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4月26日(火)

 08:00起床。日本で、鳥の鳴き声の効果音をCDで探している時に、日本じゃ絶対使えないと言っていた鳴き声がそのまま聴こえる。ニッポンコネクションは明日27日から開催なので、観光。大橋さんとゲーテ像前で待ち合わせる。

映画館に行こうということになりマーク・ロマネク監督『わたしを離さないで』(10)観る。ドイツの映画館は、エンドロールが始まると場内が明るくなり客は帰って行く。ちなみに『わたしを離さないで』もそうだったがドイツ国内で上映される映画の8割はドイツ語吹き替えらしい。ニッポンコネクションの会場まで下見を兼ねて散歩。

 

ニッポンコネクションは、ゲーテ大学の構内で行われる。もともとは学生が企画した小さな映画上映イベントから始まり、今日ではスポンサーなどの協力もありつつ規模が大きくなってきたそうだ。構内に、イメージカラーのピンク色の幕が大きく吊るされていた。夜。ケンカする人たちを街で見る。帰りたい方向と逆の電車に乗ってしまい、慌てて降りると外では雨。マイン河沿いを歩いて帰る。

4月25日(月)

 03:30に一度、目が覚める。眠る前とまったく同じ番組の同じ場面がテレビに映っている怪奇。08:30起床。散歩。14:00北京発。ひたすらビールとワインを飲みつつ持って来た『ファウスト』の文庫を読破。フランクフルトはゲーテ生誕の地である。しかも自分の映画の冒頭に『ファウスト』からの引用文があるので、少し恐れおののき、再読。飛行機は夜から逃げるように飛び続けているので、窓の外は暗くならならずに明るいままだった。

18:10着。フランクフルト上空。コロニーのように固まり点在する街と森と畑。空港で、ニッポンコネクションのスタッフが看板を持って出迎えてくれた。日本からの留学生とドイツ人で日本語を勉強されている方。ニッポンコネクションはスタッフの方々のほとんどがボランティアで参加されていた。電車でステイ先まで案内していただく。途中何度もニッポンコネクションのポスターや看板を見る。中心部から電車で10分程のザクセンハウゼンという地区。緑の多い住宅街。ちなみにここまで、凄い、ヤバい、うわっ、の3つをひたすら繰り返すという全面感動状態。自身初めてのヨーロッパ、こんなにも街の建物が古く歴史が縦軸で繋がっているとは思わなくて、路駐の多いディズニーランドみたい……などと思う。ホームステイ先のマーカスという男性の家に到着。彼はフランクフルトの銀行に勤めていて、日本語を勉強中だという。14階のマンションの一室をお借りする。

フランクフルト市街を一望できる部屋。スタッフの方と別れる。マーカスに、夕食がてら市内を案内してもらう。市街地を歩きながら、雑談。ソーセージ&ザワークラウト&ジャガイモ&アップルワインという典型的ドイツ食をご馳走になる。帰り道、猫が寝ていた。猫はドイツ語で「カツ」なので、ドイツでカツ丼頼むと猫丼が出てくるよと言っていた。

4月24日(日)

08:30東京(羽田)発 北京経由 18:10フランクフルト着の予定だったが、余震の影響で08:30発が飛んでいないと、空港のカウンターにて知らされる。14:30発に変更。本来乗り継ぐはずの便には間に合わないので、北京に1泊し翌日のフライトに切り替え。同行していた東京芸大同期の大橋礼子監督が、機内サービスでブラッディメアリーを頼んでいるのを見てやはりさすがだなと思う。北京。人気のない郊外に立つホテル。ホテルで夕食を食べ、やることもないので部屋に戻り、点けていたテレビを眺める。ダンス甲子園的な番組。気付くと眠っていた。

 

いくつかの「輪郭」についてーーピナ・バウシュ、アンジェリカ、そしてジョアン

 それぞれの被写体が属する空間の層の差異を増幅することによって、本来ならば可視化されるはずもない「輪郭」なるものを過剰に捏造する装置、それが3D映画であると考えることは勇み足かもしれない。けれども、「3D」という時空の中でスクリーンに映し出される「人間」たちは、かつて表現主義という名の下に「光」と「影」の対立の間に生み出された幾多の「怪物」たちの方へと、その存在感を近づかせているように見える。ただしそれはそこに映し出される「人間」という形象それ自体が変化したということを示すわけではない。「CG」という技術が、まだどちらかと言えば「人間」なるものに対する「侵略者」たちの形象をそこに「生み出す」という方向に力を発揮していたことに対し、「3D」は「人間」こそを「侵略者」そのものとして「映し出す」ことに力を向かせる技術であるということなのだ。ジェームズ・キャメロン『アバター』において、イメージたちが徹底した「侵略者=人間」の殺戮と放逐へと向かったように、3D空間における「人間」とは、その世界の存在の論理に最初から反する、異様さそのものとしての形象である。ティム・バートンの生み出した『アリス・イン・ワンダーランド』は、唯一の「外部」であるアリスの「人間」としての何の特別さもない身振りによってこそ(マッド・ハッターとの抱擁)、パラドックスの支配するその世界の普遍的な「秩序」を失うことになるだろう。そしてその問いをアメリカ映画において最も先鋭化させているのが、ロバート・ゼメキスの『クリスマス・キャロル』だ。つまり、どんなに映画の「内部」において、「人間」たちの生(なま)の身体を徹底的に排除することが技術によって可能になろうとも、それを「見る」主体である「観客=人間」だけは、「キャメラ」という装置を介した視点を決して捨てることができないという事実。ここで3Dという技術によって「輪郭」を与えられることになるのは、映画の内部から徹底的に隔離された、他ならぬ「観客=人間」という「外部」からの「侵略者」なのだ。
 
 ヴィム・ヴェンダースによる初の3D作品『PINA』において、その身体を舞台上や屋外のロケーションの中で酷使し、その「輪郭」をはっきりと浮き上がらせたダンサーたちの姿は、しかし2Dのまま「上映」されるピナ・バウシュの生前の映像よりも圧倒的に虚ろに見えてしまう。映写機と煙草の煙を燻らす技師の姿が手前に、椅子に腰掛けた観客たちがその少し奥に「配置」された、古めかしい上映室のシークエンスで、ヴェンダースは「上映」というプロセスを介在させることで、「ピナ・バウシュ」という存在をダンサーたちと文字通り「別次元」の存在として提示する。モノレールや公園といった空間を「背景」に、あるいは小さなミニチュアの内部を「舞台」に、ヴェンダースは「ダンス」を世界に導入していく。映画としての世界、そしてダンスとしての世界。しかしその創造主たるピナ・バウシュその人は徹底して2Dという映像の世界に留まったままだ。
 あるダンサーの「私たちはピナの一部なのです」という美しい言葉を耳にするとき、しかしこのフィルムにおける彼らとピナ・バウシュとの間には、声と表情とを分離された彼ら自身のインタヴュー・カットと同じくらいのはっきりとした距離があるということを、誰もが認識することになるだろう。ヴェンダースは、3Dがある種の「断絶」を内在する技術であるということを、おそらくはっきりと自覚した上で『PINA』を撮っているはずだ。いや、ひょっとすると彼はその「断絶」に、この企画に着手したことによって初めて気づいたのではないだろうか。彼女の残した世界を映画において再生させようとする試みが『PINA』というフィルムの根幹にあるとすれば、おそらくヴェンダースにとってピナ・バウシュとは、世界に色彩を与えてくれる「天使」そのものとしてあったことだろう。かつて「天使」が自らの死と引き換えに「人間」との恋を願ったように、3Dという形式を敢えて選択することによって、ヴェンダースはいま再び「天使」との出会いを模索したのではないか。
 けれども2Dのスクリーンの手前を揺らぐ3Dのカーテンは、ピナ・バウシュに触れることはない。白と黒だけで映し出されたピナ・バウシュの姿に色彩が宿ることはない。そう、私たちはまぎれもなくその世界の外側にいる。その地点に徹底して踏み留まることを選んだ『PINA』のヴェンダースはいま、『アメリカ、家族のいる風景』の廃墟へと向けていた感傷的な視線とは、決定的に異なった視点によって世界に対峙しようとしている。
 
 その一方で、細い杖を小脇に抱えステージへの階段をスキップのごとく駆け上ってしまう102歳、マノエル・ド・オリヴェイラの最新作『O Estranho Caso de Angélica(アンジェリカの奇妙な事件)』は、それはもう軽々と生者と死者の世界を横断してしまう。『アンジェリカ』において死者はそこに残されてしまった生者たちよりも、明らかに艶やかな顔を携えてその姿を「写真」のなかに表出させ、地に根ざした労働にシャッターを切っていたはずの若きカメラマンを一瞬で魅了する。そしてそのカメラマンは、身の回りのあらゆる事象に気を配ることをやめた「怪物」として、己の欲望へと視覚や聴覚を集中させていくことになる。「映画は変わらない、変わったのは技術だけだ」と述べたオリヴェイラにとって、CGや3Dという技術など些細な問題に過ぎない。溌剌とした肉体的な「生」を謳歌する「昼」と、自身の精神を苛む罪という「死」に直面する「夜」との混交を、子供たちの姿を被写体に残酷にも描き出す最初の劇映画『アニキ=ボボ』からすでに、オリヴェイラにとってそもそも「人間」とは、現実そのものでありつつ、同時にそこに異物を生成することを可能とする「怪物」に他ならなかったのではないか。
 メリエスというよりは、ほとんどバートンのワンシーンであるかのような死者と生者の空中飛行において、彼らの半透明の身体の表面が放つ白い光は、3Dによってもたらされる「輪郭」とはまったく別のものだ。彼らの身体はそのファンタスティックな夜の世界と何も区別されていない。写真に映り込む「アンジェリカ」の微笑みは、あり得ないものがそこにあることを示すことではなく、あり得ないものを見い出すための「視点」こそを生み出す、映画の「嘘」の力がそのまま具現化された微笑みだ。その見開かれた目に取り憑かれた男は、徹底してその「嘘」の論理の中に没入する。その男の姿を外側から見つめる我々「観客」は、その男がいったい何を見ようとし、何を見ようとしていないのかというサスペンスに宙づりにされることになる。なぜならオリヴェイラの映画には、そのフレームの内部に映り込む全てがあっけらかんと映し出されてしまうからであり、そこには「見る」という行為に対するいかなる区別もないからである。
 そのとき私たちは、カメラマンの男が「見ようとしないもの/見ることができないもの」たちの生み出す豊かさに、逆説的に気づかされる。たとえばそれは部屋に飼われた一匹の鳥に対し、いまにも襲いかからんとする猫の挙動だ。それを発見した私たちの「視線」は、カメラマンが「アンジェリカ」に誘惑されていく過程のその「背景」にそっと示された、まったく別種の「奇妙な事件」を生み出す主体となり、『アンジェリカの奇妙な事件』の「怪物」と「輪郭」を共有することになるだろう。オリヴェイラはその「輪郭」を、登場人物にも、観客に対しても新しく「捏造」することなどに興味を持たない。それはすでに私たち「人間」なるものにおいて、どうしようもなく内在するものなのだと、鮮やかな軽さを持って断言してしまうのだった。
 
 そしてラウル・ルイスは、その4時間半(ロングヴァージョンはおよそ6時間)という長大な最新作『Mystères de Lisbonne(リスボンの謎)』を、名前以外に自身の出自を知らない「ジョアン」というひとりの孤児、その過去をめぐる無数の視点の構築物として、真実と虚偽、過去と未来、現実と空想といった区別の無効な、混沌そのものとして私たちに提示する。どれほどに時間が進んでも、ジョアンの「輪郭」はーーつまりそれを見つめる私たちの「視線」はーー明瞭な形をとることはない。このフィルムには、(記憶にある限り)例外なく厳格に守られるひとつのルールがある。それは、屋内と屋外との境界を絶対にキャメラが横断しないということだ。無数の絵画や鏡が配置された屋内という閉鎖的な空間と、草木が揺れ激しく雨の降る屋外という開放的な空間とを、断絶/接合させるルイスの手腕には、カール・ドライヤーの『怒りの日』や『ゲアトルーズ』にも似た抽象への意志を見出さずにはいられない。
 この恐るべき傑作については、後日また改めて何か書き記したいと考えているのだけれども、最後にもうひとつだけ。私はこのフィルムを見ながら、あたかも3D作品を見ているような心地になった。もちろん単純なスペクタクルとしてではなく、ひとつの映像の中に納められたいくつかの事物に堆積している無数の時間が、その秩序を無視するかのように、次々と運動として浮き上がってくるような、そんな感覚を「3D」的なものとして感じてしまったのだ。それは『クリスマス・キャロル』においてゼメキスが視覚化した時制の問題と似ていることのようで、何か決定的に違うことであるように思う。とりあえずはそう書くに留めておきたい。

池部良も高峰秀子もノマドだった

2011年4月20日

 

 朝日新聞の夕刊で藤原帰一の連載が始まった。福沢諭吉にちなんだ「時事小言」と題されている。地震、津波、原発についての言説を追いながら、「わたし自身をとらえる通念や偏見をできるだけ突き放し、何ができて何ができないのかを考えること。それがこのコラムの目的である」と結ばれていた。後出しジャンケンではなく、現在形で思考することを宣言した誠実な文章だと思った。国際政治学者らしく、東西冷戦が終わった後も、言論が、いかに冷戦的な通念に囚われていたかを書き、「時事評論とは現在を語るものではなく、過去を現在に当てはめる文章の別名に過ぎないのではないか。書き手としては、それがこわい」と正直に書いている。

 政治家へのインタヴューを通じてオーラル・ヒストリーを実践している御厨貴は、「戦後」ならぬ「災後政治」という概念を提供している。曰く、3.11は、「戦後」に匹敵する出来事であり、「災後」とは明らかな転換点であり、ヴォランティアの数多さなどを見ていると、新たな公共性の概念が生まれつつある。政治史の側から、こうした出来事にアプローチした例は、後藤新平だろう。彼のプロジェクト型の実行力は参考になるだろうが、今、政治の世界に後藤は見当たらない。今後、世代交代の中で、後藤のような政治家がグループとして登場するような土壌を作ることが自らの役割だと、御厨は述べていた。

 もちろん後藤新平についての共著(『時代の先覚者・後藤新平』藤原書店刊)もある御厨が、台湾総督や満鉄総裁もつとめ、統治について常に為政者の側にあった後藤新平の長所も短所も理解した上での発言だろう。渋谷区の中学で学んだぼくは、表参道や外苑の誕生について「後藤新平の大風呂敷」として社会の時間に学んだのを思い出す。後藤新平邸は確かアントニン・レーモンドの設計だったし、結局はアンビルトに終わったが別邸の設計をライトに依頼していた思う。彼は有能なプロジェクト・リーダーでもあったけれども、表参道や自邸の設計をレーモンドに依頼したことなどを思い合わせると、極めてセンスのいい人だったわけだ。戦前の超エリートの時代にノスタルジーを感じても仕方がない。政治家にセンスを求める時代はずっと以前に終わっている。

 「災後」の三陸再生のために、御厨が後藤新平を持ち出すことを考えると、そのためにはオースマンのパリにおける都市改革と同レヴェルの作業が求められることになるだろう。だが、後藤新平もオースマンも過去の人だ。歴史から学ぶという作業はぜったい必要だが、その作業ばかりを繰り返しているだけでは、藤原帰一の言う「過去を現在に当てはめる」作業に過ぎない。「災後」という「事後」の時点から過去に遡行するのでは、釜石は、製鉄所の町、気仙沼は静かな漁港に戻すしかあるまい。震災以前の渦中の釜石製鉄所は、著名ラグビーチームを手放さなければならないくらいに低落していたし、気仙沼を始めとする漁港のダメージは計り知れない。歴史から学びはするが、「地域の意見」を聴取するが、無くなったものを懐かしむというノスタルジーに浸っていては、「事後」のヴィジョンを想像することさえできない。昔は良かった。震災以前の、原発事故以前の昔の時間を取りもどせ、というスローガンしか生まれない。「以前」の時間とは、堤防に守られて、安全神話に守られて、原発と束の間の共存が可能だった時代のことだ。だが、それらのすべてが再審に付されたことだけはまちがいない。だから、戻れない。昔には戻ることができないのだ。

 最近、池部良や高峰秀子など昨年亡くなった往年の名優の文章ばかり読んでいる。池部良なら『江戸っ子の倅』、高峰秀子なら名著の誉れが高い『わたしの映画渡世』などだ。ローレン・バコールやイングリッド・バーグマンなどハリウッド女優には素晴らしい自伝が数多くあるし、ぼくはジーン・ティアニーの『Self-Portrait』やジョーン・フォンテーンの『No Bed For Roses』といった自伝も大好きだ。それにくらべると、最近、素晴らしい自伝を出版した岡田茉莉子といった例外はあるけれども、池部良や高峰秀子のような文章を書ける俳優は、日本映画において極めて少ない。池部良の比喩の適切さには舌を巻くし、高峰秀子の、題名そのままを表したようなドスの利いた文章は爽快だ。

 そうした例外的な映画俳優の自伝から言えること。彼らにはいろいろなことが起こっているということ。同じ場所に同じ人々と暮らしているだけでは決して起こらないような、多様で、多彩で、嬉しくも悲しくも素晴らしくもあるような素敵なことがたくさん起こっているということ。もちろん戦争もあったし、映画俳優という職業柄、いろいろな人の人生を生きる必然性もあったけれども、それ以上に、過去を肯定するのではなく、現在で過去を乗り越えて、過去に縛られないこと。そんな潔さが、彼らの文章のエンジンであるように感じられる。ちょっと撮影所が嫌になれば、パリにでも逃げる。最初はちょっと気分が乗らなくても、人に勧められたものを初めて食べてみると、これがすごくうまいことが分かる、などなど、自分自身に拘ることなく、一瞬、一瞬を冒険の時間に変えていく。どっしりと腰を落ち着けるのとは反対の、尻軽で身軽で、変幻自在。こういう感じを、昔、ジル・ドゥルーズは「ノマド」と呼んでいたと思う。

 三陸の再生のヴィジョンのひとつとして「ノマド」はどうだろう? 定住はやめる。丘の上ならいいかもしれないが、低地は、遊牧民(ノマド)のパオだ。身軽で可動的で、すぐさま引っ越すことができ、たとえ津波に流されたとしても、たかがテントだ。ぜんぜん平気。それに何よりも、テントに執着する人もいないだろう。財産なんて関係ないさ。船から下りてテント作りの家へ帰る。どうだろうか?

 

松島でブイヤベース!

 本当に多忙で更新が滞ってしまった。「週刊平凡」じゃなくて、これじゃ「月刊平凡」になりそう。やばいぜ。

 数日前の朝刊にこんな記事が載っていた。「トゥールダルジャン」や「ロオジエ」といった有名フランス料理店の看板料理長が、交代で福島県郡山市の避難所を訪れ、自慢の料理を振る舞っている。在日期間の長い親日派フランス人たちで、「温かな料理で被災者たちの心を温めよう」と発案した。/在外フランス人連合や在日フランス人シェフ・パティシエの会などの企画。郡山市の青年会議所が協力した。3日から9日まで東京や大阪から計14人の料理長が毎日2人ずつ料理を持参。1日3001500食を提供している。/8日は午後6時すぎから郡山養護学校など2カ所で、ロオジエの元総料理長ジャック・ボリーさんたちがブルゴーニュ地方特産のワイン煮込みやプリンなどのメニュー計350食を提供。避難所の人たちは「こんな所でこんな本格料理が食べられるなんて」と笑顔を見せた」(朝日新聞朝刊4月9日)。ブルゴーニュ特産のワイン煮込みは、ブッフ・ブルギニョン(http://www.lesfoodies.com/paul/recette/boeuf-bourguignon)だろう。伝統的なフランス料理を伝えた資生堂パーラーのロオジェを長年率いたジャック・ボリーにしてみれば、スペシャリテではないかもしれないが、ビーフ・シチューとブッフ・ブルギニョンは違うんだぜ! という味をみせられたろう。朝日の記事の「トゥールダルジャン」のシェフは、ドミニク・コルビで、彼は今、銀座のシージエム・サンスのシェフだ。彼が作ったのはアッシェ・パルマンティエ。(http://www.lesfoodies.com/mimirocksy50/recette/hachis-parmentier-8)どちらの料理もフランスの伝統的な家庭料理だ。

 前々回、避難所で1週間もすれば美味しいものを食べたくなる、という趣旨のことを書いた。そして、避難所の滞在はもう一ヶ月を越えている。先の見通しさえつかない状況。仮設住宅以前に、まず瓦礫を退かさねば……。それよりも、低地に仮設を建てれば、また津波の被害が予想される。では、いったいどこに? 否、問題なのは、復旧でも、復興でもなく、再生。でも、再生計画を策定するためには、まずコンセプトが必要。宮城県の復興計画が新聞に掲載された。最初の3年は復旧……。広大な地域でいくつもの都市が消えてしまったのだから、問題は大きい。誰もが、地域の意見を参考に再生計画を、と言うが、地域の人たちは今も悲しみに打ち拉がれた人が多く、仕事もなく、家もなく、家族を亡くした人が多いわけで、明日の暮らしをどうするかという問題がまず横たわっている。老人たちは住み慣れた場所に必ず戻りたいと例外なく発言する。

 まず美味しいもの、という発想は悪くない。「プロパンガスや機材を運び込み、熱々の、温かい料理や甘いスイーツで喜んでもらおう。イタリアン・銀座「ヒロソフィー」ヒロ山田さん/スイーツ・六本木「Toshi Yoroizuka」鎧塚俊彦さん/鮨・青山「海味」長野充靖さん/和食・恵比寿「賛否両論」笠原将弘さん/中華・「MASA'S KITCHEN47」鯰江真仁さん/イタリアン・丸の内「クラッティーニ」倉谷義成さん/ラーメン・護国寺「ちゃぶ屋」矢島丈祐さん/ラーメン・広尾「玄瑛WAGAN」博多「麺劇場玄瑛」入江瑛起さん等多くのシェフたち、お店のスタッフの皆さん総勢30名ほど集まった。参加は出来ないけど、料理だけでも…とイタリアン・南青山「リストランテ濱崎」濱崎龍一さんからは、ミートソース/イタリアン・京都「京都ネーゼ」森 博史さんからは、ガトーショコラ/イタリアン・名古屋「Issare shu」水口秀介さんからは、サーモンマリネとミネストローネをご提供いただきました」(http://ameblo.jp/chef-1/entry-10843858528.html)。イタリアン、中華からラーメンまで各国料理の料理人たちも被災地に足を運び、料理を作っているらしい。重要なのは、おにぎりやパンといった「配給品」みたいなものではなく、「レトルト食品」を配るのもなく、「炊き出し」というよりは、ケータリングに近いもの。これは重要なことだ。避難所だからといって、避難所に相応しい料理ではなく、本当の料理でしかもおしいものを、その場で作って、避難所のみんなにふるまうということ。

 ブッフ・ブルギニョンやアッシ・パルメンティエを作る発想は悪くない。なぜなら、これら2種類の料理は、一皿ずつ供されるものではなく、ある程度の量を作っておき、分配可能だからだ。どちらも赤ワインに合うし、まだ寒さが残る避難所には適切な献立だと思われる。よく調べてみると、フランス料理の企画は、「在日フランス人シェフ・パティシエの会」の企画だと言う。その会のサイトを覗いてみると、ベルナールやアンドレ・パションの名前があり、彼らが運営の中心にいるらしい。パションさんのスペシャリテであるカスレもふるまわれたのではないだろうか。(http://saku1115-clavicle.blogspot.com/2010/12/blog-post_8745.html)フランス大使館から国外退去勧告がなされ、多くのフランス人たちが、祖国に「逃げ帰った」中で、長く日本に住むシェフたちがいち早く行動したことは評価してよい。ブッフ・ブルギニョンにせよ、アッシ・パルマンティエにせよ、カスレにせよ、東北地方にはマッチングする料理だろう。漁業が再び行われるようになれば、三陸地方はブイヤベースをはじめとする魚介類の一大センターになり、フレンチやイタリアンのレストランばかりではなく、素晴らしいオーベルジュをつくる可能性だってある。たとえば松島にはかつては素敵なホテルもあったけれど、今は思い当たらない。日本三景のひとつで、しかも、海産物に秀でた場所。こんな素晴らしい海浜リゾートは滅多にない。

 テレビの映像は、瓦礫とヘドロで埋まり、ところどころにクルマや船が侵入した平地を見せるが、その向こう側にある海は、黒い壁が迫ってくるような津波の映像とは正反対の、今は、静かで本当に美しい。「ブラタモリ」のCG合成のように、海のこちら側にある被災地の映像を別の何かに置き換えてみよう。どんな映像がいいのか? おそらくそれを夢想してみることが、復旧でも復興でもなく、再生を思考する第一歩かも知れない。この美しい海とリアス式海岸に似合うのは、伝統的な日本の漁村ではない。コート・ダジュールのようなリゾート。ぼくが知っている場所だったら、ヴィル=フランシュのような崖に別荘やホテルが建ち、海岸線にはヨットクラブと漁港があるような……。こんな映像について書くと、不届き者だ!と言われるだろうか? 松島、石巻、気仙沼などの海岸線がこれほど映像に映し出されたことはなかった。伊豆から熱海に通じる国道135号線を通ると、ぼくは、いつもモナコを思い出す。熱海の街に入ると、寂れていて悲しくなる。風景にこんなにポテンシャリティがあるのに、それに溶け込むようなリゾートができないだろうか? もちろん仮設住宅から始まって、産業の再生、街の再創造……いろいろな問題が目白押しなのは分かっている。でも、こんなデスティネイションはどうだろう?

 松島の小さなオーベルジュ。日本三景の海岸を望む小高い丘の上にあるそのオーベルジュの庭で、地元で採れた魚のブイヤベース。ゆっくりと太陽が山陰に入っていく。海は少し向こうにあって、波音が遥かに耳に届く。辛口の白ワインがうまい。きっといつかそんな夏の夕方を迎えてみたい。

 

 

ゆっくりと、ゆっくりと  『東京公園』について

「三郎の、ずっしりした体感を鮮明に思い出し、少しの間くらくらしたが、上を向くと昼の月が出ていて、その月を見ているうちに、自分が三郎を忘れ始めていることがわかってきた。これが、生きながらえるということなのかもしれない、と思いながら、もう一度三郎のことを思い出そうとしたが、すでに三郎は、物語の中のものになってしまっているのであった。」川上弘美、『物語が、始まる』

  

わたしは東京生まれで、東京育ちで、とくに他の街に移り住むことなく、でもこの街を知ろうとすることなく、なんとなくここで暮らしてきた。もちろん、40年も生きてきて、この街が簡単にその姿を変えてきたことも知っているし、そんな中でも変わらずに残っている建物や風景があることも知っている。しかしこの頃、少しずつこの街についてもっと知りたい、と遅まきながらようやく思うようになってきた。それは都市の歴史や建築に興味を持っている夫が道を歩きながら、車に乗りながら話してきた言葉がようやく鈍いわたしの中で響いてきたからかもしれない。あるいは、つい最近、見る機会があった成瀬巳喜男の『限りなき舗道』のお陰かもしれない。舞台となっている銀座のあまりにも躍動的な姿に感動し、こんなに生き生きとしている街の姿がすでにないことが心底悲しく思えた。しかしその銀座は戦後の復興後、再び東京の中心として躍動感を取り戻して行く。それから一ヶ月ぐらいして、たまたま見直した小津安二郎の『秋日和』の銀座を見ながら、わたしはそれを再確認した。情報や知識として分かっていても、目で見ることで、本当にそのことを確認できる、という単純この上ないことが、こんな歳になって、ようやく少しずつわかるようになったのか、と呆れながらも、わたしは成瀬の銀座、小津の銀座、そして今の銀座を重ねていた。しかし映画とはそういうものなのだ。映画とは、そうして決定的な何かを保存させていく。そしてその時間は流れ去って行くのではなく、持続し、共存していく。数日前に『東京公園』を見て、わたしは成瀬の東京、小津の東京とともに、青山真治の東京を重ね合わせた。

 

 『東京公園』によって、青山真治が、これまでの作品と少し異なる方向に進んだと感じる人は多いかもしれない。わたしもたしかにそう感じたのだが、では何をもってそう感じるのか、ストーリーなのか、俳優たちなのか、舞台となる場所なのか。それは何よりも、寄り添う優しさ、いやそこにいるもの、あるものと寄り添う勇気なのではないか、と思った。プレスに掲載されたインタビューの中で、主役の光司を演じる三浦春馬から撮影初日に「僕は急ぎたくないんです」と言われた、と述べる監督の言葉を読む。三浦春馬という俳優のまっすぐで、まさに無垢とよびたくなるその眼差しに寄り添いながら、わたしたちも、彼とともに、「見る」ことの旅をゆっくりと、ゆっくりと、始めていく。

 

 『東京公園』には、見つめ、見つめ返すという行為がしごく単純であり、この上なくかけがえのない行為であることをふと思い起こされるような若いふたりの男女の間の切り返しショットが何度かある。そしてまた後ろから、あるいは斜め後ろからそっと人物をとらえた忘れられないショットがある。大島の荒々しい自然を前にして、嗚咽する義姉の後ろ姿。その小刻みに震える後ろ姿を不安そうに見ているしかなかった光司は、しかしその後、再び絶えきれず涙を流す義姉を、しっかりと見つめ、受け止める。そのとき、わたしたちは、今度は、ゆっくりと、本当にゆっくりと時間をかけて抱き合うふたりの後ろ姿を見守ることになる。その後ろ姿に宿る彼らのそれまでの時間も見る。そしてそれが彼らにとって何かを諦めることであり、何かが始まったことであることも知る。

 

 「見る」こと、それを記録し、保存すること、そこから何かをつくり出すこと。榮倉奈々演じるシネフィルの親友の美優は、「あのね、赤の他人である女性を愛すること、それが社会ってもんです」とお得意の映画ネタを使いながら、光司に人生を説く。まさにひとりの「赤の他人の女性」の存在、ろくでもないこの世界を受け入れて生きる勇気を持つその女性によって、光司は、社会、世界の中に少しずつ入っていく。そして撮る、記録することで何かが作られて行くことを初めて学んでいく。そこには撮られている対象も、撮っている対象も記録され、何かが切り取られ、選択され、創造されていくことを。そしてそれはまさに映画の仕事でもある。

 

 人は、村は、街は、世界は、いろいろなものを失っていく。失われたものは徐々にその形さえ残さず、消えていってしまうかもしれない。でも人は、それらのことを忘れながらも、それらと共に生き続ける。そして映画は、保存という創造行為によってそのことをわたしたちに教え続けてくれるだろう。『東京公園』がゆっくりと、優しくそうしてくれたように。

 

東北の、仙台の友人たちへ アルノー・デプレシャン

 

仙台のある映画館では、地震発生時に『クリスマス・ストーリー』が上映されていた。そのことをムヴィオラの武井さんからお聞きし、アルノーに伝えた。そして東北の映画館のネットワークの皆さんが、これからまた上映活動が始められるように、励ましのメッセージをもらった。 

 

親愛なる東北のみなさん、

仙台を地震が襲ったとき、『クリスマス・ストーリー』が上映されていたなんて! 配給会社のムヴィオラ代表、武井みゆきさんから観客の方、スタッフの方、みなさんがご無事だったと聞くことができました。映画館が避難場所のような場所であってほしいと常々願っており、毛布に温かく包まりながら、懐中電灯で自分たちの恐怖や欲望を映し出すような場所であると思っている僕にとって、なんだか目がくらむような出来事です!

親愛なる東北のみなさん、仙台のみなさん、そしてムヴィオラのスタッフのみなさん、僕は、毎日、この脆弱で、儚い世界を目にして、あなた方が私にとってどれほど大切であるか感じています。

いつか、夏の夕べ、東京、あるいは仙台の芝生の上で、あなた方の隣に座り、野外に設置された大きなスクリーンで日本の映画を見たいです。友人の坂本安美さんが耳元でそっと通訳してくれるでしょう。

そして日本のビールを飲みたい。

そして、そして、亡くなった方々を想いながら、僕は、あなた方と涙を流すでしょう。

 

2011年3月23日(月)

アルノー・デプレシャン

 

 

青山真治への手紙

 2011年3月23

 

 青山、俺を泣かせないでくれよ!

 『東京公園』を試写で見た。まだ緑豊かな代々木公園の中でカメラを構える三浦春馬。コンタックスのアナログ・カメラのレンズが向けられる先に、乳母車を押しながらスックと歩く井川遙。初めて青山と組む月永雄太のキャメラが捉える空間を目にしただけで、このフィルムが備えている無限大の力を感じる。秋の代々木公園を背景にモノクロの写真がたくさん並べられてスクリーンを被っていく。すごく奇麗だ。試写が始まる前に読んでいたプレスシートに青山のインタヴューが載っていて、『シルビアのいる街で』を観て、自分もこういう作品がやってみたいな、と言っている。ここまで見ただけでも『シルビアのいる街で』よりもずっといいよ。だって『シルビアのいる街で』は、映っている映像が、まるで映画作家の心象風景に見えたけど、この映画の映像は心象風景じゃない。代々木公園という外部と、乳母車を押す井川遙という外部がきっちりと映像に収められている。小路幸也の原作(読んでいない。明日、本屋に寄って買うつもりです)のラストには『フォロー・ミー』に捧ぐ、とあるらしい。トポールが、ロンドンの街をさまようミア・ファーローを尾行する映画だ。だが、トポールは、だんだん身を隠して尾行するのをやめ、ミア・ファーローを追い越して、彼女にロンドンの街を発見させようとする。

 確か中学生のころだったか、私立探偵のことをprivate detectiveというのだけれど、private eyeともいうと習ったと思う。「私的な目」、なるほど「私立探偵」にふさわしいなとも思った。だってみんなが見ているものと、ちょっと異なる自分だけの標的を見ているわけだ。尾行という仕事について、こんなに適切な表現はない。

 ずっと後になって演劇史を勉強していた大学院生のぼくは、フランス演劇が専攻のくせに、指導されていた安堂信也さんの差し金で現代イギリス演劇の授業を取るように言われた。担当していたのは東京女子大から非常勤で来ていたコールグローヴ先生だった。ぼくの他にその授業を取っていたのは、全員英文科の大学院生で、授業も英語でやっていた。毎週シェイクスピアの戯曲を1本ずつ英語で読んできて、それをピランデルロ、イプセンやストリンドベリと比べたり、同時代のジョン・フォード(映画の人じゃない方)やクリストファー・マーローたちと一緒に読んだりする授業で、大変だったけどすごく面白かった。「ヨウイチ、キミハサッキカラchangementチェインジメントトイッテイルガ、ソレハフランスゴデ、エイゴデハchangeダケデイイノダ」などと、とりあえず英語だろうとフランス語だろうと知っている外国語を全部ごちゃ混ぜに喋る変な奴がぼくで、英文科の諸氏からは物笑いの種だったろうが、ぼくなりに必死だったんです。

 書きたいのは、ぼくのおバカな大学院生活なんてものじゃなく、そのコールグローヴ先生の授業で、ある回に、Peter Shafferって人のPublic Eyeという戯曲を読んでこいという宿題が出たことだ。「センセイ、ソレハマチガイデハナイデスカ? ソレハPrivate Eyeデアッテ、Public Eyeナンテヒョウゲンハナイノデス」とウメモトくんは中学の時に偶然知ったに過ぎない知識をおバカなことにアメリカ人の英米演劇の大家の前でひけらかしたのでした。おお恥ずかしい!コールグローヴ先生は、寛大な人で、「ヨクソンナヒョウゲンヲシッテイルナ! デモ、コノギキョクハPublic Eyeナノダ。Private Eyeノヒョウセツナノジャ。ダカラ、Shafferガ、Private Eyeトイワズニ、Public Eyeトヨンダリユウヲ、カンガエテキタマエ」と仰った。ぼくは紀伊国屋の洋書コーナーに走って、ピーター・シェイファーの戯曲集を手に入れ、早速、この一幕物を読んだ。知っている話だった。なんだ、これ『フォロー・ミー』じゃん。トポールが探偵で、ミア・ファーローが暇でロンドンに馴染めないアメリカ人の人妻役立ったやつ。トポールは、妻の浮気を疑った、ファーローの夫に妻の尾行を頼まれるのだが、ある日、役柄が入れ替わり、トポールの後をファーローがついていくというもの。映画と戯曲ではいくつか差異があった。それはともあれ映画は1972年、そしてこの戯曲のロンドン初演は1962年。ファーローの役を舞台で演じたのは若い日のマギー・スミスだった。

 コール先生(当時、彼のことをみんなそう呼んでいた)の宿題について考えてみた。もちろん探偵は当初Private Eyeとして姿を現さないのだが、ある時から決心して姿を現すことにする。だからPublic Eyeになった、みんなに見える存在になった、というのが正解だろうし、もともとPublic Eyeは2部作で、他方はPrivate Earというタイトルで、共にマギー・スミスが演じていた。でも、そんな解答じゃ単純すぎる。もっと良い答はないのか? 舞台版じゃちょっと分からないけれど、映画版だと、トポールが姿を現してPublic Eyeになった瞬間から、ロンドンの街全体が見えるようになる。私的な空間から、とても広い大きな空間へと映画が変わっていく。つまり、風景が私的な心象風景から、もっと広くて多くの人たちを同時に包み込むようなものに変容して、その中で、人々もまた変わっていく。だからPublic Eyeになるんじゃないか。といったようなことを、つたない英語で述べたぼくはコール先生にちょっと誉められて有頂天。おお恥ずかしい!

 青山、俺を泣かせないでくれよ!

 三浦春馬の義理の姉を演じる小西真奈美がいい。阪本順治の『行きずりの街』の彼女も良かったけれども、この映画ではもっといい。一緒に見ていたNobodyの高木佑介は、あんな女性に人生をめちゃくちゃにされたい、と言っていた。男なら、みんなそう思うかも知れない。大島の絶壁を正面に見据えて涙を流す彼女の横顔が良い。「姉さんを撮りたい」という三浦春馬に、「化粧をしてくる」と言って、メゾネットの上階に上がり、再び降りてきて、こちらを見据える彼女にぞくぞくする。振り向く彼女の眼差し。ファイダーを通じて小西を正面から見据え、しばらくして、ファインダー越しではなく、生身の眼差しで彼女を見つめ、その三浦春馬を見つめ返す小西真奈美がすごくいい。決定的な瞬間を携えて、そして、それを乗り越えて、並んでソファに座るふたりの眼差しが良い。

 それにしても、青山、いつから女性をこんなに美しく撮れるようになったんだ? 今までは、どちらかと言えば、浅野忠信、光石研などの男性を素敵に撮ることに秀でていたけれども(もちろん、『月の砂漠』のとよた真帆や『サッドヴァケイション』の板谷由夏という例外はあった)このフィルムに登場する主要な三人の女性──小西真奈美、榮倉奈々、井川遥──の姿を最高に美しくフィルムに残せただけで、この映画は大成功だ。まるで成瀬巳喜男のように……否、ちょっと違う。このフィルムの中の榮倉奈々はすごいシネフィルで、いろんなことを映画の比喩で表現するんだが、『東京公園』を考えると、どうも映画の比喩がピンと来ない。

 確かにこの映画は最初の方こそ、ちょっと複雑な物語を、適切なモンタージュで語りながら、映画が繋がっていくのだが、次第にモンタージュの力よりも、ショットそのものの力とショットの内部にいる俳優や女優たちの力の方が大きくなっていき、だんだん長いショットが増えてくるようだ。台詞だって、最初は不自然に聞こえていたけれども、少しずつ不自然さが感じられなくなり、あえて不自然な台詞を自然に語る語り口が記憶に残るようになる。多くは順撮りで撮影されたそうだが、最初は勝っていた編集による映画の論理が、ゆっくりと俳優、女優の論理に場所を明け渡し、最後には、風景の中にいる俳優たちを見つめながら、彼の言葉に耳を傾けているぼくらがいる。三浦春馬と一緒に彼のバイト先の店長を演じる宇梶剛士の話に一緒に耳を傾けるぼくらがいる。

 榮倉奈々の演技はどうだ! 三浦春馬に救いを求めて、彼の家にやってくるシーンを涙なしで見つめることのできる人などいないだろう。ぼくらもまた、三浦春馬と一緒に彼女を静かに受け入れようと思う。目の前にいて、変わっていく人たちをしっかり正面から見つめ、彼ら、彼女らの変化を、しずかに肯定して受け止めようとするぼくらがいる。おそらく、これは映画監督の眼差しと同じかも知れない。否、映画監督の眼差しばかりではないだろう。人と風景の前に立って、その微細な変化をも見逃さない繊細な眼差し。

 おそらく、こうした論理は映画だけの論理を越えている。素晴らしい映画とは、映画だけの論理を越えて、常に別の何かと結びつき、映画の領域を広げてくれるものだ。青山真治の次の仕事は舞台演出だと言う。この映画を見ていると、彼が次第に舞台演出に接近する様を見ているようだ。 

 それにしても、このフィルムを見ていて、ぼくはいっぱい涙を流してしまった。青山、ありがとね。舞台も期待しているよ。

 

アルノー・デプレシャンからのメッセージ

3月17日の朝、アルノーから日本の皆さんへのメッセージを受け取る。以下に訳させて頂きます。

「地震が起きたその日、日本の皆さんが瓦礫の下敷きになってはいまいか、と恐怖におびえていました。友人のみなさん、建物の下になどいないでしょうか?
翌日、津波が押し寄せ、あなた方やご家族の皆さんが波にさらわれてしまうのではないかと恐れていました。友人のみなさん、あなた方は海から離れたところに住んでいるでしょうか?
今晩、福島第一原発から出ている煙を見て、放射線があなた方の身に危険を及ぼすのではないかと不安でいます。そして何千人という方々が被災地で食べ物もなく、寒さに震えていることに心を痛めました。
フランスの新聞では、日本の皆さんが日常を取り戻し始めていると報道しています。でも、私は、まだ茫然自失したままでいます。
10本、20本、いや100本以上の日本映画作品が頭の中に次々と浮かんできます。それらの作品を見て驚き、感動したその思いによって、あなた方と心をひとつにし、ともにいることができます

今朝、私は再び、日本の皆さんのことを心配に思いながら目を覚ましました。自分の人生にとって、あなた方、日本がいかに大切な存在であるのか、気づかされました。あなた方は、私を、私の作品を受け入れてくれた。今、私はそのあなた方に伝えられるのにふさわしい言葉をみつけられずにいます」。

 何度も、何度も書き直し、途方にくれながらも、とにかくまずこの言葉を、と送ってくれました。
ありがとう、アルノー、あなたの作品もどんなに私たちを励まし、勇気づけてくれてきたか。
新作を心から楽しみにしています。