« previous | メイン | next »

November 19, 2008

『ヘルベチカ〜世界を魅了する書体〜』ゲイリー・ハストウィット
宮一紀

[ DVD , sports ]

 1957年、スイスの小さな金属活字の鋳造所で、後に世界を席巻することになるサンセリフ体が誕生する。マックス・ミーディンガーによって設計されたとされている、ラテン語で“スイス書体”を意味するHelveticaがそれであり、現在私たちの日常生活においてもっとも多くの局面で目にされる欧文書体である。本作はそのHelveticaをめぐる膨大なインタヴューから構成されるドキュメンタリー作品だ。
 監督のゲイリー・ハストウィットは本作に寄せて次のように述べている。「ヘルベチカの〈経歴〉を眺めていくことは、過去50年間のグラフィックデザインを見つめるのに良い構成になるだろう」。たしかに近代グラフィックデザインの歴史を総括するのにHelveticaほど相応しい主題はないように思う。グラフィックデザインがバウハウスの時代からようやく一歩踏み出してスイス・スタイルに出会うとき、そこに誕生したのがHelveticaである。1950年代後半のことだ。好むと好まざるとに関わらず、Helveticaはあらゆる解釈をその広いふところで引き受けてきた。本作の中でも幾度か指摘されるように、図と地の〈あいだ〉にこそHelveticaの本質はあって、だからHelveticaは乱暴なポジ−ネガの反転にも容易に耐えうるし、またどのように字間を取って配置してもバランスを崩すことがほとんどない。ウィム・クロゥエルからエクスペリメンタル・ジェットセットまで、グラフィックデザインの潮流にHelveticaを通じて(ときにその拒絶によって)新たな文脈を加えてきた人物たちが自身の経歴、デザイン観を語る。彼らがHelveticaについて語る言葉も、Helveticaについて回避しようとする態度も、そのすべてがこの50年間のグラフィックデザインの歩みを示してくれる。本作はそのようなまったく新しい貴重なインタヴュー集である。
 ところで本作はある種の偏執狂の受難の物語として見ることもできる。彼らはわからない書体があれば気分が悪くなり、「小文字のaの形が好きだ」と発言すれば人から怪訝な顔を向けられ、老眼が大敵なので日に日に参っていく。書体にのめり込み過ぎてしまったがために、セリフ体の悪夢を見る者や、ビル・ゲイツを「バスタード!」と言い捨てる者(マイクロソフト社はフォントの模倣で悪名が高い)、あるいは自らの身体に刃物で文字を刻みつけて「これが私の新しい書体だ」と言う者までいる。彼らの入れ込み様には「微笑ましい」という言葉さえ通じない。だが、もし区役所の醜悪な掲示板が許せない感覚が理解できるなら、もしCDや本をジャケ買いすることがあるなら、そしてもしより良い世界に生きたいと思うなら、このDVDを見ればそのためのヒントが語られている。