現実からの飛躍

佐藤小出さんとしては、脚本を書くうえで一番大変だったポイントはなんだったんですか?

小出繰り返しになりますが、喪失ではなく欲望を描くということです。どういうわけか喪失の物語に引き込まれてしまう。そんな袋小路を抜け出すために動いてくれたのが男の子でしょうか。男の子は何か主体的な行為をしたいという欲望が一貫してある。もしかしたら、彼の欲望をまわりが違う意味で捉えて右往左往し、彼個人の些細な欲望が大きな変化をもたらすという流れなら映画になるのかもしれないと、女性ふたりの話にしようという当初の打ち合わせから離れて、男の子のページ数が増えてしまいました。

佐藤そこはやはり、この映画をつくっていく具体的な過程のなかで変化してきたことですね。シナリオをつくっている段階やリハーサルをしている段階では、ふたりの女性が主人公の映画として撮っていったんですが、この映画を見ていただいた方から意見を聞いていると、子どもの視線で映画を見たという感想が結構あって、自分でも「ああ、そういう映画になったのか」と。これは良い意味で言っているのですけれども、僕としても見ていただいたお客さんの話を聞いてわかったことが多い作品でした。

小出見ていただいた方から主題に迫ったリアクションをいただきました。それで思い出したのですが、今作は主題などなく書きはじめたんですよ。昔は、主題とはちょっと違いますが、形式ありきで映画やホンをつくってもいたんだけど、今回はとりあえず物語を書きはじめ、さしあたりの最後まで行き着いたその後に、登場人物らの欲望をこういう視点から見つめると面白いかもと書き加えたところがあります。

佐藤書いたものを見て、主題が発見されると。

小出もうひとついただいた感想でひっかかっているのが、子どもを海に入らせる終盤のシーンについてです。普通は自分の子どもが同じような状況で死んでしまったわけだから、他人の子どもと言えどもそこに行かせるなんてことはしないだろうというご意見をいただきました。たしかに「普通は」というのは大切で、そこから外れようとすると、脚本家のご都合が見えてしまい、せっかく物語に没入してくれた観客さんを興冷めさせてしまう危険が伴います。そう見せてしまったのはホンのレベルでの大きな失敗かもしれません。ただ、ちょっと変わった状況に、誰もが「ああこうするよね」と安心して受け入れられるリアクションを付け足していただけでは、映画の飛躍、あるいはわれらが主人公がかけがえなのない固有性を獲得するのは難しいですよ。普通こうするけど彼女はこんなことをしたっていうのが実は物語の核で、そこを観客さんと一緒に飛躍していけるようにすることが僕の仕事だったんだけどね……。

佐藤たしかに、自分たちが生きている現実ではそんなことはしない、という映画の見方や感想はあるんですけど、でもそういう実感としてわかるものだけでつくってしまうと、映画って面白くないと思うんですよ。実際はしないかもしれないことをしてしまう人たちを撮る。実感の延長ではおよびもつかないところを撮ることが映画の醍醐味で、そういう映画を撮りたいというのはありますね。因果に固執する母親役の俳優さんには、役の説明として「この女性は勝手に人の家に上がりこんで、酒を飲んでいるような女です」というように伝えたところ、意外とすんなりと受け入れてくれました。実際にはそんな人はいなそうですが、現実での生活の考えに捕らわれてしまうと、なかなか映画は飛躍できません。昔は隣同士が顔見知りで、普通に家に入っていって話をするということができたりしましたが、いまはそういう環境にないからなかなか人と人が簡単に出会うようなことが起きなくなる。現実の実感をベースに置きすぎた結果、物語が希薄になっている気がしますね。そういう実感や思考に捕らわれていると、欲望も何もない、だらだらとした映画になってしまうのかも。だからといって荒唐無稽さにばかり傾くのも違うように思いますが、もっと自由に考えていいんだということはつねに意識していないといけません。

シナリオからの変化と演出

小出震災で子どもが死んでしまった母親とかが出てきますが、僕としては喜劇を書こうと思っていました。

佐藤字面で読むともうちょっと明るい話だったとは思うんですよ。ラストシーンのトーンも確かにシナリオレベルでは違ったと思うのですが、でも読み合わせやリハーサルを経て、現場に入って俳優たちが実際に動いていくなかで、他では変えられないある時・ある場所にしかるべき人々が集まった結果、あのようなかたちになったんだということは強く実感しています。特に若い母親のほうは、喪失の暗さに引きずられない明るいトーンで演じてもらいたいと思っていたんですけど、実際に演じてもらうと違うかたちが出てきた。それをいわゆる「演技指導」を通じて自分のイメージの方に寄せていくやり方もあったとは思いますが、リハーサルを経て実際に出てきたトーンに僕が納得したので、現場ではほぼ俳優たちにお任せして僕は彼らのやっていることを後押ししただけでした。

現場での演出のことに関して言うと、具体的な俳優の動線や立ち位置は現場に入ってから決めているので、そうすると、当然シナリオレベルで持っていたイメージとは外れてきます。ただ、僕としてはそうなってくるのは良いことだと思っています。やはりカメラが撮る芝居は直前に決まっていくほうが、良い意味でのスリルがあって良いんですよ。動きが決まることでカット割も見えてきて、人物のリアクションも決まってくる。この映画を演出するにあたって、心がけていたことのひとつにリアクションをなるべくしっかり撮っていくということがあったのですが、ともかくそうして撮っていくなかでカット割りも変わってくる。ここが難しくもあり面白いところなのですが、カット割りも含めた演出はすべて生き物ですので、そうなると映画がどんどん出発点から離れていくこともありますが、それだけ活きてくるように思っています。

小出シリアスな方向に流れたのは、最近の映画が、人の死について真剣に考え過ぎてしまうからじゃないでしょうか。大変まじめでけっこうなことなんですが……人はみな死ぬ、しかしその捉え方は多種多様であっていいはずです。『コンドル』(1939、ハワード・ホークス)では、仲間の死がさもなかったかのように振る舞う集団が出てきますね。彼らは航空郵便の先駆けで非常に危険な飛行を繰り返し郵便を届け、基地に戻ってくる。そんな集団に飛び込んだ女性が、仲間の死がなかったかのように振る舞う彼らを見て、人非人だと憤ります。しかし、当の女性こそ弔い方を知らない無作法ものなんですね。彼らは週ごとに友人の死に直面し、疲弊しいつ自分がそのようになるか心底恐怖している。しかし、その都度嘆き悲しむことだけが死者を弔う作法ではないですよね。これには続きがもちろんあって、飲み屋を飛び出した彼女が、飲み屋の外でたむろする老人――それこそ先に出てきた周縁のはぐれものです――に諭され、弔いの多様性に気づくんです。それで彼女は、みなが騒ぐレストランに戻り、得意のピアノを披露し、彼らをもっと盛り上げて集団に受け入れられるのです。話は長くなりましたが、つまり死の弔い方ってモードなんです。時代や場所に縛られがちなもので、決して融通の効かないものじゃない。ところが、いつからか喪失というものが大きなテーマになってきて、人が死んだという事実からなかなか離れられない映画ばかりになってきてしまった。このモードから遠くはなれることが僕のいまの課題です。でも人が死ぬと悲しいよね……。

佐藤この映画が撮影された時点(2010年12月末)ではまだ東日本大震災は起こっていなかったのですが、『MISSING』には地震の話がでてきます。実際にできた映画のトーンのこともありますが、神戸市で撮っていることもあり、見る側としては喪失ということをより意識してしまうのかもしれません。実際、小出さんから上がってきたシナリオを読んで地震という言葉を目にした時、率直な感想は「まいったな」ということでした。この映画はいろいろな理由でわが子を失った大人たちがひょんなことから一同に介するという話で、地震はメインのテーマではありません。言うなれば、地震も他の種々の出来事のひとつという観点で描いています。これは残酷な言い方かもしれませんが、ある人には地震よりも「この」交通事故の方が決定的な出来事であり、同じようにある人にとって地震は他に変えられない決定的な出来事でもあるかもしれませんが、それらを無理にというか、想像的に共有することはできないしすべきでないのではないか、というのがこの映画の視線になっていると思います。それにしても、欲望と喪失の共存というのはとても難しいテーマだと思います。一般的に「喪失」に対する言葉は「希望」と言われることが多いですし。当初の方向性とは別にして、いろいろ考えた結果、僕はこの映画のタイトルを『MISSING』にしました。主人公の男の子は一見そういった喪失とは一番無縁な人物で、映画の出発点ではクラスの女の子のリコーダーをペロペロ舐めたかっただけですよね。その笛がひょんなことからあの母親たちの家に行ってしまって、そこに向かわざるをえなくなると。そして、映画が展開していくにつれ、実は男の子も喪失に絡め取られてしまった人間のひとりだったということが明らかになる。その辺りがこの映画の物語上のミソかと。

戻る | 1 | 2 | 3