デルフィーヌ・セリッグの唯一の長編監督作品『美しく、黙りなさい』について、本特集のメインゲスト、映画監督にして映画批評家であるカミーユ・ヌヴェール氏による論評を訳出してご紹介します。
ヌヴェール氏「リベラシオン」紙を中心に、映画の美学と政治性を往還しながら、女性たちの経験や表象、映画史のなかで見過ごされてきた作家たちに光を当てることに優れた批評家として知られています。新作の紹介、フェミニズム批評の座談会(6/12)、そしてマルグリット・デュラスについて講演されます(6/13)。
この映画は、まるで奇跡のような作品だ。『美しく、黙りなさい』は、映画監督としてのデルフィーヌ・セリッグが残した唯一の長編作品である(彼女にもまた、これらの女性たちのひとりとしてこの映画に登場していてもおかしくなかったバーバラ・ローデンのように、実現されることのなかった長編の企画があった)。本作は、1975年から76年にかけてハリウッドとパリで撮影された、23人の女優たちが自らの女優として、そして女性としての境遇を語る証言を収集した資料的なドキュメンタリー作品ではない。いや、そうであったとしても、それだけではない。また、珍しいゆえに、あるいは長らく見過ごされ、不都合で、あまりに露骨であるがゆえに、いつしか崇拝の対象となったカルト映画の一本にすぎないわけでもない。『美しく、黙りなさい』は何よりまず、偉大な映画である。映画史の周縁から生まれた作品のなかでも、ひときわ前例がなく、驚くべき作品だ。
さらに、この映画は埋もれてしまったある映像技術の「生き残り」であるという意味でも奇跡的な作品である。ジェーン・フォンダ、ジュリエット・ベルト、エレン・バースティン、シャーリー・マクレーン、そしてマリア・シュナイダーをはじめとする女優たちが、セリッグの投げかける素朴な問いに答える。その姿を、キャロル・ロッソプロスが、当時としては草創期のビデオカメラであるポータパック(ポータブル・ビデオカメラレコーダー)を用いて撮影している。モノクロームの顔貌、薄暗い部屋で、肘掛け椅子やベッドに身を預けながら、彼女たちは声に出して考える。それこそが、この映画の唯一のスペクタクルである。この映画の核心にあるのは、絶えず展開し続ける言葉の運動だ。もし自分が男性だったとしても同じ職業を選んだだろうか。映画界の力関係や階層構造とは何か。働く女性として、また見られる存在として、彼女たちはどのように男性権力に組み込まれているのか。彼女たちは、いわば「二重に女性であること」について、それぞれの経験から語り合う。本作は、容赦のない弁証法的な思考の運動を組み立てていく。女優たちの言葉は、その場の即興であるかのように紡がれながら、ひとつの「実践される思考」を形づくっていく。映画は円環を描くように進む。そして誰ひとりとして、自らに割り当てられた表現の場に満足している者はいない。これは知的な映画であって、そして何より、知性そのものを主題とした映画なのだ。
輝かしい勝利
この長らく姿を消していた作品のリバイバル上映は、まさに新たな誕生のように響く。というのも、1981年の本作の初公開はきわめて限られたものだったからだ。
フランス国立図書館による修復は実に時宜にかなったもので、とりわけ音響の再生作業は大きな成果をもたらしている。前半部分では、これまで吹き替えに覆い隠されていた英語圏の女優たちのオリジナル音声が復元され、現在は字幕付きで鑑賞できるようになった。現場録音ならではの空間的な広がりや、言葉そのものの質感も甦っている。技術的な制約から後半部分には依然として吹き替えが残されているものの、その差は鮮明である。
一方、ビデオテープは消失の危機から救い出された。それを担ったのが、セリッグ、ロッソプロス、そしてイオアナ・ヴィーダー が、フェミニスト・グループ「不屈の女神たち」とともに設立したシモーヌ・ド・ボーヴォワール・センター*1である。そして4年前には、カリスト・マクナルティによる重要なドキュメンタリー『デルフィーヌとキャロル』がその活動に再び光を当て、彼女たちの仕事をより広い新しい観客へと蘇らせた。ここに映し出されるのは、名声の大小こそあれ、皆が同じ境遇に置かれていた女優たちの顔である。私たちのもとへ届くその映像は、まるで亡霊のような時間から送られてきたものだ。そしてそれは、ビデオというメディアが産声を上げた時代そのものでもある。本作を見ていると、そのメディアの儚さが痛切に感じられる。映像は常に消滅の淵にあり、そこに映る顔もまた、いまにも輪郭を失いそうに揺らいでいる。
ラディカルなDIY精神の実践として生まれたこの作品は、磁気テープの冥府の底から、まるでポルターガイストのような揺らめく映像とともに私たちのもとへ帰還する。そしてそこから聞こえてくるのは、私たちが耳にした瞬間、自らの言葉として認識できる言語――「姉妹たち(シスターフッド)の言葉」である。#MeToo以後の今日、その声はかつてなく生々しく、現在形の響きを帯びている。セリッグの歩みはあらゆる点で先駆的だった。今月には批評家 ジャン=マルク・ラランヌによる論考集『構築されていくデルフィーヌ・セリッグ』*2も刊行されるが、セリッグの先見性は今日、死後になって鮮やかな勝利を収めている。
有名女優から反逆する映画作家へと転じた彼女が、自ら映画を作る手段を獲得しようとしたこと。そのために仲間たちとともに、半ば地下活動のように映画制作を続けたこと。その代償として、映画界からの敵意や検閲にさらされ、与えられる役は減り、彼女自身もまた出演を選り好みするようになったこと。そして何より、同志であり同業者でもある他の女優たちのもとへ赴き、彼女たちの声を聞き取ろうとしたこと。紙の上ではごく単純に見えるこの試みから、映画史上もっとも力強く、そしてもっとも前例のない作品のひとつが生まれた。それは、あらかじめ設計された「装置としての映画」ではない。高みから教え諭す映画でもない。むしろ身振りとしての映画であり、前進する力と、生きた思考に満ちた映画である。
『美しく、黙りなさい』の身振り――それは運動としての身振りであり、同時に自己反省的な身振りでもある――は、映画という手段によって1970年代のフィクションのありようを検証する。女性解放運動のただ中にありながら、自由が実現されたかのように語られる一方で、その後退もまた当然のものとして受け入れられていた時代。その矛盾した風景を、本作は鋭く描き出している。
思考の脈動
キャロル・ロッソプロスによれば、セリッグが与えた演出上の指示はただひとつだった。顔を撮り続けること。そして三脚は使わず、終始カメラを肩に担いで撮影すること。その結果、画面にはわずかな揺らぎが生まれる。映像はかすかにきらめき、絶えず震えている。しかしその震えがもたらすものは、単なる技術的な不安定さではない。私たちの目の前で形を取りつつある思考そのものの運動なのだ。会話し、耳を傾ける時間のなかで、彼女たちの顔は徐々に活気を帯びていく。そこに物質的な存在感が宿り、まるで初めて託されるかのような思考の脈動が現れる。私たちは彼女たちが言葉を探し、言い直し、ためらい、ときにその戸惑いを笑い飛ばす姿を見る。とりわけ若い女優たちのなかには、セリッグの問いに答えながら、自分たちが何に加担してきたのか、その全体像(the big picture)を初めて認識したかのように見える者もいる。たとえば、女性同士の憎しみや対立を描く場面は演じてきても、他の女性と連帯する場面を演じたことはほとんどなかったこと。しかもその対立は、しばしば男性たちによって仕組まれ、維持されてきたものだったこと。彼女たちが語るその自明の事実、その透徹した洞察には圧倒される。
さらに重要なのは、本作が単に複数の証言を並べたルポルタージュや、一般的な作家ドキュメンタリーとは異なる点である。ここで彼女たちが語りかけている相手はセリッグであり、他の誰でもない。女優であり、作り手であり、自分たちと同じ立場に立つ者、そしておそらく友人でもある相手である。
この極めて個人的な「呼びかけ」の関係と、前例のないかたちで展開される思考の運動とが結びついている。それはちょうど同じ年、フィクション映画の側で『ジャンヌ・ディエルマン、ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地 』が成し遂げたことにも通じている。この作品もまた近年、映画雑誌 『サイト・アンド・サウンド』の「史上最高の映画100本」で首位に選ばれたことで、再び注目を集めた。『美しく、黙りなさい』の独創性は、こうした点にある。この映画は、女性が同じ女性たちに向けて語り、考え、理解し合うことによって成立している。言い換えれば、本作は女性とその同胞たちとのあいだに成立する、豊かで誠実な知性の対話を映し出した映画なのだ。
世界への皮肉な驚き
この映画は、そうしたかすかな揺らぎを湛えた映像によって、どこか無声映画の裸形を思わせながらも、同時に、言葉の力という映画の音響的な豊かさを見事に引き出している。興味深いことに、『美しく、黙りなさい』は、同じ1975年に制作されたフィリップ・ガレルの『孤高』の完全な対極に位置する作品でもある。それは、ジーン・セバーグ、ティナ・オーモン、ニコらを捉えた、気取った沈黙の映画に対する、おしゃべりな反転版とも言えるだろう。ガレルの映画には、美しい「少女=女」たちの肖像がある。道に迷った娘たち。その喪失状態こそが、彼女たちを撮影するための前提条件であるかのような女性たち。映画は、彼女たちの身体と魂を捉えたかのように振る舞う。一方、セリッグの映画にはまったく別のものが息づいている。セリッグ自身とその作品を象徴する、あの尽きることのない微笑みには、むしろ深い喜びと、世界への皮肉な驚きが絶えず息づいている。そしてカメラを回すこと、自らの声を発することへの歓喜と怒りが同時に脈打っているのである。『美しく、黙りなさい』が女優による映画であり、その全体を通じて映画そのものだけを主題とし、そして他の何ものについても「語らない」作品であるからこそ、その卓越した傾聴の姿勢と自己省察的な視点によって、同時に極めて優れたフェミニズム映画にもなっているのである。
*1シモーヌ・ド・ボーヴォワール・センターCentre audiovisuel Simone de Beauvoir
女優のデルフィーヌ・セイリグらの主導により、1982年にパリに創設された。女性の権利や歴史、フェミニズムに関する映像資料の制作、収集、保存を目的として設立された映像アーカイブセンター。現在に至るまで映像制作や教育活動、ジェンダー表現の改善などに取り組んでいる。
*2『構築されていくデルフィーヌ・セリッグ Delphine Seyrig, en constructions』カプリッチ出版。これまでも女優、俳優を通して映画史を語ってきた優れた批評家ラランヌ が、セリッグという女優、監督、人物を通して、演じること、スターであること、そしてジェンダーの問題について論じる刺激的な書。ラランヌ氏によるデルフィーヌ・セリッグの講演の記録はこちらからお読み頂けます。
第7回映画批評月間 フランス映画の現在をめぐって
会期:2026年6月7日(日)〜7月19日(日)
会場:東京日仏学院エスパス・イマージュ
詳しくはのHPをご覧ください
『美しく、黙りなさい』公開情報
7.24(金)よりBunkamuraル・シネマ渋谷宮下ほか全国公開
オフィシャルサイト