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February 21, 2018

『デトロイト』キャスリン・ビグロー
結城秀勇

[ cinema ]

5月公開の映画『私はあなたのニグロではない』 (ラウル・ペック)の中で、次のようなジェイムズ・ボールドウィンの文章が読み上げられる。「黒人の憎しみの根源は怒りだ。自分や子供たちの邪魔をされない限り、白人を憎んだりしない。白人の憎しみの根源は恐怖だ。なんの実体もない。自分の心が生み出した何かに怯えているのだ」。
この言葉の後半部分は『デトロイト』における人々の置かれた状況をかなり的確に言い表していると思う。銃声だけが聞こえるが、決して画面にその姿が映し出されることがない"屋根の上の狙撃者"。TVアニメを見ていて、ふとブラインド越しに外の様子をうかがっただけで、戦車の機銃掃射を受ける幼い黒人少女。そして、ありもしない拳銃の行方を巡って一方的な暴力が繰り広げられるアルジェ・モーテルの一夜。
対してボールドウィンの言葉の前半部分はどうか。たしかに道を埋め尽くした人々は「焼き払え!」と叫び声をあげるが、作品全体に対してそれは非常に小さな部分しか占めておらず、まるで背景かのように扱われている。多くの批判者が指摘する通りだと思う。恐怖を根とする憎しみの異常な発露である「アルジェ・モーテル事件」が、怒りを根とする憎しみが再組織化されゆく過程でなした役割について、まったくこの映画は描いていないという批判には、なるほどと頷かされるものがある(ハフポストのこの文章大寺眞輔の文章及び文中で言及されるリチャード・ブロディやシャネクア・ゴールディングなどの文章を参照のこと)。だからこの映画が「白人の視線で描かれた黒人暴動」と言われるとき、この「憎しみの根は怒りか恐怖か」というコンテクストに限った意味で、私は完全に同意する。つまり、『デトロイト』は白人の恐怖と黒人の怒りが拮抗する話なのではなく、あらゆる人々が恐怖に根付いた憎しみから逃れられない映画であるという意味において。そここそがむしろ、『ハート・ロッカー』『ゼロ・ダーク・サーティ』といったマーク・ボールとの共同作業にはいったキャスリン・ビグローにかなり懐疑的である私が、この作品を擁護したいただひとつの理由だと思う。
白人警官クラウス(ウィル・ポールター)が典型的な"怪物"像(前述のボールドウィンの言葉中の「自分の心が生み出した何か」は違う場所で「怪物」と呼び換えられてもいる)として描かれているという点において、本当に恐ろしいのは、彼が映画の中に登場した瞬間すでにとんでもない差別主義者に見えることではなく、むしろ愚かさと恐怖から犯した過ちをなんとか正当化するために差別という手段を利用したように見えること、そうすることによって彼自身が自分の中に"怪物"を育て上げていく過程が描かれていると思えることだ。アルジェ・モーテルの中でクラウスの額に滲む油汗の原因は、競技用のスターターピストルから作り出された想像上の拳銃に対する恐怖だけではなく、彼らの醜悪な「ゲーム」がもはや「ゲーム」でもなんでもなくなったということ、自らの行為の正当化のために力を借りた身の内の"怪物"がもはや手のつけようもないほどに成長してしまったことに対する恐怖でもあるはずだ。
一方で、そうした"怪物"を前にしたあの夜モーテルに居合わせた者たちはなぜ、その後怒りを根にした憎しみとともにすべてを「焼き払え!」という声をあげることができなかったのか。教会の聖歌隊に職を求めたラリー(アルジー・スミス)に対して、聖歌隊のリーダーは「君くらいの人なら、ダウンタウンのクラブが喜んでもっと高い給料で雇ってくれるよ」と言う。ラリーはこう答える、「クラブには警官がいる。それに危険だ」。ここにはもはや不当に扱われたことに対する異議申し立てや権利の回復要求などない。彼は声をあげず、ただゴスペルを歌う。想像を絶するような恐怖ーー恐怖によって生み出された"怪物"を目撃した者の恐怖ーーを前に。人が恐怖を前にして憎しみという"怪物"を己の中に生み出すことをどうにか制御したとしても、同じ恐怖を前に他の誰かが"怪物"を生み出すことを止めることなどできない。そのとき"怪物"の成長には際限などまったくない。
こんなことを考えるのも、そして一カ月も前に見たこの作品について書きあぐねていたのも、昨年末からのワインスタイン問題からカトリーヌ・ドヌーヴからの手紙に至る一連の出来事、そしてそれとは直接関係はなくとも世界のいたるところで起きている"怪物"とその被害者を巡る様々な出来事に対して、言いようもない息苦しさーーそれはおそらく恐怖ーーを覚えているからだ。なんらかの立場をとって発言しないならば、被害を生み出す現状を受動的に助長することになり、すなわち間接的に加害者になることだ、と言われればそうなのかもしれない。私は差別主義者なのかもしれない。私は豚野郎なのかもしれない。だがそれでも、絶対に被害者になりかわって「私も!」などと声をあげることはできない。
だから樋口泰人が12月6日の日記で「親密さ」と呼ぶような視線を、私もまた『デトロイト』に見出さざるを得ない。私はアルジェ・モーテルにはいなかったし、私は黒人ではないし、私は豚野郎に汚らしい手で触れられもしなかった。でも"怪物"になりたくない。他の誰かが恐怖を前にして"怪物"をつくりだすとしても、それを攻撃することで自分の中に別の"怪物"を作り出すことを、どうやったら食い止められるのか。そんなことを考えつつ、クラウスの油汗、ディスミュークス(ジョン・ボイエガ)の嘔吐、暖房もない真冬のデトロイトの一室におけるラリーの震え、そうしたものたちとともに私はこの冬を生きた。

映画『デトロイト』公式サイト

  • 10/10 「目をそらすな、怪物にならぬために」 - 山形国際ドキュメンタリー映画祭2017での『私はあなたのニグロではない』上映時の日記
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