すべて

カンヌ国際映画祭報告2012 vol.03 5月19日(土)

本日はコンペティション部門からスタート。日本でも劇場公開された『ゴモラ』の監督、マッテオ・ガローネ『Reality』。リアリティ・ショーをきっかけに、見られることに取り憑かれる男の話ではあるが、そのオブセッションが余りにも緩やかで、何となくさっぱりしている。

続けてコンペ作品、Ulrich Seidai『Paradies:Libre』を見ようとするも、満員。毎日発行される星取表の評判はいまいちなものの、シネマテーク・フランセーズのプログラムディレクター、ジャン=フランソワ•ロジェに勧められたから見たかったのに… めげずにブランドン•クローネンバーグ『Arrival』に挑戦するが、時すでに遅し。17時の上映まで、プレスルームで情報収集をする。

 

次は「批評家週間」へ。会場入口でカイエの編集長、ステファン•ドロームに挨拶。「面白い作品あった?」と聞くも、「う〜ん」と、ちょっと渋い顔(笑)。今日の2本目は、Meni Yaeshによる処女長編『God's neighbors』

ユダヤ教の教義のもと、3人の若者が、それに背く輩をひたすらボコボコにしていく。ある日、主人公は恋に落ち、彼女と信仰の間で苦悶する。物語は稚拙だし、作品において重要な暴力シーンにまったく力がない。かなり微妙……途中退席者が続出。

 

監督週間の特別上映枠、ラウル•ルイス『La noche de Enfrente』は、どうしても見たかったので、会場向かいにあるカフェでご飯を食べながら待機。様子を見ながら、一時間前に列に並んでなんとか入場。会場内には、本作のプロデューサーではないが、長い間ラウル•ルイスとタッグを組んできたパウロ•ブランコ、カプリッチのティエリー•ルナスの姿もあった。

死期が近づいている男の生きた3つの時代を複雑に交錯させていく。合成で歪なまでに嵌め込まれたイメージ、消失した遠近感、たひたび挿入されるファンタスティックなイメージ……ラウル•ルイスを彩るモティーフに溢れている。自身で完成させた作品としては遺作であるからこそ、死へ向かうまでの道のりが主題になっていることが興味深い。物語が複雑でわからなかったので、フランス人に聞いたら「俺もわかんないし」と言われた。

4本目は深夜上映、コンペティション作品の公式上映の会場Grand lumièreにて、ダリオ•アルジェント『ドラキュラ』を3Dで。

飛び出す目玉、吹き出る血のインパクトで何とか寝ずに最後まで見れたものの、特に驚くべき要素はなし……。帰宅は深夜3時過ぎ。

カンヌ国際映画祭報告2012 vol.02 5月18日(金)

 この日1本目は「批評家週間」作品、俳優でもあるLouis-Do de Lencquesaing『Au Garope』からスタート。
 本人自らが主演し、傍を固めるのはグザヴィエ•ボーヴォア、実の娘であり『あの夏の子供たち』に出演していたAlice de Lencquesaingとかなり豪華な顔ぶれ。ドライヤーの『ゲアトルード』が映画内映画として引用されるなど、様々なアイディアが垣間見えるが、どれも上手く機能しておらず、何もかもが表面的……。セレクションされた時点で注目された作品だったこともあり、かなり残念な出来だった。

 2本目はSalle soixantième にて、ファティ•アキンによるドキュメンタリー『Polluting paradise』。コンペ外、一回だけの上映ということもあって、一時間前にはすでに人集りができていて、会場に入れない知り合いが続出。箱を開ければ、客席の半分が招待席としてリザーブされていた。開演時間になってもその大半が来ず、ギリギリになって辛抱強く待っていた人たちがどっと流れ込んだが、結局、空席が目立っていた。最低のディレクション……。

 ターキー北東部に位置する小さな山間の村をめぐるゴミ問題を追ったドキュメンタリー。ゴミがもたらす様々な汚染を描くことに大半の時間がかけられているが、新味のない紋切り型の映像に終始してしまっている。汚くて、臭くて、身体に悪くて……ということはよくわかるんだけど、その先に何も見えない。

  続いても同じ劇場で、コンペ外作品、アピチャポン•ウィーラセタクン『Mecong hotel』

 メコン川を背景に、一組のカップルと彼女の母親(監督自身もチョイ役で出演)、ギターの調べとフィックスショットというシンプルな構成。だからこそ、例外的に挿入される"あの"シーンの異常さが際立つ。『ブンミおじさんの森』が大っ嫌いなので、あまり期待していなかったが、悪くない。でも個人的には、過激さに傾斜するより、もう少し揺蕩うメコン川を見ていたかった。

 上映まで時間があったので、パウロ•ブランコ率いるアルファマフィルムで働く友人のフレデリックに会いにマルシェのスタンドへ。昨日からパリでも公開されているジャック•オディアール『De rouille et d'os』が公式上映後、10分以上拍手が鳴りやまなかったこと、ウェス•アンダーソン『Moonrise kingdam』がかなり良かったことを聞く。パリまでお預けだけど……。

 4本目は、プレス上映でコンペ作品『Dupa Dealuri』クリスチャン•ムンギウ監督は『四ヶ月、三週間、二日』ですでにパルムドールを受賞している。列車の到着、後ろ姿の女性が言葉なく、人混みを掻き分けて前進していくファーストショットはなかなか良かったのだけれど、長回しが作家性の担保だと言わんばかりに、一時間半長回しのショットの連続……二時間を過ぎたところで完全に意識を失う。最後に何が起こったかは知る余地はない…

 次の上映まで時間があったので、現在パリ在住のドキュメンタリー作家で、アパートをシェアしている丸谷肇さんとパレに近い le  petit parisでディナー。公式上映の時間が近いせいか、他のテーブルは完璧にドレスアップした人ばかりで、ソワソワしながら夕食を済ませ、Salle Daubussyへ。

 今日の最後は、ある視点部門、23歳にして長編3作目となるグザヴィエ•ドランの『Laurence anyway』

 前作『Les amours imaginairs』は封切りで見たが、どうも好きになれなかった。過剰な音楽、派手な演出……才気ばしった若手監督を自己演出しているようにしか見えないのは気のせいか……。唯一良い所があるとすれば、メルビィル•プポーが女装癖があり、ついには性転換する主人公を頑張って演じていたこと。年齢もあるのか、どんなに着飾っても、決して綺麗にはならないのがもの悲しい。当初キャスティングされていたルイ•ガレルが主演していたらかなり難しかったはず。断ったんじゃないかな…。ということで、今日は惨敗した。

カンヌ国際映画祭報告2012 vol.01 5月17日(木)

 水曜日からカンヌ国際映画祭が始まった。今年の会期は大統領選を受けて5月16日から27日まで。オープニング作品であるウェス・アンダーソンの『Moonrise Kingdam』は同日にパリで封切られ、「コンペティション部門」のジャック・オーディアール『De rouille et d'os』、ウォルター・サレス『Sur la route』、デヴィッド・クローネンバーグ『Cosmopolis』といった作品も上映日程に合わせて会期中に続々と公開される。映画祭終了後には「ある視点部門」作品はパリ6区の映画館「ルフレ・メディシス Reflet Medicis」で、「批評家週間」作品はシネマテーク・フランセーズで、「監督週間」作品は「フォーラム・デ・ジマージュ Forum des images」で上映されることになっている。シネフィルたちがわざわざカンヌまで遠征しないはずだ。そんなことも知らなかった昨年の私は会場から会場へとかけずり回っていたのに……。フランス人の友人たちが呆れるくらい映画を見ずに、赤絨毯を登る夕方からの公式上映と、パーティのためにわざわざドレスアップするのも納得。
だからと言って、映画祭にまで来て映画を見ないわけにはいかない!ので、TGVでパリからカンヌ到着までの5時間で、一週間のスケジュールを組んでいく。
アラン・レネ『Vous n'avez encore rien vu』、ホン・サンス『In Another Country』、レオス・カラックス『Holy Motors』、アッバス・キアロスタミ『Like someone in Love』、ジェフ・ニコルズ『Mud』、カルロス・レイガダス『Post tenebras lux』 、マッテオ・ガローヌ『Reality』、ミヒャエル・ハネケ『L'amour』……、コンペ作品を見回しただけでため息が出る。コンペ外の特別上映枠にはベルナルド・ベルトルッチ『Io e te』、フィリップ・カウフマン『Hemingway& Gellhorn』、ファティ・アキン『Der műll im garten eden』、アピチャポン・ウィーラセタクン『Mekong Hotel』……「ある視点部門」には、グザヴィエ・ドラン『Laurence Anyways』、ロウ・イエ『Mystery』、ブランドン・クロネンバーグ『Antiviral』……「監督週間」にはラウル・ルイス『La noche de enfrente』、ベン・ウェアトリー『Sightseers』、ノエミ・ルヴォルスキー『Camille redouble』! そして「批評家週間」にはサンドリーヌ・ボネール『J'engage de son absence』が!
上映と上映の間の移動、途方に暮れるほど長い待ち時間、出来れば確保したい食事の時間を考慮に入れ、 有名作家の作品を並べていくだけでスケジュールはほとんど埋まっていく。はたして、1作目、2作目が対象の「批評家週間」作品や、無名作家の作品を見に行く時間はあるのだろうか……。

***

カンヌ到着は午後。パスを受け取ったあとは重い荷物を引きずって、アパートメントホテルへ。一息ついて夕方からコンペ外作品Laurence Bouzereau『Roman Polanski: A Film Memoire』を見にSalle du Soixantièmeへ向う。一回限りの上映なので、すでにできていた長蛇の列にヒヤヒヤしながらも何とか入場。
監督は、スピルバーグ作品のメイキングを長年担当してきて、映画製作にまつわる多くのドキュメンタリーのプロデューサーでもあるそうだ。スイスの映画祭でポランスキーが拘束された事実を皮切りに、インタヴューという形式をとりながら彼の人生と映画との関係を、ニュース映像、作品の抜粋、写真、ポランスキー自身が撮影したプライベート・ショットを巧みに組み合わせることでなぞっていく。人生の転機ーーアウシュヴィッツでの母親の死、シャロン・テート事件、少女への暴行事件ーーについて、ポランスキー自身が語り、ときにはカメラの前で号泣する。インタヴュアーと彼との信頼関係があってこそ実現した作品ではある。ポランスキーの意外な素顔を発見し、ポランスキー史を学ぶにはもってこいだが、DVDの特典映像っぽいと言われれば否定できない。ただ、よくできていることは確かだ。

2本目はSalle Debussyでの「ある視点部門」の開幕作品、ロウ・イエ『Mystery』。前作『Love & Bruises』では、パリで生きながらも適応しきれない若い女性の主人公と、ロウ・イエ自身の中国からフランスへの越境がそのまま重なっていくように思えた。中国の歴史という文脈から切り離され、異境の地でどうすれば映画を撮れるのか。華やかさとはほど遠いうらぶれたパリの街を彷徨うひとりの女性が、まるでロウ・イエ自身に見えた。今回は二重生活と浮気を繰り返す夫と妻とめぐるお話。女優への細やかな演出や大胆な空撮など、いくつかハッとするシーンはあったものの、物語の収斂していく先には些か疑問を持った。その後は友人に誘われ「Lles inrockuptibles」誌のパーティへ。朝6時起きだったため顔を出すのが限界。明日に備えて早めの就寝をすることにした。

5月7日(月)

ホームステイ先を出発したのは朝8時半ごろだっただろうか。1、2時間の仮眠を取ったあと、玄関にはスタッフのベレーナとその友だちが車で迎えに来てくれていた。フランクフルト空港までは約15分。移動中は二日酔いによる体調不良で彼女や佐藤に気をつかわせてしまったものの、なんとか無事到着。出国まではマクドナルドのテーブルに腰かけながら、3人で日本語を交えて世間話に華を咲かせた。ベレーナは日本のテレビドラマに興味があるらしく、今年の夏から東京の中野で住むらしい。別れの時間が差しせまるなか、佐藤とともに日本での再会を約束した。火曜日から月曜日までのあっという間のフランクフルト滞在、これにて無事閉幕。そしてアブダビまでの長い長いフライトのはじまり。

5月6日(日)

午後からまた市内をぶらり。レーマー広場近くの大聖堂を訪れる。キリシタンではないけれども、旅先での教会訪問にはいつも癒される。年季の入った木造の椅子に腰掛け、パイプオルガンの音に耳を傾ける。それだけで心地よい。気がつけば首をもたげて爆睡していた。

駅の左手にあるタウヌス通りは、いわゆる赤線地帯でいかがわしい雰囲気が漂っている。ただ日本のような雑居ビルが立ち並んでいるわけではなく、どの店舗も西洋的なアパルトマンの形態を成しているのが面白い。むしろこの風俗街一帯は娼婦たちの登録制しかり、観光名所としての重要な側面をも担っているという。じっくりと見て回りたかったけれど、映画祭は本日が最終日。急いで会場へ戻った。

 

少し遅れて飯塚貴士監督『ENCOUNTERS』と安川有果監督『Dressing Up』(12)を見る。『ENCOUNTERS』を拝見するのも2回目。アナログの醍醐味を独力で見事に体現した非常に興味深い作品だ。客席の反応は、本映画祭で体験したなかでも一番だったと思う。とにかく爆笑の嵐で、質問も矢継ぎ早に飛んでいた。再見して思ったのは、不完全さゆえの味わいがこのフィルムには漂っているということだ。たとえば人形には表情がない。あるいは人形に付着する動線が最初から画面上に映っていたりもする。だけどそうした一般的なミニチュア映像において排除すべき不完全さこそが、逆に作品自体のクオリティを高めていると言ってもいい。何しろ飯塚監督ひとりで人形を動かし、撮影し、火薬を燃やし、声まで当てるのだから、そうした不完全さはおのずと生じてくる。ただ、そうした人形たちのぎこちない動きすべてが、幼年時の人形遊びにおけるスペクタクルまでをも喚起させるのだ。これはおそらく飯塚監督が、独力で何もかもをやってしまうことに意味があるのかもしれないと。
ラストの切り返しがすばらしいと聞いていた安川有果監督の『Dressing Up』では、じっと食い入るようにして画面を見つめている客席の姿をよく目にした。思春期の少女が、母性を通してつかもうとする血縁的狂気のまなざしを見逃すまいと、誰もが固唾を飲んで見守っている。そして同級生の自宅へ向かう玄関でのラストシーン。ふたりの少女を2,3度切り返し、何も言わずに目から滴り落ちる泪。切り返しのタイミングにチクショウ感。
 
 
夕方の別会場でレセプションが終わると、すぐさま閉会式が始まった。「NIPPON CINEMA」部門のグランプリは沖田修一監督の『キツツキと雨』(11)、「NIPPON VISIONS」部門は特別賞に松林要樹監督の『相馬看花 第一部 奪われた土地の記録』(11)、グランプリは山崎樹一郎監督の『ひかりのおと』(11)だった。最後にすべての映画祭スタッフが壇上に集結。ほんとお疲れさまでした。
 
 
控え室での乾杯や最後の打ち上げでは、会期中にお話できなかったゲストの方々や、『Sugar Baby』をご覧になってくださった方々から改めて感想をいただいた。会場近くのバーにてヴァイツェンのヘルという種類の生ビールを呑みながら、ニッポンコネクションは根に足のついた多くのスタッフによる大きな賜杯だなと実感する。それはスタッフの方々が、観客やゲストと非常に近しい距離で対話できる空間を作ってくれること、またドイツ、とりわけフランクフルトの人々の日本への関心の高さがそれを支えているからだと思う。そんな最後の夜のひとときを噛みしめていると、時刻はいつのまにか朝の5時をまわっていた。
 

 

5月5日(土)

午前中からワークショップに参加。ドイツの配給会社「RAPID EYE MOVIES」のプロデューサーであるステファン・ホールとぼくら参加監督たちとの意見交換の場とでも言おうか。「RAPID EYE MOVIES」はドイツで中島哲也監督の『告白』(10)を国内配給した会社で、彼はいまおかしんじ監督、クリストファー・ドイル撮影『おんなの河童』(11)のプロデューサーだ。同作の制作過程や撮影時のエピソードだけでなく、配給や宣伝の側面から考えられる国際的な戦略などを饒舌に語ってくれた。

彼が日本映画に一番ビックリしていたのは、膨大な年間の劇場公開作品数だった。ドイツでは毎週木曜の封切日に1、2本が公開され、朝刊の文化欄にはその新作の批評が掲載されることが一般的らしい。だから日本のように数が多いと物理的に批評も追えないし、それが国全体の経済的効果を上げるのは厳しいかもしれないとも言っていた。ここで少し前日の座談会中に生じたドイツの映画の状況を少しだけ垣間見ることができた。世界中のどこにおいても、映画は斜陽産業であることはまちがいない。だけどステファンはそれを改善するための機関が増えてきていること、また海外の映画祭や配給への扉を後押ししてくれるワールドセールスエージェントの存在などをくわしく教えてくれた。

午後は会場近くのカフェでスタッフとのお茶会に参加。ただ翌日は日曜で、ほとんどの店舗が閉まってしまう。そこで急遽途中退出し、ファビアンやソフィーと近所の商店街へ行った。特別高価なものではなく、スーパーや酒屋でソーセージや瓶ビールなどの食料品をたくさん購入する。ちなみにビールはキャリーケースにタオルを巻いて何とか持ち帰ったけど、日本の自宅で開けるとケースのなかがビールまみれになっていた。

『Sugar Baby』の上映は22時30分。ホームステイ先で仮眠をとったあと、控え室にて通訳のマリアさんや冨永監督と舞台挨拶の打ち合わせを行う。今回は冨永監督の『乱心』との併映プログラムで、「NIPPON VISIONS」というデジタル素材で制作された監督たちの作品を集めた部門だ。開場から10分後、上映会場に入る。観客席は80席近くあったけど、最終的に8割強は埋まっただろうか。夜分遅くにもかかわらず、どこの馬の骨かもわからない若輩者の作品を見に来ていただけることに感服。冨永監督も上映前に言ってたけれど、ほんとにぼくも震えた。

上映中は予期していないシーンでよく笑いが起こっていた。特にピンク映画のシーン。ここで「隈元くん、やっぱりコメディは強いよねぇ」という眞田監督のふとしたささやきを思い出す。当時撮影させていただいた今はなき天神シネマに、この場を借りてお礼申し上げます。上映後は劇中で使ったヘルメットを携えふたたび登壇。だけど「えっ、主人公はあんたがやってたの!?」といった会場の空気を瞬時に察した。どうやら主人公を演じていたのがぼくだとは、誰もわかっていなかったようだ。そのことを踏まえて、Q&Aでは「なぜあなたは最後裸になったんですか?」といった鋭い質問や、「最後は70年代の映画で、デ・ニーロが出演しているシークエンスを思い出しました」など今まで言われたことのない感想などもいただく。ならびに字幕を担当してくれたKen Westmorelandや、Kenta Frank Odaにもこの場を借りてお礼申し上げます。

『乱心』を拝見するのは今回が2回目だった。幼い時分に妹を殺された男性が、その犯人の娘と恋人どうしの設定で、もう一組の男女や男性の家族たちがその複雑怪奇な関係に忍び寄っていくさまが描かれてある。役者の棒読み、ダイアローグの掛け合いなどから来る違和が全編を通して散りばめられており、監督自身による演出の試行を節々に予感させる。ただ監督のねらいは、そうした人物が紡ぎ出す方法の違和だけではないと思った。ねらいの本質は、むしろ画面上を構成する暗部へのこだわりにあったのではないか。つまり画面をできる限り暗くするということなのかもしれない。『乱心』の空はいつも曇り空で、日差しという言葉からは縁遠い作品だ。それは畳張りの家、出産を控える男女のマンション、面会室といった室内におけるきわめて暗室な状態からも言える。こうした暗部の状態が、人物や物語にどう作用していくのか。神代辰巳の『地獄』(79)に影響されたという冨永監督のねらいは、そこにあったのかもしれないとふと思ったりもした。

上映後は反省会も含めて冨永監督、眞田監督、飯塚監督、『大木家のたのしい旅行 新婚地獄編』(11)の本田隆一監督や映画祭スタッフ、『Sugar Baby』を見てくださった方々を交えて呑みまくる。地下隣のカラオケルームから聴こえてくる多少下手っぴなレディオヘッドの『Creep』も、人目もはばからずに濃厚な接吻を交わす目下の男女も、何だか今日は心地よく思えた夜だった。

5月4日(金)

午前中は映画祭のスタッフ、参加監督の方々と一緒にフランクフルト市内へ繰り出した。市内の規模はヨーロッパの他の都市に比べて比較的小さく、短い期間でほとんどの観光要地を訪れることができるという。中央駅のスターバックスから出発し、ゲーテハウス、クラインマークトハレ市場、それからレーマー広場を横切ってマイン川向こうのドイツ映画博物館というスケジュール。去年リニューアル・オープンされた当館には、ソウルバスによる『サイコ』(60)のストーリーボード、『メトロポリス』(27)のミュージックスコアなどが丁重に保存されており、心なしか思わず唸った。

正午を過ぎ、空腹さながらの一行はシュヴァイツァー通りにある「ツムゲマルテンハウス」というりんご酒(Apfelwein)の専門店で昼食をとった。フランクフルトの名産品はビールではなくりんご酒で、ベンビルという専用の大きな瓶のピッチャーから注がれる。この店の地下には、木製樽のなかで熟成された自家製のりんご酒が大量に貯蔵されているらしい。甘酸っぱいりんご酒を呑みながら、ザワークラフトや野菜ソースを添えた大きなソーセージ、というのはいかにも贅沢。ボリューミーな食事をしながら『グレートラビット』(12)の和田淳監督や、飯塚監督と滞在先のトラブルについてしばし談笑。食事後は地元記者による市内のロケーションについてのインタヴューに応じたりもした。

りんご酒の大量摂取で、ほろ酔い(というか、かなり気分の乗った)状態で会場へ戻る。そこでようやく撮影の佐藤駿と合流。どうやら出発の飛行機に乗り遅れたらしい。現地スタッフの方のご尽力もあって、遅ればせながらの到着だ。それから飯塚監督を交えた3人でホームステイ先へと戻り、ファビアンお手製のドイツ料理をいただく。かなり満腹だったけど、ここでのソーセージもまた絶品。ここでもアルコールが面白いように進んだ。

酔いがさめたころ、映画祭の会場へ。20時から濱口竜介監督『親密さ』(11)のショートヴァージョンを拝見する。監督が急用で来れなくなったため、代役で本作の字幕翻訳作業を担当したJVTA(日本映像翻訳アカデミー)の浅川さんが登壇。今回の作品はセリフがとても多く、かなり大変な作業だったようだ。『親密さ』は舞台装置上のなかで繰り広げられるドラマと、人物の配置転換作業が爽快だった。ごく単純に言えば、シナリオはありふれたトレンディドラマに近い。それを清順のような照明と障子とを背景にした、ごく冷たい舞台装置のなかへと昇華し、セリフとショットを連ねることで見えてくる映画の奥行きを久々に体感した。食い気味に入るセリフとセリフとの絶妙な間も、後半はセリフではなく彼ら自身の言葉へと変容していく発見がある。時おり挿入される客席の表情も、この作品にほどよいアクセントを与えている。長尺であることをまったく感じさせないひとときだった。

シメは22時半から別会場で『乱心』(11)の冨永圭佑監督、『しんしんしん』の眞田康平監督、ぼくの3人で「New Generation」と銘打った座談会。冨永さんは映画美学校、眞田さんは東京芸術大学、ぼくは横浜国立大学を卒業したということで、それぞれのバックグラウンドをもとに、若い監督たちが抱える日本映画の状況や課題などをテーマにしゃべり通した。ちなみにドイツには専門学校以外に実践的な映画制作を学べる教育機関は存在しないらしい。だから大学においても、実践ではなく主に理論が中心になってくる。そうした背景からも「なぜその学校を選んだのか」といった切り口から座談会はスタートした。司会のローランド・ドメニクさんはすでに僕たちの作品を見て下さっていたらしく、それぞれの感想を踏まえたうえで、制作に至った経緯やプロセスなどが話題の中心となった。その後「自分で映画を撮るにはどうやって資金を捻出しているのか」といった質問や、「日本における観客の層はどこに集中しているのか」「どういった層をターゲットにしてこれから映画を作っていくのか」など日本映画そのものに関心を持つ客席からの質問が多く集中する。こうした底辺の長い質問が飛び交うということは、日本映画がいかに雑多な形態のうちにあるのかを改めて実感する。じゃあドイツはどうなのだろうか?客席からの質問に答えながらも、いっぽうでその問いがぼくの脳裏をかすめた。ローランドさんの司会で始まった座談会も、気がつけば予定より1時間も越えた長丁場。ヘトヘトではあったけど、その後はクラブイベントが催されている1階のラウンジへ移動し、合流した佐藤駿やファビアン、スタッフのカズミさんたちと夜明け前まで踊り明かした。

5月3日(木)

午前中はフランクフルト中央駅周辺をぶらり。ドイツ最大の金融街なので、高層ビルを要したさまざまな銀行が多い。市内の中心にはユーロ圏最大の欧州中央銀行がそびえ立っている。いっぽう付近では「Occupy!」の横断幕を掲げたテント集団が居座っていた。おそらくデモが起こればこの一帯は暴徒化するのだろうか。いっぽう市内では大規模な再開発が進んでいた。あらゆる場所で工事中の看板が見受けられる。巨大なクレーン車もフル稼働中で、市内の景観や状況はここ数年で変化するのかもしれない。嵐の前の静けさのなか、シラー像のある公園の鳩たちが呑気に見えた。

午後には映画祭会場に戻り、日本で作成したプレス向けのサンプルDVDを設置してもらえるようスタッフの方との交渉。またその後の交流会ではネームプレートに「¥」と大きく書かれた関係者の方々にDVDを配布したりもした。結局日本から用意してきた40枚近いサンプルは、映画祭終了時にはすべてなくなっていた。

22時半からは梅沢圭監督の『Coming out Story』(11)を拝見する。京都在住でトランスジェンダーの中学教諭に密着し、彼女の性適合手術前後をくまなく追いかけた作品だ。だけどこのフィルムは、単に彼女を追いかけるだけの形式にとらわれない。映画の進行につれて彼女を追いかける撮影班のスタッフ、そして監督自身までもが自らの性と向き合っていくのだ。それは「自分は女性ではないのか」と戸惑う撮影班のスタッフにカメラが向けられ、「たのむから撮らないでくれ」と衝突する緊迫感によって体現される。または監督自身の回想を交えたナレーションによってなのかもしれない。そうしたジェンダーへの意識に端を発した入れ子構造のカミングアウトのなかで、どんなに酔いつぶれても酒を呑みまくろうとする中学教諭とそれを気づかう友人の姿に、客席からは安堵にも似た表情が見受けられる。お好み焼き屋で友人と語り合い、一度店を出るものの「もういっちょ呑むか!」とふたたびその暖簾をくぐる姿には、どこか突き動かされるものがあった。

5月2日(水)

フランクフルト国際空港に着いたのは、現地時間の14時ごろ。到着ロビーには映画祭スタッフの黒河内麻耶さんが待機してくれていて、ヘトヘトなぼくを空港からホームステイ先まで親切に案内してくれた。滞在先は中央駅からSバン(近郊電車)で3駅ほどの「Frankfurt west」という郊外。麻耶さんはドイツ人と日本人のハーフで、英語も堪能なトライリンガル。横浜の高校に通っていたこともあるらしく、来年は日本へ留学する予定とのこと。電車で移動中のあいだ、フランクフルトの街並みの特徴や名産品、簡単なドイツ語などをくわしく教えてもらった。
 
「Frankfurt west」のホームステイ先に到着。お世話になるファビアンと彼女のソフィーが元気に出迎えてくれた。映画祭の会場まではボッケンハイム大学の一角で、ここからだと歩いて10分もかからないらしい。1時間ほどで支度をしたのち、ボッケンハイムの閑静な住宅街を散歩しながらファビアンに会場まで案内してもらう。
 
会場の入口にはすでに多くのお客さんが並んでいた。プレスのマスコミやテレビ局のカメラマンが取材用の素材をパシャパシャ撮っている。そんななか映画祭のレセプションがスタート。レセプションでは出品作『しんしんしん』(11)の眞田康平監督や、『ENCOUNTERS』(11)の飯塚貴士監督など日本でも顔なじみだった方々と再会を果たす。また本映画祭のメインプロデューサーであるマリオン・クロムファスや「NIPPON CINEMA」部門ディレクターのペトラ・パルマー(グヴィネス・パルトロウにそっくり!)にもあいさつし、フランクフルトのことについて色々と尋ねた。
 
 
その後2階にあるニッポンシネマ部門の会場へ移動し、開会式に参加。スポンサー企業やマリオン、ペトラ、プログラミング協力の方々があいさつをしたあと、オープニング上映の新藤兼人監督『一枚のハガキ』(11)が始まった。第二次大戦中を舞台にした広島の戦争未亡人の悲劇を中心に据えた作品ではあるけれども、会場からは意外にも絶え間ない笑い声が響き続ける。だけど考えてみれば、あんなにコロコロと出兵、戦死を告げる同じシークエンスが小気味よいリズムで連続するならば、いくぶん滑稽に見えない気もしない。笑いといえば茅葺きの家屋を燃やすシーンの大竹しのぶさんは尋常じゃない。燃えている家屋に突入し、次のカットで先ほどのヘアースタイルとはまったく異なる大竹さんがそこにいる。かと思いきや、突然一升瓶の酒をあたり一面に噴き散らす戦争未亡人。何なんだ、これは!でも笑いが起こるのもそういうことなのか。大竹さんの鬼気迫る怪演は、ヘトヘトでクタクタなぼくの骨身に十分沁みまくった。
 
 
 
高緯度な地理のせいか、ドイツの日照時間はほんとに長かった。『一枚のハガキ』を見終えた午後9時半をまわった頃でも、外はまだ薄明かりが射している。遅ればせながら控え室にて、ギリシャのベジタリアンな夜食とラーデベルガーの瓶ビールで喉をうるおし、休む間もなく映画祭初日は幕を閉じた。
 

5月1日(火)

20時30分、成田国際空港。今回上映される『Sugar Baby』(11)の撮影を担当した佐藤駿を待っている。航空会社は21時20分発アブダビ経由のエティハド航空。プレミアリーグで躍進するマンチェスター・シティのスポンサー企業らしい。機内への搭乗時刻を待ってはいたけれど、結局佐藤とは合流できないまま。しかたなくひとりフランクフルトへ向かうことに。

機内ではモニターの番組で上映されていた『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』(11)や『リアル・スティール』(11)を見て過ごした。だけどその長いフライト時間の大半は、カードゲームの「ソリティア」につぎこんでいた気がする。モニターゲームで目が充血し始めた午前4時ごろ、ようやくトランジットでアブダビ国際空港に到着。

次の便を待っているあいだ、五反田在住で目黒シネマを重宝している旅行好きの女性と知り合う。この方とはのちに帰国便でもアブダビで偶然再会することとなる。その彼女を通じてエジプト人、イラク人、シリア人と知り合いになった。3人はどうやら紛争の問題についてかなりフランクに会話しているようだ。ところがそこにもうひとりのシリア人が介入したことで一転、シリア人同士がはげしく論争を開始。最後はそれをイラク人が仲介するという非常に面倒な展開にぼくは閉口してしまい、うっかり五反田の彼女の連絡先を聞くことさえ忘れてしまった。