『グレース』イリヤ・ポヴォロツキー
池田百花
[ cinema ]
この映画で最初に十代半ばの少女と父親がひとつのフレームに収まるとき、娘が初めて父に放ったのは「汚いよ」という言葉ではなかったか。それは、その直前に経血で汚れた下着を川で洗っていた自分自身を指して発せられた言葉にも聞こえるし、放浪を続けているふたりの生活の場であるキャンピングカーのなかで娼婦のような女性と関係を持った後、外で待つ自分を迎えにやって来た父に対して吐かれた言葉にも聞こえる。名前すら与えられていないこの父と娘にどんな過去があったのか語られることはないが、彼らには妻であり母である女性が不在であり、父と娘だけが15年もの間この小さな車で放浪生活を送っていることがやがて明らかになる。少女にとっては、父親が行く先々で女性たちと関係を持っていることも、彼がいかがわしい仕事でその日暮らしをするためのお金を稼ぎ、自分もその手伝いをさせられていることも、もはや日常になってしまっている。父親が娘を傷つけるような人物では決してなく、彼女を娘として大切に思っているとはいえ、この小さく呟かれた「汚い」というひと言が、現状に彼女が抱いている生理的な嫌悪感を率直に言い表している。
そんな状況のなか、少女が身の回りを飾るものの数々は、息が詰まりそうな世界から身を守るためのささやかな抵抗や祈りに似たものになっているように見える。キャンピングカーのバックミラーにいくつも重ね付けしたカラフルなヘアゴムや、首に巻き付けた長いパールのネックレス、耳元に刺した紫の花など......。特に忘れがたいのは、映画の冒頭、夜の街に停まった車のなかで、眠りにつこうとする父の隣に娘が横たわる場面だ。そこで彼女は、光って回るおもちゃのプラネタリウムを胸に抱きかかえていて、画面が外のショットに切り替わると、車から漏れ出たその光が街の光景のなかで弧を描く様子が映し出される。その周りには娼婦たちがたむろし、そのうちのひとりがまさにトラックの運転手の車に連れ込まれようとしており、光に気づいて目を留める者は誰もいない。この時点ではまだ少女が踏みとどまっている、まさに純粋無垢な小宇宙のような世界と、彼女が足を踏み入れつつある、大人たちが行き交う世界のコントラストが俯瞰でとらえられたこのショットは、どこか不穏で猥雑な空気感を漂わせながら幻想的で美しい。
そして、キャンピングカーでロシアの辺境を横断するこの父と娘の旅は、少女が大人へと変化する道程でありながら、物語が進むにつれてますます終末的な雰囲気を帯びていく。それが最も顕著に現れているのは、物語の終盤、防護服を着た作業員たちが、陸で大量に死んだ魚を片付けているところを俯瞰でとらえたショットだろう。多くが説明されることはないが、この地に差し掛かったところで行く手を阻まれた父と娘は、束の間、気象観測所で働く女の家に泊めてもらうことになる。そしてここでも父親はこの知り合ったばかりの女性と関係を持つことになり、その場から逃れるように家を出た少女は、前に別の場所で出会い、彼女のことを追ってやって来た少年と再会し、ついに彼と一緒に父のもとから逃げ去る。それから彼女は、辿り着いた先でこの少年と初めて性的な経験をすることになるのだが、朝になるとすぐさま相手に背を向けて立ち去ってしまう。彼女は、半ば死の温床と化したこの土地で、自らのうちに芽生えつつあった性と対峙するという出来事を通して初めて、これまで語られることのなかった母親の死に向き合い、宙吊りにされていた喪に引き戻されることになるのだ。つまりここで、奇しくも、性が死に接続される。
その後父が待つキャンピングカーに戻って来た少女は、たったひと言、海に連れて行ってくれるように彼に頼み、車が海に近づくと、彼女が何かを腕に抱えてひとりでそこから降りてくる様子がとらえられる。そして彼女は、そのまま一目散に海のほうへと歩みを進め、体が水に浸かるところまでやって来たところで、腕に抱えていた壺のふたを開けてそれを真っ逆さまにし、なかに入っていた灰を一気に海に開け放つ。それは、亡くなった母親の遺灰であり、少女は、悲しみというよりむしろ怒りをぶちまけるようにしてそれをすっかり海にまき散らすと、壺そのものも放り投げてしまう。ここで、母の死が少女にもたらしたはずの痛み、それまでもずっと少女のうちにあったが、言語化できない、表出され得ないものとして沈黙していたその痛みが初めて表される。少女が大人になる過程で向き合うことを余儀なくされる性がある種の苦痛と結び付いたものとして描かれてきたのも、彼女にとってはそれが、苦痛をもたらす母の死を乗り越えるためのイニシエーションになっていたからだろうか。そうして揺れ動く海の水面の上で性あるいは生と死が混ざり合い、少女はカメラに背を向け、父が待つ世界へ戻っていく。しかしそこで物語は終わらず、その直後に起こる映画的な出来事が、彼女の苦しみの所以を最も説明するものとして私たちを迎え撃つ。この映画のタイトルである「grace」の文字が彼女の後ろ姿に重ねられるのだ。「恩寵」。それは、自分を名指す名前すら持たない少女に最後に与えられた言葉であり、知らないうちに背負わされたその言葉とともに、彼女はいわば選ばれた者として、無数の苦しみが待ち受けるこの地にもう一度戻ってこようとする。そんな彼女を見つめるとき、終始ぐらついて安定しない手持ちカメラの映像に胸をかき乱されながら、しかしそこに小さな光が灯るような感覚を覚えた。