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November 3, 2012

『5windows』劇場用編集版と、円山町篇
代田愛実

[ cinema ]
『5windows』劇場用編集版


何度も繰り返される「ニジゴジュップン」という声(=音)と、ピっという電子音とともに表示される「14:50」。
ニジゴジュップンとはある時刻を指す。あるいは、60秒間の時間を指す。あるいは、14:50ごろ、という曖昧な時刻と曖昧な長さの時間を指す。
いったいどのニジゴジュップンが正解なのか?という問いが立つかもしれないが、答えは、「どれも正解」。

"14:50"あるいは"ニジゴジュップン"とは、直線状で一方通行の時間軸上における1つの”時点"などではなく、「14:50まで」と「14:50から」を過ごす3人が何度でも再生される限り、幾つものパラレルワールドの中心点として浮かび上がる"結び目"である。

結び目は概念的な点ではない。質量を持っている。緩くもきつくもあり、ほどく事だって出来る。その寛容さと脆さ、自由な不自由さ。そこから伸びる紐はまっすぐ伸びているかもしれないが、ぐにゃりと曲がる事も輪になる事も出来る。
瀬田なつきは、眼下を流れる川、そこに架けられた橋、川沿いに伸びる歩道、と道路、その高架を走る京浜急行、屋上、「あっついなー」と見上げる空、橋という地点を軸に水平垂直どちらにも広がる空間を、自転車に並走してぐいぐいと、あるいは俯瞰でスコーンと、カメラに収める。
その狭いような広いような空間に鼻歌が伝播している。まるで、異なる時空も超えてゆくことができるアイテムのように、鼻歌はどの人物のどの時間軸にも登場してしまう。この何かを超える/越える感覚こそ、瀬田なつき作品に今まで感じていたPOPさや可愛さ、軽やかさの原点だ。
同時に、鼻歌=ハミング=Humingは、常に現在進行形を持ったアクションで、超えようと超えなかろうとどこにいようと、ここは私の時間であり空間なのだという秘かな宣言でもある。
時間を失った彼女にとっても鼻歌が広がる空間は彼女のものだ。


時間を失ったらしき少女が1人、世界にするりと入り込む。ホラー映画ならば時間を持つ人間にとって時間を持たない人間が入り込む事が恐ろしいのであるが、瀬田なつきは時間を持つ人間に時間軸を複数持たせる事で、ホラー映画の可能性を排除してしまう。
時間を取り戻すのでも、時間が経ってからやり直すのでもなく、時間という概念を塗り替えること。鼻歌のようにささやかに。それはSFというジャンルとも少し違う、新しい魔術のようだ。


かの小林秀雄は、"過去から未来に向って飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方"とは上手に思い出す事だと説いたが、2012年現代に於いては、瀬田なつきがこれをやってのけてくれたことに感謝したい。
私たちは現代に於ける最大の妄想から抜け出すために、鼻歌を歌おう。




『5windows』屋外上映渋谷・円山町篇


黄金町から吉祥寺、そして今回は劇場版公開劇場となるオーディトリウム渋谷周辺の渋谷区円山町での屋外上映。
足を使うという意味で観客は参加し、街の音やネオンも参加し、たった1度の"体験"を提供する。
街を変えながら、この作品は物質的に浮遊し、漂流してゆく。


先に劇場用編集版を見ていた私にとって、全く異なる作品としてこの作品が映った。
中でも素晴らしかったのは、染谷将太の回。
東急本店の屋上で音響の不具合により上映時間が遅れていたのだが、その音楽が良かった。異なるテンポを持つトラックが左右のスピーカーから流れ、時に共鳴する。雨のせいで床部分のウッドデッキにスクリーンの映像が映り、反転した光を目にする。この作品の時間の揺れと呼応するように空間も捩れてゆく、そんな幻想的な上映になった。


ぐるぐると街を回り、劇場を目指す。
鼻歌が聴こえる。登場人物達の空間が繋がりだした。
時間を止めた少女も音楽にあわせて動き出した。
にっこりカメラ目線でフィニッシュ。
少女の向こうには川と街と空が映っていた。
ただそれだけ、なのに感動しすぎて自分でも驚いた。
たった1度の、円山町篇でした。


『5windows』公式サイト