はたしてタブレットの映像と中学生たちのドキュメンタリーを区別するものはなんだろうか。撮影許可の有無、カメラポジジョン、移動の仕方(ズームとトラヴェリング)。いくつもあげることができ、たとえ映画をそれほど見ていない観客にとっても、どちらの撮影を見習うべきかは明白だろう。しかし、『夜明けのすべて』自体はそのふたつをまったく別の種類の映像として差別していないようにも思える。おそらくこの映画にとってより重要なのは、人に見せたくない藤沢さんの表情が、どちらの撮影方法であっても捉えられてしまうという事実である。
 冒頭で述べた三宅唱の演出による映像は、登場人物たちの表情を捉えるうえで、卑劣さなどまったくない、誠実なものだと個人的には思う。これは前作『ケイコ 目を澄ませて』から顕著になった三宅唱の美点である。しかし、『夜明けのすべて』はこれまで実践してきた演出が真に倫理的なものと言えるのかを自ら問い直しているという点で前作からさらに深化している。三宅唱が演出した映像は、登場人物たちが撮ったという設定の映像よりも倫理的なものであると必ずしも示されない。他人には見せるつもりがない登場人物たちの表情は誰でもカメラに収められてしまう可能性がある、自らの特権を放棄することによって、こういってよければ、三宅唱は登場人物たちとともに、社会を倫理的に見つめるとはどのようなことなのかという問いに巻き込まれている。正しさを思考しながら、しかし正しい映像ではなく、ただの映像にとどまること。そのようにして容易に正解を提出せず、最後まで問いの映画としてあるところが『夜明けのすべて』の器の大きさなのではないだろうか。

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