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August 28, 2013

『不気味なものの肌に触れる』濱口竜介
結城秀勇

[ cinema , sports ]

キャストの名前が表示されていくのと平行して繰り広げられる、染谷将太と石田法嗣のふたりによるダンスで、この作品は幕を開ける。手のひらや腕が相手の体に触れるか触れないかの距離をとるのにあわせて、ふたりの体幹の位置関係が変わっていき、石田が染谷に振れてしまうことで、そのダンスは中断される。もちろん「触れるか触れないかの距離」と書いたのは修辞に過ぎなくて、距離があるというからには触れてはいない。言ってみれば「肌に」と「触れる」との間を巡る運動こそが彼らのダンスである。「肌に」と「触れる」との間、それを距離とか空間とか呼んでもいいのだが、それらは通常なにかの不在として認識されーーとりわけ映画に置いては不在として描かれーーるわけだが、『不気味なものの肌に触れる』を見ていると、濱口竜介はそれを不在としてではなく、代わりになにかがあることとして本気で描こうとしているのではないか、という気がしてくる。なにもないように見えるところに、なんらかのまぎれもない存在を、観客に信じさせること。そんなとんでもない試みがこの作品の中心にあるのではないかと。
染谷と石田によって導入された、触れようとする手と触れられまいとする肌とのダンスは、渋川清彦と染谷、瀬戸夏実と渋川など複数のカップルの間で反復される(細長いボートに同じ向き、同じ姿勢で縦に距離をおいて並ぶ、村上淳と渋川の姿もその変奏と言えるかもしれない)。ひとりの例外もなくあらゆる登場人物に漲っている「不気味さ」は、触れる手と触れられる肌の間にあるものによっている。物語上、染谷が他の登場人物より一歩先にその「不気味さ」を熟知しているように見えるのは、彼が手と肌との間にあるものをコントロールする術を知っているかのようなそぶりを見せるからだろう。彼は手で拳銃の形をつくり、その引鉄を引くと、その先にいる人が倒れる。それは、なにもない空間を隔てながらも距離を相殺して直接触っているかのような力というより、やはりなにもないような場所にそれでも確かにあるなにかに働きかける力であるように見える。
彼らのダンスと同じ力の働きが見えるのは、「触れられないこわいもの」についてという、突如挿入される(擬似?)インタビューのようなシークエンスだ。喫茶店の窓際の席で、染谷と石田のふたりはそれまでのセリフとは明らかに一線を画すような話し方で、「こわいもの」について話しはじめる。同意を求めたり相手の理解を確認する視線や呼吸。ふたりのダンスの練習のシーンで額と胸につっかい棒をして、それが落ちないように踊るというショットがあるが、それと同じように、視線や呼吸が、画面に映し出されていない対話の相手、切り返しの向こう側にいる人間の姿や動きを克明に浮かび上がらせる。喋る石田のバストショットのフレームに入り込む、染谷の吸うタバコの煙。通常切り返しというテクニックによって持ち込まれるふたりの人間の関係が、どちらか一方を映し出した時点ですでにそこに映ってしまう。そんなことがありうるのだろうか。
フロイトが「不気味なもの」で指摘しているように、「親密なもの」(ハイムリッヒなもの)はその反対物である「不気味なもの」(ウンハイムリッヒなもの)へと容易に移行する。これまでの濱口作品で、「何食わなさ」として、「PASSION」として、「永遠の愛」や「親密さ」として、俎上に挙げられてきた人間と人間の間にあるものは、『不気味なものの肌に触れる』ではもはや微かに感じ取るべきようなものではなく、凝固し厳然とそこにあるようなものに変質しているのではないだろうか。
来るべき長編『FLOODS』の予告編として作られたという本作を見て、なんの比喩でもなく「洪水」は実際に起こるだろうと信じてしまっている自分がいる。村上淳が一度ポツリとつぶやくに過ぎない「鉄砲水」が、やがて人と人との間を埋め尽くし溢れかえるだろう。指で拳銃のかたちをつくりその引鉄を引く、そんなそっけないほど具象的なやり方で、それは可視化されるに違いない。


LOAD SHOWにて、9/4より配信開始
「第35回PFF ぴあフィルムフェスティバル」にて9月16日(月・祝)21:15〜、シネクイントにて上映
「17回水戸短編映画祭」にて9月22日(日)13:00〜水戸芸術館ACM劇場にて上映