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August 14, 2013

『スプリング・ブレイカーズ』ハーモニー・コリン
結城秀勇

[ cinema , cinema ]

スプリングはおろかサマーも半ば終わったというのにやっと『スプリング・ブレイカーズ』を見た。最高だった。
だいたい、おれは大学生が嫌いだ。中学や高校には、学校になんか微塵も来たくもないけどサボって遊びに行く場所もそうそうねえから仕方なく来て、この平板な時間をいかにしてやり過ごすか考えてるヤツらがいて、そういうのとは仲良くなれる。でも大学になるとそういうヤツらは本当に学校にこなくなるから、学校にいるのは学校が好きな人間か、そこに来るのがなんかの役にたつと思ってる人間(そこに来ないのが損になると思ってる人間)しかいなくなる。そんなヤツらが夏休みだとかいってバカ騒ぎしたところで、「結局お前らが帰りたいのはここなんだろ」という白けた気分になる。だから、つまんないクラスメート、街に一軒だけのガススタンド、ジーザスフリークの集会、そうしたうんざりする現状をブレイクするためなら、ダイナー強盗さえ厭わない少女たちの本気っぷりにヤられる。
結局は戻るべき日常のある大学生たちがバカ騒ぎするだけのビーチやパーティのシーンをもしクロースアップで捉えるなら、そこにいるのは上記のようなおれの嫌いな人種ばかりなんだろう。だが、バカ騒ぎに対するカメラの距離のとりかたと編集が素晴らしい。主役の4人のスプリング・ブレイカーズすらそのバカ騒ぎの中では、どこにいてなにをしていてどんな顔をしているのかすら、よくわからない。あのビーチにいるのは、刹那の現実逃避を求めてやって来た大学生たちのひとりひとりなのではなくて、無数の揺れるチチと無数の揺れるケツ、溢れかえるビールとウォッカで構成される、キマイラのようなひとつの「スプリング・ブレイク」という化け物だ。それを構成するおっぱいのひとつひとつが他のものへと代わろうとも動きをやめない、無際限な匿名的欲望の機械。
事実、この映画の中で主人公4人の女の子たちひとりひとりの顔をじっくり捉えるもっとも印象的なシーンは、スプリング・ブレイクから脱落して行く少女が乗る帰りのバスのシーンである。どこまでも深化して行くスプリング・ブレイクという欲望が、「私の欲望」ではないと気づいたときに、少女は帰るべき場所に帰る。そのときほとんど初めて、スプリング・ブレイクという無際限の運動の中では見えなくなっていた、まだ幼さの残る少女の顔のディテールが切り取られる。かつて『オルエットの方へ』の匿名的な「女の子」性について書いたのだが、『スプリング・ブレイカーズ』はそれを究極的なところまで推し進めている。ひとり減り、ふたり減りして、最後に残ったふたりの少女の、双子か年子の姉妹かといわんばかりにそっくりな外見。そしてそろいのピンクの目だし帽と蛍光イエローのビキニ。彼女たちこそがスプリング・ブレイクという顔のない怪物そのものなのだ。彼女たちは平板な日常を打破する春休みを経験するのではなく、彼女たちが春休みそのものになる。スプリング・ブレイク・フォーエバー。彼女たちのような顔のない「女の子」たちを本当に愛している。


『スプリング・ブレイカーズ』シネマライズで8/23、吉祥寺バウスシアターで8/16まで
オーディトリウム渋谷「廣原暁監督特集」にて、8/24、25、26 に『オルエットの方へ』の上映あり。