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May 17, 2014

『ソウル・パワー』ジェフリー・レヴィ=ヒント@LAST BAUS
中村修七

[ cinema , sports ]

1974年にザイール(現・コンゴ民主共和国)の首都キンシャサで、モハメド・アリ対ジョージ・フォアマンの世界ヘビー級王者決定戦が行われるのに先駆け、“ブラック・ウッドストック”とも呼ばれる音楽祭が、3日間に渡って開催された。
音楽祭に出演したのは、ソウル・グループのザ・スピナーズ、“ソウルの帝王”ジェイムズ・ブラウン、“ブルーズの神様”B.B.キング、“サルサの女王”セリア・クルースとファニア・オール・スターズ、“アフリカの女王”ミリアム・マケバ(彼女は一時期、「ブラック・パワー」の提唱者ストークリー・カーマイケルと結婚していた)、フュージョン・グループのザ・クルセイダーズ、“アフリカ音楽の王様”フランコとOKジャズ、ブルーズ歌手ビル・ウィザーズなどなど、ブラック・アフリカにルーツを持つミュージシャンたちだ。さらに、間もなくジョージ・フォアマンからボクシング世界ヘビー級王者を奪うことになるモハメド・アリまで登場する。つまり、神や王や女王が何人も集まったのがこの音楽祭なのだ。
音楽祭の記録映像を編集して作られたこの映画には、ミュージシャンたちがステージで演奏する映像のほか、モハメド・アリが報道陣に向けて雄弁かつリズミカルに語る演説も収められている。また、50年以上に渡る長いキャリアを持ったジェイムズ・ブラウンだが、彼が口元に髭をたくわえていた時期は短いから、この映画で見ることの出来る、髭のあるJBが歌って踊る姿は貴重だ。
登場する多くのミュージシャンたちの中で最も輝いているのは、やはり、“ソウル・ブラザー・ナンバー・ワン”の称号を持ち、大粒の汗をダラダラと流しながらステージ上を動き回ってシャウトするJBだ。キンシャサで音楽祭が開催された1974年において、南アフリカ出身のミリアム・マケバが歌手であると同時に社会運動家でもあったように、音楽は社会運動とともにあった。JBは、“ソウル・ブラザー・ナンバー・ワン”と呼ばれるようになった頃のことについて次のように語っていた。「(1967年ころ)俺は“ソウル・ブラザー・ナンバー・ワン”の名前を頂戴した。この頃には“ソウル”という言葉はたくさんの意味を持つようになっていた――音楽分野でも、それ以外のところでも。それは黒人音楽のルーツを意味したし、自分や自分の所属する人種を誇りに思う時のプライドのようなものも意味していた。ソウル・ミュージックと公民権運動は手に手を取って進み、ともに大きくなっていったんだ。“ソウル・ブラザー・ナンバー・ワン”ってのは、世界の尊厳と統合におけるアフリカ系アメリカ黒人の運動において、俺が音楽面でもリーダーなんだってことだと思う」(『俺がJBだ!』)。アフリカにおいて最も尊敬されているブラック・アメリカンだとジャーナリストからJBが讃えられていたように、音楽祭開催当時のJBはアフリカにおいてもリーダー的な存在だった。だから、ソウル・パワーをステージで歌うJBの姿から映画が始まり、観客へ向けて語りかけるJBの姿が最後に映し出されるのは、十分な理由のあることだ。この映画を見終わって、JBは偉大だ!と思う人は多いだろう。
おそらく初めてアフリカの地を踏むビル・ウィザーズが、「アフリカから持って帰るのは、お土産などではなくてフィーリングなんだ」と熱を込めて語るシーンが象徴するように、ツアー中のミュージシャンたちが非常に興奮しているのは、彼らのルーツであるアフリカという地に降り立つということだ。JBが初めてアフリカを訪れたのはこの音楽祭の時ではなく1968年のことだったが、その時の体験について彼は、「たった二日滞在しただけだったが、俺はアフリカのスピリットで心がいっぱいになった」と語っていた(『俺がJBだ!』)。彼らにとって、アフリカという地を訪れることには重大な意味がある。出発前のパーティーだけでなく、飛行機の中のシーンでも彼らの興奮は続いており、セリア・クルースとファニア・オール・スターズの面々は、機内に持ち込んだギターやバイオリンを演奏し、笛を吹き、手を叩いて歌い続けている。デューク・エリントンのバンドが「A列車で行こう」を演奏するPVでも、ジャニス・ジョプリンやザ・バンドやグレイトフル・デッドといったミュージシャンたちが各地を転々と移動しながらライブを行う様子を記録したドキュメンタリー映画『フェスティバル・エクスプレス』でも、走行中の列車内でミュージシャンたちがジャカジャカと歌って騒ぐ映像を見たことがあった。しかし、空の上を飛んでいる飛行機の中でミュージシャンたちが歌って騒ぐ姿を見るのは『ソウル・パワー』が初めてだ。セリア・クルースに至っては、履いていたハイヒールの靴を脱ぎ、踵の部分でカツカツと機内の天井部分を叩いて軽快なリズムを刻んでいるほどだ。
1974年というと、ソウル/ファンクからディスコへというブラック・ミュージックの転換期の少し前に当たる。この点が、アメリカとアフリカのミュージシャンが集まったこの音楽祭を興味深いものとしている。70年代半ば以降、ブラック・ミュージックは停滞気味になるが、アフリカの音楽は依然として活気を保ち続けるからだ。ブラック・ミュージックの歴史をたどりながら、公民権運動を経てアメリカ黒人たちの状態が改善されるとともにブラック・ミュージックから大切な部分が失われたとする『リズム&ブルースの死』でネルソン・ジョージは、次のように述べていた。「社会変革運動の背後にあった原動力は音楽にとって最も重要なインスピレーションだったが、不幸なことに、まさにその運動の成功が、R&B世界に終始符を打つことになった」。彼はまた、ブラック・ミュージックのことを「現状からの脱出をめざす音楽」だとも述べていた。ところで、ブラック・ミュージックがたどったこのような経緯は、近代の課題が解決されるとともに近代文学は終わりを迎えたとする、柄谷行人による「近代文学の終わり」での議論を想起させるところがあるように思う。
 しかし、ソウル・パワーとなると、ブラック・パワーとは事情が異なる。「音楽で感情をストレートに表現することを仮にソウルと呼ぶなら、(略)世界のあらゆる国にソウルは元気に存在していることは言うまでもありません」と『魂のゆくえ』でピーター・バラカンが述べていたように、ソウルの力が失われることはない。ソウルは今もなお、人々の心を掻き立てる力を持っている筈だ。
 ソウル・パワーとは何か? それは、ソウルやファンクやブルーズやフュージョンやサルサやアフリカン・ルンバや南アフリカ音楽のミュージシャンたちを同じステージの上に立たせる力のことだ。それは、ザイールのスタジアムに集まった大勢の観客たちを熱狂させる力のことだ。それは、「世界中の他のアスリートやエンターテインナーよりも偉大となるように神は自分を作った」とモハメド・アリに熱く語らせる力のことだ。それは、ステージ上で汗だくになりながら歌って踊るJBが放出する力のことだ。それは、「我々が必要としているもの」としてJBが歌っている力のことだ。
 吉祥寺バウスシアターの閉館に伴って開催されている第7回爆音映画祭での上映後に沸き起こった歓声と拍手は、JBたちが放つソウル・パワーを観客たちが受け取ったことを示す行為だっただろう。


「THE LAST BAUS〜さよならバウスシアター、最後の宴」「第7回爆音映画祭」