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May 10, 2014

『ニール・ヤング/ジャーニーズ』ジョナサン・デミ@LAST BAUS
田中竜輔

[ cinema , sports ]

自らの故郷トロント州オメミーを2011年の世界ツアーのファイナルに選んだニール・ヤング。このフィルムで私たちはギターを持ったその人の姿より先に、コンサート会場マッセイ・ホールへと、自らハンドルを握って車を走らせようとするニール・ヤングの横顔を見る。ニール・ヤングに(あるいは彼の車をマッセイ・ホールまで別の車で先導する実の兄に)導れるトロントの短い旅。車を運転しながらこの片田舎での思い出を語り続けるニール・ヤングは、様々な場所を通り過ぎては「もうみんななくなっちまった」と繰り返し呟くが、そのことを嘆いてみせる素振りはない。「みんな心の中にある」のだと語るニール・ヤングとともに、『ニール・ヤング/ジャーニーズ』は素晴らしき時間旅行のような体験を私たちに感じさせてくれる。
ドライヴの途中途中、いささか唐突と言っていいようなタイミングで、マッセイ・ホールでのニール・ヤングのコンサートは映し出される。コンサートの映像に切り替わるよりも、いつも少しだけ先のタイミングで、ギターの音は先んじてドライヴ中の車内に流れ出す。ほんの少しだけ先の未来の音が、あるいは未来のニール・ヤングが、このドライヴの周囲にはつねに潜在している。未来のニール・ヤングによって奏でられたギターは、ときにハンドルを握ったニール・ヤングの呟きのような語りを、あたかもひとつの歌であるかのごとく彩ってしまいもする。あるいは名曲「オハイオ」の演奏シーンで、この楽曲が生まれるきっかけとなった、ケント州立大学でのヴェトナム戦争反対運動の最中に命を落とした4人の学生をめぐってのフッテージ映像が何の注釈もなく紛れ込んできたり、あるいは別の楽曲のシーンでは身体障害を抱えたニール・ヤングの息子がまったく別のコンサートで客席に座る姿がインサートされたりもする。それら映像は、決していま目の前で行われているコンサートの映像とは直接的に関係を持っているわけではない。けれどもそれらは関係があるのだと、このフィルムは堂々と宣言しているかのようだ。終盤近くになって、それまで当然のように垣間見ていたコンサートのオープニングが唐突に映し出されるとき、このフィルムはその不思議な時間感覚を露にする。すでに始まっていたと思われた何かが、まだ始まっていなかったのだという驚き。どこに始まりがあり終わりがあるのかという至極当然な論理を、意識的に踏み外すような映像と音響の構築がこのフィルムには織り成されている。
『ニール・ヤング/ジャーニーズ』というタイトルにある「ジャーニーズ」とは、もちろんニール・ヤングというミュージシャンがこれまで数えきれないほどに超えてきた「旅」の数々を示す複数形としてあるのだろう。と同時におそらくこのトロントでの小さな旅は、その無数の旅の系譜に連なる「ひとつ」であるとともに(もしくは「ひとつ」であるがゆえに)、ニール・ヤングの「心の中」にある無数の旅の「すべて」としても捉えられているのではないか。このフィルムで演奏された楽曲の大半は1970年前後の楽曲群と2011年に発表された最新作『Le Noise』からの楽曲で占められていた。しかしその間にある40年という時間は、ニール・ヤングの歌において差異として現れなどしない。40年前から存在していたものと、40年かけて生み出されたものを、たったひとつの時空に同時に息づかせてしまうこのフィルムのニール・ヤングの歌は、『紐育の波止場』の80年前の響きを聴き取ろうとしたマーク・リボーのギターに限りなく近い何かを響かせているように思えた。


「THE LAST BAUS〜さよならバウスシアター、最後の宴」「第7回爆音映画祭」
本作は5/11(日)16:15より再度上映予定!

  • 『グリーンデイル』ニール・ヤング渡辺進也