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December 16, 2016

『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』リチャード・リンクレイター
結城秀勇

[ cinema ]

やっと見た。たぶん誰かがいろんなところですでに書いてることだろうとは思うけれど、この作品のアメリカ青春映画史における価値をもっともらしく一言でいうならば、スクールカーストのようなものがほとんど存在しない学園映画だ、ということだろう。ジョン・ヒューズ以来の学園青春もの映画では、学園内の序列やヒエラルキー、大人や社会から押し付けられるレッテルや分類といった類型化に苦しめられる若者たちが、なんとかその垣根を越えて他の誰かとつながろうとすることにドラマの中心があったと言える。しかし『エブリバディ・ウォンツ・サム』ではそんな垣根がない。いや、より厳密には、なんか垣根自体はあるんだろうけどすでにぶっ壊れてたり、跨げば簡単に越えられるほど低いものだったり、あるいは一見垣根の見た目をしたスイングドアだったりする、そんな感じ。その間の抜けた感じ自体が、垣根のない平等な社会が素晴らしいという生真面目さよりも、この作品の魅力となっている。
平等と書いたが、もちろんこの映画の中でだって集団の細分化やジャンル分けなどの類型化は行われている。先輩後輩間の格差はあり、田舎者への差別はあり、体育会系ノリと文化系ノリの相容れない部分はあり、勝負事には必ず勝者と敗者がある。ありはするのだが、実際かなりどうでもいい。それよりもはるかに重要なのは、道行く女の子のおっぱいとおしりはことごとくキラキラと輝いていて、ダンスホールで踊り狂う女の子たちが素晴らしいのと同じくらい、カントリーハウスのちょっといなたいカウガールたちも良いのであって、さらには演劇部のアーティな仮装姿の娘たちでさえも全然悪くないことである(個人的には307号室のベヴァリーの、「ビフォア〜」シリーズ初期のジュリー・デルピーっぽいスカした感じはかなり癪にさわるがそれでも)。大学デビューでパンク野郎になった高校時代の元チームメイトも野球部のパーティで一緒に盛り上がる。スポーツの話しかできない野球部だって演劇部の仮装パーティをそれなりに楽しむ。この映画には自分の居場所がないような人物は出てこないし、一方で他人の侵入を拒める自分だけの居場所を持つ者もいない(ルームメイトが留守中の週末にさえ、ジェイクは先輩たちの侵入と略奪を止められない)。
以前『スラッカー』についての文章で書いたような、いわく言いがたいゆるいつながりのようなものが、この映画の登場人物たちの間にもある。それは必ずしも彼ら自身が口にするようなチームメイトの絆だけとは限らないし、もっと言えば学生時代の休暇という限られた時間を共有した者たちだけのつながりとも呼べない気がする。ダンスホールでの男グループと女グループの間の切り返しは、もはや誰が誰を見てるのかわからないような位置関係と角度で起こる。ジェイクとベヴァリーとの電話のスプリット画面は、それぞれ別々に、何視点なのかよくわからない寄りと引きを繰り返す。この、なにが主体で発生しているのかよくわからないつながりの中に、映画を見ている観客たちも確かに巻き込まれているのだ、と言ったら言い過ぎだろうか。だが、エンドロールで流れる、「ラッパーズ・ディライト」風の登場人物の自己紹介ラップの中に、年齢詐称で退学になったはずのウィロビーがしれっと登場してるのを見て、あながち言い過ぎでもないのかもな、とにんまりする。


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