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December 8, 2024

『うってつけの日』岩崎敢志
結城秀勇

[ cinema ]

 かつて一緒に暮らしていた昭一(岩崎敢志)が一年ぶりに帰国することで、琴(村上由規乃)が当たり前のように築いてきた生活に綻びが見え始める、というのがだいたいのあらすじと言ってもいいのだと思うのだが、昭一の絶妙にイヤなやつっぷりがものすごい。運転手に「トランク」とだけ言ってタクシーのトランクを開けてもらうとか、ほんとこんなやつとは友達になれん、と思うのだが、そんな人物を監督自身が演じ、その元恋人である主人公の職業は監督自身の生業の一部である録音技師で、詳しくは知らないがおそらく物語も監督の個人的な体験から来ているのだろう。そう書くといかにも日本映画にありそうな男性監督が女性を主人公にしてその実結局自分の自意識の発露なだけ、の作品に思える(たぶん自分でも、こんな説明だけ聞いたらそんな映画を見たいとは思わないだろう)が、たぶんそういうことではないのだ、ということだけは最初に言っておきたい。
 上映後のトークで清原惟が語っていたことがすごくなるほどと思えた。冒頭で空港へと向かう車を運転する琴の横顔をカメラは助手席からとらえるのだが、空港で昭一と落ち合った帰り道では、もともとカメラがいた場所に昭一が座っているので、カメラは後部座席から運転する琴を撮影する。昭一が琴を撮るためのカメラの居場所を奪ってしまい、そのことが、行きではよく見えた琴の顔の細部を見えづらくさせるのだ、と。琴にとって、通勤の手段でもあり、創作の場でもあり、(昭一のせいで)寝室にもなるこの赤い車という空間が、なにかによって次第に侵されていく、というのがこの作品の正味の物語だと思う。さらに皮肉なのは、彼女の空間であるはずのこの赤い車は、もともと昭一の家族の持ち物であるということだ。彼女の空間は、彼女が自分で勝ち取ったと正当に権利を主張できるようなものでは、そもそもない。
 さんざん昭一がイヤなやつだと書いておいてなんだが、別に彼が諸悪の根源なわけではない。琴の空間を奪うなにかは、たとえ昭一がいなくてもやはり彼女の生活を圧迫するだろう。職場でも社会でも、不公正や無関心やぞんざいさ、制度や慣習や当たり前のなにかのフリをして。それを性差のようなものに代表させて語ることもできるのだろうが、個人的には琴と赤い車の関係性こそがこの作品の肝だという気がする。彼女がこの車に愛着を持つのは、別にこれがかつて愛した人の持ち物だったからではない。「そんなこととは別に」彼女がこの車と過ごした時間があるからだ。でも他人はそれを理解しないだろう。彼女だけが知る車との関係を、きっと恋愛や結婚やその失敗などといったもので覆い隠そうとするだろう。そのこと自体が、上に書いたような彼女の空間を奪うものなのだという気がする。昭一の実家の前にちょこんと停まった、いまいちどこがどう魅力的なのかも傍目にはよくわからない赤い車が、タクシーのリアウィンドウ越しに小さくなっていくとき、少し胸が苦しくなる。別に恋や愛や家族じゃなくたって、琴と赤い車がもう少し一緒にいられる世界ならよかったのにと。
 この作品を見ていて、最近見直した『フランシス・ハ』についてある人が「自分だけの部屋」(ヴァージニア・ウルフ)についての映画だと語っているのを聞いて感銘を受けたことを思い出した。『うってつけの日』もまたある意味で「自分だけの部屋」を巡る物語だと思う。だから、通勤の足を失った琴が早朝のハイエースに乗り込んで、車内を満たすなんかイヤーな空気をかき消すように音楽が鳴り出すのは、諦めでも現実逃避でもないのだと思う。それはむしろ彼女が言葉少なに淡々と日々続けている抵抗の、闘争の合図なのだ。インタビュー現場で、ブームマイクを頭上にピタリと構える琴の顔がポーズとあいまって、どことなくジャ・ジャンクー作品で武侠モードになったチャオ・タオみたいに見えたのを思い出した。

シアター・イメージフォーラムにて上映中