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『ZERO NOIR』と音楽 池田雄一インタビュー(2)

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『ZERO NOIR』(伊藤丈紘監督)(C)2010東京藝術大学

 

ーー最初に監督から音楽の重要性をお話しされたという話でしたが、そこではどういう風な話をされていましたか? たとえば、具体的な作品名が上がっていたりはしたのでしょうか。

池田 アルノー・デプレシャンの『キングス&クイーン』(04)とジェームズ・グレイの『アンダーカヴァー』(07)、この2本の作品を今回の映画の下地として監督に指示されて、何度も見ました。監督に音楽を頼まれてからデプレシャンの映画というのを初めて見たんですが、監督が何を求めているのかというのがすごくわかりやすかった。映像と音楽のバランスが、デプレ シャンの映画ではすごく特徴的だなと。直接的に感動させるための手法としてわかりやすくオーケストレーションの音楽を作るのとはまた違っていて。言葉で表しづらいんですが……たとえば登場人物が口喧嘩をするシーンの裏で、のうのうと音楽が流れているというような感覚、会話の裏側でまったく別のことを話している人がも うひとりいて、その人が音楽を作っているような感覚というか……。もう一本の『アンダーカヴァー』に関しては、音楽的な影響というよりは、地下組織ってこんな感じっていう雰囲気を参考にして欲しいっていうことでした。『ZERO NOIR』のラストシーンはほとんど『アンダーカヴァー』ではあるんですけど、音楽的には参考にしていなくて、むしろ監督には『EUREKA ユリイカ』(00、青山真治)っぽくっていうふうにアドバイスされています(笑)。

 ーー普段から映画はよく見られますか? お好きな作品にはどのようなものがあるのでしょうか。 

池田 フィリップ・ガレルの作品がすごく好きなんです、数年前に見た『恋人たちの失われた革命』(05)がきっかけで。ジム・ジャームッシュも好きですね、特に『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(84)が。

ーーガレルは『自由、夜』(83)と『秘密の子供』(79)で、ファトン・カーン(マグマのメンバー)に音楽制作を依頼していて、その際に、画面を見ながら即興的に音楽を作っています。そしてジャームッシュといえば『デットマン』(95)という作品があるんですが、ニール・ヤングがラッシュを見ながらギターを弾いて、それをサントラにしてしまったという逸話があります。

池田 それは知らなかった、かっこいいですね。本当はそういうことが一番やりたいんです。実は『ZERO NOIR』のエンディングもそういう雰囲気にしようと思って、映画を見ながらアコースティックギターで即興的に音をつけて、エレキとトロンボーンとかを足していったんです。マイルス・デイビスの『死刑台のエレベーター』(57、ルイ・マル)の音楽みたいに、映像に対して即興で音楽を作れたらいいなと思っていたので、それ を実践してみたんですよ。 

ーーメインテーマが最も即興的に作られた部分だったんですね。では逆に一番苦労した箇所というのはどこなんでしょうか。

池田 中盤にラヴシーンがあってバッハの曲が流れているんですが、これは最初に頂いた映像に仮アテとしてバッハの音楽が入ってたんですね。「こういう雰囲気なんです」とは言われたものの、なかなかこれは難しいと。さすがにバッハには勝てないだろうと(笑)。最終的に「これだ!」という曲は出来たのですが、その曲は結局主人公のヨウが麻薬を吸っている時にラジオから流れている音楽になりました。

ーー監督の次回作『MORE』でも池田さんが音楽を担当されると伺っています。私たちはまだその映画について何も知らないのですが、もう作業には入られているのでしょうか。

池田 まさにこの海外ツアー中にパソコンとミニキーボードを持ってきて作業しています(笑)。『ZERO NOIR』よりもこういう曲が欲しいというイメージが具体的なものとして指定されています。前作とは作品のコンセプトがだいぶ違っていると思いますね。今回も見て欲しい映画の指定などはありましたが、それはまだ秘密です。 

 

2010年12月4日、モンペリエにて

 

『ZERO NOIR』
2010年/104分/HD/カラー 
監督・脚本:伊藤丈紘
原作:太宰治『人間失格』
音楽:池田雄一
 
伊藤丈紘(いとう・たけひろ)
1984年生まれ。
2009年、東京藝術大学大学院映像研究科に入学(第五期生)。主な監督作は『あかるい娘たち』(08)、『how insensitive』(09)、『ZERO NOIR』(10)など 今年、修了作品となる長編映画『MOREが公開予定。

『ZERO NOIR』と音楽 池田雄一インタビュー(1)

 9月の半ば、ちょうど私たちがパリに経つ直前に、東京藝術大学映像研究科「OPEN THEATER 2010」のなかで伊藤丈紘監督作品『ZERO NOIR』は上映された。ひとりの友人を「映画作家」だなんて畏まった言い方をすることに、むずがゆさのようなもの感じつつも、そう呼ばずにはいられない力をこの作品は持っていた。アルノー・デプレシャン、エドワード・ヤン、ジェームズ・グレイ、ジャック・ドワイヨン、ニコラス・レイ……作品から想起される輝かしい固有名たち。私たちはこのフィルムの一瞬、一瞬に魅せられ、正直なところかなりビックリしてしまったのだ。そして日本を離れてからも、どうにかして、観客に恵まれたとはいえないこの作品の素晴らしさを、若きシネアストの存在を、多くの人に伝えられないかと考えていた。

 そんな折、幸運なことに、オーサカ=モノレールのギタリストであり、『ZERO NOIR』の音楽を担当した池田雄一さんがフランスでライヴをすることを知り、ちょっとした小旅行気分で私たちは出かけることにしたのだった。パリの寒さとどんよりとした曇り空を忘れてしまいそうな光に満ち満ちたマルセイユ、モンペリエで、お話を伺うこととなった。この映画を巡る多くの固有名。この映画の画面に満ちている映画史のパースペクティヴを確認する作業は、これからの観客たちに委ねたい。まず、ここでは、その画面に満ちている音に耳を傾けることにした。そこに確実に、映画作家の思考を垣間見ることができるからだ。ライヴ直前、扉から漏れ聞こえる観客たちのざわめきとともに、インタヴューは始まった。

『ZERO NOIR』(伊藤丈紘監督)      (C)2010東京藝術大学

  ーーまず最初にお伺いしたいのは、池田さんがこの映画の音楽の作成を始められたのはどのような段階でのことだったのか、またどのような指示のもとに音楽を作られたのか、ということです。

池田 映像の編集が終わった段階の映像素材を頂いてからです。ただ、おそらく音の編集はまだしていない状態だったので台詞がちゃんと聞こえないところが結構ありましたね。キャメラが離れて撮影しているシーンでの会話が聞こえないといった状態でした。音楽に関しては映像を頂いた時点で仮アテというかたちで既成曲が入っていまして、「これらの音楽がだいたいのイメージです」というふうに監督からは伝えられていました、もちろん音楽が入っていないところもたくさんありましたが。そこからは僕が映画を見ながら考えたラフのものを何曲か作って、「こういう感じはどうかな」とその音源を渡して、監督から「ここはちょっと違いますね」という感じのなかなか真摯なメールが返ってくるという(笑)、 そういうやり取りを経ています。映画のサウンド・トラックをまともに作るということは僕自身初めてのことでしたが、作った曲数はもう結構膨大な数を作っていまして、使われていないものもいっぱいあるんですよ。

ーーこの映画は最初に主人公たちの家族のクリスマスの準備の場面から始まるわけですが、そこに流れる音楽がまさにクリスマスという雰囲気を有した楽曲ですね。この音楽は映画の中で幾度か変奏されていますが、この場面を基点につくられた楽曲だったのでしょうか?

池田 実はこの楽曲はエンディングや主人公のヨウ君(川口寛)の元彼女が自殺するシーンの楽曲として、『ZERO NOIR』のメインテーマとして一番最初に作ったものなんです。そのアレンジを変えたものが最初のクリスマスのシーンの音楽になっています。

ーーこの楽曲もそうなのですがこの映画で聞こえてくる音楽は、シンプルなギターのメロディーを中心にその周囲に装飾音的に他の音色が重なっていくような楽曲が多かったように思います。楽曲の製作には池田さんだけではなく、ピアノをはじめとして複数の方が参加されていたようですね。

池田 彼らには作曲ではなく譜面打ちという形で参加してもらいました。ピアノソロの楽曲に関してはその方にすべて弾いて頂いていますが、それ以外のアレンジでピアノが入っているものは拙いですが僕が弾いています。作曲に関しては頭の中で譜面を作るっていうパターンの方が多いんですが、今回は予算の関係上生演奏の豪華さを出すということはできなくて、僕がまともに弾けるのがギターだけだったので必然的にギターがメインになったんです。打ち込みというのも全然いいと思うのですけど、この映画の雰囲気では打ち込みの音だとしっくりこなかった。だから、なるべくギターでヴァリエーションを出したいと思っていました。

ーー映画のサウンドトラックを製作するのは初めての経験だということでしたが、いわゆるジングルなどの製作を手がけられた経験はこれまでにありましたか?  

池田 一応あります。CM音楽、と言ってもTVではなくてweb広告に音楽をつけるという仕事で、それがいわゆるジングルのようなものでした。でも、そういう作業と映画に音楽をつける作業がだいぶ違うということは今回で実感しました。監督の作りたい映画の雰囲気が明確にあり、音楽でシーンを盛り上げることの重要性を最初の段階で監督にかなり説かれていましたので 。なんとなくBGMとしてさーっと流れているというものではなく、映像と画面の雰囲気がちゃんと一致するようなものを作れるように、と。
 
ーー映画に対して音をつけるという作業というのは、普段の池田さんの音楽活動における作曲とは大きく異なったプロセスがあったのではないでしょうか。特にこの映画は台詞の編集が非常に特殊なもので、それが作業に及ぼした影響というのも非常に大きかったのではないかと……。

 池田 それはありましたね。ただ僕は、映像に音を「つける」というよりも、映像から何かを「拾ってくる」という感覚で音楽を作りました。画面の雰囲気とか役者の様子であったり具体的にどんな行動をしたりという、そういった具体的なものがないと思い浮かばなかったんですね。でも僕にとってたぶん一番重要 だったのは表情ですね。役者の台詞が終わったあとのふとした表情、ちょっとした頬の動きとか……だから、台詞とかそういうものからではないところが大きいのかもしれません。(続く)

 

   

 

池田雄一(いけだ・ゆういち)

2003年よりプロギタリスト・編曲・作曲家として活動開始。 同時に日本を代表するFUNKバンド、Osaka Monaurailに参加する。 同バンドは2006年より5年連続でヨーロッパツアーを敢行。 2010年、伊藤丈紘監督の「ZERO NOIR」の音楽を担当し映画音楽の楽しさを知る。 また、コンピュータープログラミングも得意であり、 多数のWebサイト、アプリケーションの製作を手がける。

Facebook http://www.facebook.com/profile.php?id=1363616573

OSAKA MONAURAIL http://www.osakamonaurail.com/

2010 (3) オーサカ=モノレール Live Report 01

 ブログの開始が遅れてしまったこともあり掲載が本当に遅くなってしまったが、昨年の12月初旬、オーサカ=モノレールのフランスでの2公演を幸運にも目撃する機会があった。

  以前、「nobody」本誌にてインタヴューさせて頂いたBorisのAtsuoさんが、バンド単位での海外ツアーの過酷さを「音楽のことも考えられない」といったような表現で語ってくれたことを思い出す。慣れない海外の土地を大量の機材を積み込んだ機材車で移動し、会場に着くなり息つく間もなくセッティング、そしてリハーサル、ライヴが終わって深夜にホテルに戻り、しばしの仮眠を取ったらまた移動、もちろん大小様々なトラブルは日常茶飯事……。 「1968〜72年のFUNKサウンドを現代に蘇らせる 」というコンセプトをその支柱にするオーサカ=モノレールもまた、2006年から毎年ヨーロッパツアーを敢行しているバンドだ。海外という異なる時空の中で、後ろ盾のほとんどない音楽の旅を実践している人たちの姿を直に目にし、耳にすること。その経験に伴う実感をここに率直に綴りたいと思う。

 

03.12.2010  Marseille, FRANCE "Cabalet Aleatoire"  

 マルセイユまで、パリからTGVでおよそ3時間。12月に入る前から粉雪のちらついた厳冬のパリに比べ、マルセイユの気温は5〜10℃近くも高い。夕方まで市内を軽く散策してからホテルに戻り、この日のライヴは22時を回ってからのスタートということもあり、ホテルでしばし仮眠を取る。しかし21時を回った頃に、なんとオーサカ=モノレールの移動中にトラブルがあり、スタートが深夜1時を回るとの知らせが入る。心配を胸に24時過ぎに会場のCabalet Aleatoireへと向かう。恐ろしいほどに人気のない通りを怖々進み、港町らしい貨物倉庫などが立ち並ぶその先に会場を発見。受付へと向かっていると、車から降りる楽器を持った日本人らしき人々の姿を見る。オーサカ=モノレールのメンバーだ! 文字通り、本当にギリギリの到着。タイムテーブル自体はすでに変更されていたものの、予定されたスタートまでは30分足らずしかない。息を切らせながら機材を手に急ぐメンバーの姿を目にしながら、会場内へと足を進める。場内は7割くらいの入りだろうか、ビールやドリンクを片手にフロアの数百人の観客はすでに思い思いに踊り始めている。

 予定時刻をしばらく過ぎてから、MCに導かれてオーサカ=モノレールがステージに現れる。「Get Ready」のキャッチーな前奏が流れだすと、会場の歓声が一気に高まる。ここで正直に告白しておくと、恥ずかしながら音源は耳にしていたものの、オーサカ=モノレールの生の演奏を見るのは初めてのことだった。まずはその骨太な音像に耳を奪われる。ひとつひとつの楽器が奏でる音は決して派手なものではない。奇抜なエフェクトもなく、奇抜なリズムもなく、しかしストイックな音の集積そのものがガツンと体全体に染みわたる感覚の心地良さに打たれていると自然とアルコールが進むというものだ。

 数曲のインストゥルメンタルを演奏後、ステージにフロントマンの中田亮氏の姿が現れる。ガッチリとした体躯でマイクスタンドを抱えるように構え、全身でリズムそのものを体現するかのような身振りで、バンドサウンドを引き連れていくその姿には魅せられざるを得ない。どこかコミカルで、しかし一切の妥協を魅せないそのパフォーマンスは、オーサカ=モノレールのまさしくひとつのリズム・セクションであり、そしてひとりの指揮者としての身振りだ。

 ふと会場内を見渡すともちろん誰もがその音楽に身を任せて身体を揺らしている。年長のカップルたちが見つめ合いながら肩を組んで踊る姿は、日本のライヴの風景ではあまり見かけないもののような気がする。ミドル・テンポの楽曲に併せて回転するミラーボールのエフェクトが、まるで映画のワンシーンを彩っているようでなんだかとても嬉しくなってしまった。

 さて、個人的にこの日のハイライトとなったのは、このバンドのふたりのギタリスト、速水暖氏と池田雄一氏のふたりのソロパートだった。速水氏のペンタトニックを基調としたブルーズの畳みかける泣きのフレージングに対して、巧妙にスケールアウトを織り交ぜながら永遠に続くかのようなメロディを変幻自在に紡ぐ池田氏のプレイ。音楽的な出自がまったく異なるというこのふたりのギタリストの妙を、もっともっといろんな形で耳にしたいと思わされた。

 この日のステージが終わり、心地良い疲労に包まれていた会場を後にしたのは午前4時過ぎのことだった。

オーサカ=モノレール公式WEB

人生なんて怖くない!

 最初一ヶ月の途方もない事務作業と膨大な手続き、そして11月半ばからの例年にない厳しい寒さを乗り越え、さらに年を越し、パリにやってきて4ヶ月。田中さんがすでに述べたとおり、ブログ開設までかなりの時間を要してしまった。だから、ここ数ヶ月に見たもの、聞いたもの、触れた、もちろん振れたものに関して少しずつ書きつづっていこうと思う。

 いわゆる作家の新作がほぼリアルタイムで上映され、日本ではなかなか見る機会を得られないであろうクラシックの名作をフィルムで体験出来てしまう多彩なプログラムもさることながら、私をもっとも驚かせたのは自分とそう年の変わらない、ほとんど同世代ともいえる若い監督の新作が、毎週のように劇場で封切られていることだ。長編第一作目、二作目、あるいは中編。公開館数はさほど多くないにしても、若い監督の作品を製作、上映するというプロセス、そういった映画の回路がパリには確実に存在する。彼らのインタビューを読めば、そこまでに至ることがいかに容易ならざる道であったことがわかるし、出自もさまざまだ。一握りの例外を除けば、彼らはテレビ、あるいは短編の仕事を経て長編に至るが、どの作品も極めて低予算。けれどそこには眩いばかりの瑞々しさがあり、俳優が存在している、生きているという感覚を強く感じた。借り物ではない生がそこにあること、若き監督たちはそれを易々と捉えているように見える。これは本当にすごいことだ!

 トリュフォーの『二十歳の恋』にオマージュを捧げ、なんとも豪華なことにモノクロ35ミリ!の中編『Petit Taillieur』(Louis Garrel)、印象的な眼差し、アンニュイながらも幼さを残した顔立ちとはアンバランスな肉体を持つレア・セドゥの魅力全開の『Belle épine』(Rebecca Zlotowski)、ひとりひとりの身体から発せられる言葉が反響し関係性を変えていくコメディ作品『Donoma』(Djinn Carrénard)、バカンスの陽光の下で一組のカップルの関係がサスペンスのような緊張感とともに幾度も揺らいでいく『Everyone Else』(Maren Ade)、女の子たちがただただキャーキャー騒いでいるただそれだけで映画は成立するのだ!ということを改めて感じさせてくれた『La vie au ranch』(Sophie Letourneur)……。最小限の予算で、機材で、俳優で、シンプルに映画を撮ること。それだけで映画は成立する、そういう単純な事実をパリに来てあらためて突きつけられたのだ。

 フィリップ・ガレルのテレビドキュメンタリー『芸術省』で、70年代作家たちが語る困難――シャンタル・アケルマン、ジャック・ドワイヨン、ブノワ・ジャコー、アンドレ・テシネ、ヴェルナー・シュレーター……彼らは皆、若くして映画を撮り始めた。だからこそ初期の彼らは、プロデューサーであり、演出家であり、キャメラマンであり、時には俳優でもあるーー。このフィルムは、ジャン=ピエール・レオーで始まり、ジャン・ユスターシュ、70年代のシネアストたち、レオス・カラックスで締めくくられる。ジャン・ユスターシュという固有名を巡りながら、ここで語られるのは映画製作の難しさ、それゆえにいかにシンプルに映画を撮るかということについてだ。もちろんその先には上映というさらなる困難が待ち受けている。ヌーヴェルヴァーグ以後、70年代、そして現在も、いつだって監督は、とりわけ若い監督の仕事は大変だ。恵比寿ガーデンシネマ、シネセゾン、シネマライズが一館になること、日本から聞こえてくるのは、上映環境がより厳しいものになっているという事実である。それは単純に悲しいことだし、こちらとの状況と比較してどうこう言えることでもないのだが、何かを変えないといけないのではないか、と海の向こうで最近よく考えている。

2010 (2)  IT'S ALWAYS FAIR WEATHER

 私たちがパリに到着したのは、ちょうどクロード・シャブロルの訃報からほとんど間をおかない9月の半ばで、彼の追悼記事を掲げた雑誌はどこのキオスクでも目にすることになった。諸々の手続きで慌ただしい時間の合間に、ソルボンヌ近くの映画館Reflet Medicisですでに始まっていたシャブロル追悼特集へと幾度か赴いた。『不貞の女』や『血の婚礼』などの60〜70年代の作品を中心に上映は行われていて、ちょうどその頃のステファン・オードランやミシェル・ブーケと同じくらいの年齢だと思われる年齢層の観客を昼間の上映回でも多く見かけた。

 多くの人々が様々な場所で記録に残してくれているように、パリが映画の都であるということはすぐに体感できた。シネマテーク・フランセーズではちょうどその頃エルンスト・ルビッチ特集が終盤を迎えていたものの、デルフィーヌ・セイリグ特集、デヴィッド・リンチ特集、「ブルネット/ブロンド」と名指された企画展/特集上映がすぐ先に控えていたし、「Pariscope」を覗けば、Action Christine等々の名画座での古典作品を中心としたプログラミングに目は釘付けになるし、すでに公開からだいぶ時間は経っていたがジャン=リュック・ゴダール『ソシアリスム』やマチュー・アマルリック『オン・ツアー』等々が幾つかの映画館ではまだ上映されていることを知ることができたし、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『あやつり糸の世界』のような珍しい過去作品がリバイバルされることを知ることができる。ちょっとしたDVDショップを覗いただけでも日本ではほとんど発売されていない貴重なDVDがごく普通に棚に並んでいるし、本屋を覗けば映画関連の書物は数限りない……まったく凡庸なカルチャー・ショックを記述しているだけの文章になってしまっていることに、気恥ずかしさを覚えないわけではない。私は率直にこの街の映画をめぐる環境に圧倒されてしまっていたのだった。

 その環境とは、しかしその多彩なプログラムといった量的な問題だけのことではなかった。渡仏してからおよそ1ヶ月、徐々に生活も落ち着きはじめ、シネマテークにも通い慣れたころ、ヴィンセント・ミネリ『ブリガドーン』の上映があることを確認して駆けつけた。場内はほぼ満席で、久しぶりにこの奇形的なミュージカルを目にしながら、現在パリでもたびたびお世話になっている廣瀬純さんが、以前このフィルムについてこんなことを書いていたことを思い出した。

山間の谷にある小さなしかし喜びに満ちあふれたチネチッタ。この町にはうっすらと、しかし「絶対的なかたちで」霧がかかっている。鬱蒼と茂る木々をかき分けて、それをこっそりとのぞき見ること、窃視、盗聴……。70年代のシネフィル君たちが言っていたように、映画を見ることは、そんなにしみったれた行為なのか! メダカの学校じゃあるまいし。映画を見ることは、映画を覆う霧を腕ずくで払いのけることではないのか。腕ずくで。パラドキシカルな思考の腕力によって、ドクサの霧を払いのけること。ミネリの言う「愛すること」や「信じること」とは、まさにこのパラドキシカルな思考の腕力のことなのだ。 (カイエ・ジャポン映画日誌)

 パリに降り立って以来、日本で映画を意識的に見始めていた頃からどうしても心の片隅で感じてしまっていたちょっとした閉塞感ーー廣瀬さんの言葉を拝借するなれば「しみったれた」感ーーが、身体からどこか抜けたような気がしている。もちろんこれは私個人の単なる浮ついた錯覚に過ぎないのかもしれない。単純に良いように見える面だけを都合よく眺めているだけに過ぎないのかもしれない(おそらく、事実そうなのだろう)。けれども、パリという街は映画に対して本当に開かれているし、それゆえに映画もまたパリという街に対して開かれている、そういう実感を抜きにしてこの街で映画を見ることは、少なくとも私にとっては、ひどく難しいことに思えてしまう。

 たとえば、ホークス『紳士は金髪がお好き』に一緒になって笑い合い語り合う父親と娘、あるいはフィンチャー『ソーシャル・ネットワーク』の公開初日に連れ立って劇場を訪れるハイテンションの若者たち、あるいは大晦日だというのにドーネン&ケリー『いつも上天気』を見終わって笑顔で席を立つ家族連れ……そういった人たちと一緒に、ごく当たり前のように多種多様な映画を見る体験というのは何にも代え難い。そういった環境がほとんど当然のものとして持続させられている状況、それに対する私的な羨望は、いささか軽率な見方であることは自覚した上でも、ちょっと自制することができない。

 映画を見ることは世界に対する新しい視点を獲得することだして、そこにはもちろん作品との出会いがまず何よりも必要だ。しかし同時に、そこにはその時間を勝手に共有することとなる、私の見知らぬ無数の「観客」という匿名的集団との出会いもまた必要なのだ。映画を見るということに伴って当然の(しかしとても複雑な)この問いを、私はこのパリという場所で再び思考し始めている、そんな気がしている。

 年明けから『おお至高の光』『コルネイユ=ブレヒト』等々の上映に併せてジャン=マリー・ストローブが来場し、様々なゲストとともに活発なトークショーを敢行しているReflet Medicisにて、今日は「テレラマ」特集の一本、近く日本でも公開されるウェス・アンダーソン『ファンタスティック・Mr Fox』を見た。『トイ・ストーリー3』のおもちゃたちとは正反対のベクトルを持ったパペットたちのチグハグな造形とアクションを、西部劇さながらのワンショットやメロドラマ的なクロースアップを挟み込みながら、圧倒的な軽さをもって映し出すこのフィルムには本当に感動した。エンドロールで余韻に浸っていると、音楽に併せて座席が大きく揺れるくらいに身体を踊らせる目の前の席の女の子に気がついた。潤む目頭とともに思わず手と膝で軽くビートを取らずにはいられなかった。

 明日にはこの同じ映画館で、ジャン=マリー・ストローブとジャック・ランシエールとの対話が予定されている。

 

『サン・ソレイユ』から25年経った

 ヤバイ。感動してしまった。川本三郎の『マイ・バック・ページ』が平凡社から復刊された。最初に出版されたのは22年前。1988年のことだ。ぼくは、その書籍版を読んでいない。その前の年と前々年に「Switch」誌の連載で読んでいた。その当時は、感動したことはなかった。むしろ、自らをマイナスのヒーローに仕立て上げるような川本三郎の姿勢が嫌だった。もちろん、ぼくも時代の子だから、川本三郎が関わった「朝霞自衛官殺害事件」について、知らないわけではなかった。だが、当時、高校生のぼくを含めて、その時代に生きていた人たちは、何らかの意味で、殺人にまでは至らなくても、大なり小なり関係の濃い薄いはあっても、この種の事件に関わりを持っていたわけで、彼は決して例外ではなかった。だから、自らの「例外性」をことさら強調するのは、逆にとてもヒロイックで嫌な感じがしたのだろう。だが、22年後の今、再読するとホントヤバイ。感動してしまった。

 『マイ・バック・ページ』にも登場する高校にぼくは通っていた。「ここも日比谷高校と同じ、東京の中では恵まれた中産階級の子どもたちの多い高校だった。バリケードを作った子どもたちのことを心配して夜になると父兄が学校にかけつけた。彼らに取材してみると一流企業の父親が多かった。だからこそ子どもたちは「家族帝国主義粉砕」と反抗した」と川本は書く(77ページ)。本当のことだ。当時、私立の名門中の名門、麻布高校を出て東大法学部を卒業し、就職浪人を1年したとは言え、朝日新聞に入社した川本三郎は、超エリートだ。だが、その超エリートの挫折を描いたこの本は、同じ時代を生きていたぼくが、共感できる点が多いという点だけでも、膨大な資料を基に、68年について書いた小熊英二の『1968』よりは、ずっと良い。『1968』には、ぼくが通っていた高校について、次のような記述がある。「青山高校での叛乱の背景には、(……)学校群制度があった。青山高校は、67年に学校群制度が導入されるまでは、都立名門校の一つであり、旧制中学風の「自由で自主性を重んじる校風」を自負する学校の一つだった。/ところが学校群制度で学力の劣る生徒が入ってくるにしたがい、学校側は「自由で自主性を重んじる校風」を掲げる余裕を失い、実力テストなどを導入して大学受験指導に力を入れるようになった」(下巻、58ページ)。

 たとえ小熊英二が調べた文献がどんなものであろうと、その時間を共有したぼくには、そんな実感はまったくない。むしろ事実は逆だ。原因が「学校群制度」にあったことは、必ずしも間違っていないが、「学校群制度で学力の劣る生徒が入ってくる」というのまったく事実と異なっている。しっかり資料を調査して欲しい。学校群制度が導入される以前の青山高校は、大学受験おいて卒業生の上位の生徒は一橋あるいは東工大という感じだったが、学校群制度が導入されると、一挙に東大ベスト20に名を連ねる高校になってしまった。学校側は何もしなかったのに、生徒たちは「自由で自主的な校風を重んじて」自分で受験勉強した結果だ。学校側と生徒との間の齟齬は同じでも、小熊が指摘するのとはヴェクトルが完全に反対だ。一カ所でも、こんな部分があると、この長大な書物全体をまったく信じられなくなる。

 つまり、紛争中で授業のなかった高校2年の勉強なんてまったくやっていない青山高校の卒業のぼくに比べて、麻布から東大法学部で朝日新聞就職という超エリート街道をまっしぐらに歩んだ自らを棚上げしている川本三郎、という構図がぼくに刷り込まれていて、その彼が挫折を語ろうが、結局、彼は朝日新聞という大会社の名刺を持っていた人間でしかなかった。

 朝日新聞をクビになって以来の川本三郎の仕事もあまり好きになれなかった。どの仕事もとてもノスタルジックで、つまり、かつてあった素晴らしいものが、今はもう失われてしまっていて、という心情ばかりがほとばしり出ていて、「今、ここで」その時間と空間を更新しようと頑張っている人たちの傍らに居ようとはしない態度は、結局、新たな作品に与しないことになり、それでは、なぜ批評が存在するのか、という根本的な問題にも顔を背けることになると思えた。

 では、なぜ22年後に『マイ・バック・ページ』を読んで感動したのか。もちろん、彼が後生大事にするノスタルジーの源になる諦念が、彼の挫折にあることを確認したことで、彼の仕事が容易に理解できるようになったこともあるだろう。彼の永井荷風や林芙美子への容易ならざる執着も分からないではない。しかし、今回の感動と、その書物以降の川本三郎の仕事への理解とは、余り関係がない。彼の仕事をより良く理解できるにせよ、彼のノスタルジーを共有することは決してできないだろう。今回の感動の理由は、ひとつだけ。この書物の冒頭の「『サン・ソレイユ』を見た日」という章を読んだことが原因だ。ぼくは、河出書房新社から出版されたこの本の初版を読んでいないと書いた。「Switch」誌の連載で読んだと書いた。おそらく、この連載の第1回は読んでいない。この『サン・ソレイユ』についての件はまったく覚えていないのだから。

 たぶん、いろいろなことの趣味も嗜好も異なる川本三郎とぼくが交錯するのは、『サン・ソレイユ』だけだろう。川本は、この本の最初の方で、『サン・ソレイユ』のナレーションを引用している。「愛するということが。もし幻想を抱かずに愛するということなら、僕は、あの世代を愛したといえる。彼らのユートピアには感心しなかったが、しかし、彼らは何よりもまず叫びを、原初の叫びを上げたのだった」。クリス・マルケルならではの、時空をいくつも駆け巡り、そこには山谷も三里塚もあり、アフリカも猫もいる。日本とあの時代についての詩的なリフレクションになっていた『サン・ソレイユ』。感動の原因は、川本三郎とぼくは『サン・ソレイユ』に共振していたからだ。川本も引用した先のナレーションの言葉を、ぼくは、ほとんど空で書くことができる。理由は簡単だ。その台詞を、福崎裕子さんの翻訳をもとに上映用に書いたのが、ぼくだからだ。今から20年以上前の青山1丁目のスタジオの深夜。クリス・マルケルに厳密に秒数まで指定された日本語のナレーション原稿を書いて、隣にいてそれを読んでくれた池田理代子さんに差し出していた。

2010 (1) 「non!」、あるいは… 

 今回このブログを書かせて頂くことになった私たちがパリという場所に到着したのは昨年9月で、あまりに遅いスタートになってしまいましたが、ここ数回のエントリでは昨年後半の3ヶ月強のことをかいつまみながら記させて頂ければと思います。
まず私たちがパリという場所で右も左もおぼつかない時期にまず目にすることになったのは、そこに住む人々の真っ直ぐで飾りのない「怒り」だったのだと思います。
この秋、政府の年金改革案に対してフランス全土が怒りに震えていたことはどれだけの方がご存知でしょうか。年金制度の改革で財源確保を狙うサルコジ政権への反発は、公共交通機関やガソリンスタンドの大規模なストライキをその中心とすることばかりではなく、多くの中高生たちが授業をボイコットし、「活動家」としてデモに参加していることも話題になっていて、 「レ・ザンロキュプティーブル(アンロック)」誌の777号では「non,non et non! 」と題された今回の運動に伴う特集では、そういった学生たちの姿に大きくスポットが当てられていました。

les inrockuptibles numéro 777

 ジャン=マリー・ストローブの『ジョアシャン・ガッティ』は、昨年モントルイユにて警察が発砲したフラッシュボール(ゴム弾)を浴びて片目を失った活動家/映画作家ジョアシャン・ガッティについてのフィルムでしたが、今回の運動の中では同じモントルイユで今度は高校生がその標的となり、その鮮烈な傷跡を刻まれた「顔」を、もちろんこの運動に参与する中高生たちの誰もが目にしているはずです。私の住むアパルトマン近くでもバスの進路を塞ぎその車体を蹴りつけ、警官たちと対峙する多くの若者たちの姿を目撃しました。
フランス全国高校生同盟(UNL)の総長、弱冠17歳のヴィクトル・コロムバニ(Victol Colombani)の姿は「アンロック」の特集内でも大きく取り上げられていましたが、様々な動画サイトでも彼の姿を見ることができます。とても小柄で線の細い体躯ですが、その声はとても堂々としていて真っ直ぐです。そして、彼の周囲に集まる高校生たちの表情がとてもいいのです。誤解を招く表現かもしれませんが、あたかも彼らは学園祭の準備をしているかのような雰囲気すらあるようにさえ見えるのでした。
もちろん実際に警官隊に対峙したりバスに蹴りをかましたりといった彼らの姿に「暴力」なるもののネガティヴな側面が見えなかったわけではありませんし、実際のところすべての学生たちが本当に「運動」それ自体に意識を持っていたのかどうかもわかりません。しかし、同時期にYoutubeなどで目にした、あたかもその参加者たちがすべてを主体的に選択しているかのように見せられた「反中/反日デモ」(若松孝二『キャタピラー』での婦人隊の行進を思い出さずにはいられませんでした)の、無意識に制度化された「儀式」に並ぶしかめっ面を見ることにつきまとう寒々しさとは対極のものが、この運動に参加する多くの若者たちの顔を見ることにはあったような気がしています(もちろん子供たちだけではなく、この制度の直接的な対象となる年長の方々の姿も私たちは幾度も目にすることになりました)。
もっと単純に、もっと直接的に怒りを表現することが、私たちには可能なはずなのではないでしょうか。「non」という言葉をより肯定的な方法によって、肯定の徴として使うこと…あるいは否定と肯定をまったく同じものとして使うこと…。

新宿の『夏』、パリの『雪』

2011年1月3日

 新宿の映画館を出ると午後も1時半を回っていた。昼食に急ぐ時間だ。東京の映画館の初回上映は11時過ぎが多くてかなわない。それに最近の映画は上映時間が長いので、11時に始まる初回が終わるのは、早くて1時半。初回が11時20分、終映が14時15分なんて場合はどうすればいいのか。レストランのランチタイムはたいがい14時までなので、空腹対策を最初から立てておかねばならない。映画の上映はパリだと14時、16時、18時みたいな感じが多いし、よほどのことがない限り、昼食をパスすることなど考えられない。日本の映画館は、従業員のことは考えても、観客にはフレンドリーではない。

 とりあえず「ちょっと洋食!」の気分だった。幸い末広亭のとなりにある「あずま」がまだ開いていた。三が日のラスト。末広亭の前は長蛇の列だ。「正月はやっぱり寄席!」って感じなんだろう。いろんなものが変わってしまった新宿でも、末広亭周辺はテナントは代わってもビルの佇まいがけっこう昔のまま。それに「あずま」はぜんぜん昭和! 創業63年とか言うが「老舗」感がない。敷居が低く、ひとり客でも問題なく入れる普通の安い洋食屋だ。単にずっと存在している。銀座にも「あずま」(どっちが本店なんだろう?)があるけれども、同じ雰囲気。でも、近年、洋食屋は希少価値。ぼくが住んでいる祐天寺にも「冨久味」という洋食屋があったが、弁当屋になってしまった。だから、自宅から洋食屋と言えば、中目黒の「パンチ」、三軒茶屋の「アレックス」、武蔵小山の「いし井」にチャリを飛ばすしかない。大しておいしくはないが「あずま」でハンバーグを食べていると、いろんなことを思い出してしまう。

 すぐそこの明治通りの位置から考えると、ここはちょうど、かつて新宿文化があった場所の裏手に当たるだろう。今はユニクロやH&Mが並んでいる辺りにかつて「伝説の映画館」新宿文化があった。もちろん、新宿文化がなければ今のぼくなんていない。ゴダール、寺山修司、黒木和雄、実相寺昭雄、羽仁進、タルコフスキー、ブニュエル……ちょっと思い出しただけでも、これらの固有名を初めて知ったのは、この「映画館」だった。詳細は、平沢剛がこの「映画館」の支配人だった葛井欣士郎に聞き書きした『遺言 アートシアター新宿文化』(河出書房新社)を参照して欲しい。ロビーにたくさん詰めかけていた観客の中に高校生だったぼくもいた。この映画館は、かつては植草甚一も支配人を務めた由緒ある場所で、葛井欣士郎が支配人を務めた12年間(1962年〜1974年)は、新宿文化も新宿そのものも、もっとも熱かった時代だ。当時から比べると、この界隈も、末広亭に並ぶ人々を除いて、人通りがひどく減っている。だが、ゴダールやブニュエルや、そして、田原総一郎の唯一の長編映画『あらかじめ失われた恋人たち』でずっと裸でいた桃井かおりよりも、この「映画館」で、ぼくが思い出すのは、映画よりも舞台だ。葛井欣士郎が「目頭を熱くした」と語る、清水邦夫作、蜷川幸雄演出の『泣かないのか泣かないのか1973年のために』の超満員の観客席にいたぼくは、「目頭を熱く」どころではなく、号泣していた。そして、ぼくが観客席にして、舞台の上にいないのはどうしてだろう?って、舞台の上にいた石橋蓮司や蟹江敬三にものすごく嫉妬していた。たとえば大島渚の『新宿泥棒日記』だったら、紀伊国屋書店の中も、花園神社の紅テントの中も、西口広場も、明治通りにも同じ喧噪があったけれども、この時代になると、号泣とか喧噪は街にはなくなり、もう新宿文化の舞台の上だけがその最後場所だと思えた。

 なんでぼくは大学生なんだろうな? このまま、「体制の犬」(すごく当時の表現ですんません)になっちゃうのかな? いろいろ考えた。同時に、やっぱり舞台ってすごいな、安全な観客席よりも危険に満ちた舞台の上の方がぜんぜんいいや!って思えた。でも、そんなことを考えたのは、そのときが初めてじゃない。もっと前に高校生の時に、同じ場所で見た──正確に書くと、新宿文化の地下にあった蠍座で見た──ロマン・ヴェンガルテンの『夏』(ニコラ・バタイユ演出)を見たときに、そんなことを初めて感じた。清水邦夫の荒々しい世界と正反対の凪のような夏の一日を描いたその戯曲に出演していた加賀まりこを見たときのことだ。そのころの加賀さんとニコラ・バタイユ氏を撮った石黒健治さんの写真を見ることができる。(http://ishigurokenji.com/report/report_078.html。すごく綺麗でしょう!)舞台に関わる仕事をしたいと強く思った。(そういえば、ぼくも役者としてニコラ・バタイユ演出の舞台に出たことがあるんだけど、それはまた別の話。)

 上演から数年後に、白水社から『世界の現代演劇』叢書が出て、その第6巻に『夏』の翻訳(大間知靖子訳)が収められている。ロマン・ヴェンガルテンという固有名がしっかり頭に入った。ちなみに同じ巻にはベケットの『芝居』(高橋康成、安堂信也訳)、アラバールの『大典礼』(利光哲夫訳)なんかも収められている。1970年代の初頭には、こんな叢書が堂々と出版されていることが今から考えると信じられない。こと演劇に関しては、外国の前衛劇が翻訳出版されて、それが叢書になるなんて、今の「内向き」のジャパンじゃ考えられないからだ。だいたい白水社は「新劇」という演劇雑誌も出していたし、80年代の初頭、ぼくもその雑誌に劇評を連載していた。(演劇人からの反響は反感ばっかりだったけど。)

 ロマン・ヴェンガルテンは1926年生まれの作家で、最初はソルボンヌで哲学を学んだが、アルトーの影響で演劇を志し、『アカラ』という戯曲でデビューしている。もっとも彼の作風はアルトー的な荒々しさというより(そちらは『泣かないのか泣かないか1973年のために』の清水邦夫みたい)、師匠筋のロジェ・ヴィトラック譲りの詩的な作風だった。演出もやっていてヴィトラックの『ルー・ガルー』もやったし、自作の『雪』(1979年)の演出なんてすごく良かった。パリのポッシュ・モンパルナス座で初演を見た。なぜだかニコラ・バタイユの『夏』を思い出した。『雪』は、ちょうど『夏』の反対にあるような、でも同じ静かな力学の働いている戯曲だった。同じ作家だから当たり前かも知れないが、40年近くの年月を隔てて、同じ空気感のある世界を現前させるのは、やはり芸術家だからだ。そのロマン・ヴェンガルテンは2006年に80歳で亡くなっている。彼の1996年のポートレートをサイトで見つけた。http://fr.wikipedia.org/wiki/Fichier:Romain_Weingarten_vers_1996.jpg。目をはだけたシャツと背後のカーテン、そして、おそらく校正中の原稿が印象的な写真だ。このポートレートを撮った人の名前がある。Isabelle Weingartenだ。映画ファンなら見覚えのある名前だろう。ロベール・ブレッソンの『白夜』、そしてヴィム・ヴェンダースの『ことの次第』……。イザベル・ヴェンガルテンは、ロマンの娘だ。ヴィム・ヴェンダースの4人目の妻として2年間を過ごした後、彼女は写真家になり、監督や俳優、女優たちの素晴らしいポートレートをたくさん残している。そういえば亡くなった川喜多和子さんが、イザベルはいい写真家になったわね、と言っていたことを思い出す。あれは、同じ新宿のゴールデン街にある映画関係者が多く集い店でのことだった。