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December 2, 2016

東京フィルメックス2016 『ザーヤンデルードの夜』モフセン・マフマルバフ
三浦 翔

[ cinema ]

『ザーヤンデルードの夜』で印象に残っているのは、主人公が同じ窓から見てしまうことで対比されるふたつの光景だ。イラン革命で街が煙に包まれるなか、倒れた仲間を助けようと引きずって運ぶ若者たちが銃で撃たれていく光景を、窓から主人公である大学教授が眺めるシーン。それと同じ窓から、今度はイラン革命以後の世界で、交通事故で人が倒れているにもかかわらずそこにいた人が逃げて助けなかったところを教授が目撃するシーン。そこでは、救出の光景が見捨てた人間の光景とすれ違う。

そのシーンが印象に残ってしまうのは、人間が暴力と向き合うときの重要な問いがそこにあると思うからだ。革命のさなかで仲間を助けるのは大義のためかそれとも仲間ゆえか、あるいは革命後の世界で(映画内では描かれていないが、法律によって禁じられた状態で)目の前のひとを見捨てるのは、どの信条ゆえにか。「革命の前と後で人々の気持ちは簡単に変わってしまう。それを自分たちの鏡としてイランの人々に見せたかった」と監督は語る。ひとは世界のなにを見てなぜ行動するのか、という問題がこの映画の中心にある。

教授は革命前の授業で「体制側であろうが反体制側であろうが、世の中は暴力だらけだ」と語っていたが、それはイスラム社会の問題というよりも、権力に関する暴力の問いである。革命後、生徒たちが厳しい眼差しを教授に向ける。その視線を一つひとつ矢継ぎ早にモンタージュすることで、革命前から後にかけて、権力を疑いにかかる民衆の変化を描いている。ここにも民衆の暴力があり、教授はそのことを授業で語った生徒たち自身に見てしまうのだ。

ところで、『ザーヤンデルードの夜』のアフタートークで「映画で世界は変わりますか?僕は、日本にいて映画で世界は変えられると思えないんです」という男の人の質問に対して、「映画は世界を変えられる」と監督が雄弁に答えたことで会場内がフィーバーしたことに少し感動しつつ、同時にその感動をも疑ってしまう。これも監督が語る移ろいやすい大衆の感情ではないかと。この感動は映画祭が生みだすひとつの魔法でもあるし、それはそれで大事なのだけれども、日本人は自分たちの顔を見たことがあるのだろうか。そんな問いを抱かせるような映画であった。

とはいえ、監督が(映画で世界を変えるために)「大事なのはこうした映画祭は人と人の繋がりで出来ています。ですから、映画祭という営みを維持するためにひとりでも多くの友達をこの場所に連れてきて下さい」と語ったことは、そのままどんな暴力を前にしても救いの手を差し伸べる可能性について問うていた『ザーヤンデルードの夜』そのものの問いであったことを思い出すのである。


東京フィルメックス2016公式サイト内『ザーヤンデルードの夜』紹介ページ