すべて

Smile by Elvis Costello

2011316

 

 『ヒアアフター』が上映中止になったという。もちろん東北関東大震災の影響だ。『ヒアアフター』のサイトには、「本編内には本震災を連想させる内容があり、この度の震災被害の被害状況を鑑み、上映を中止することにしました」とある。(http://wwws.warnerbros.co.jp/hereafter/news/)こうした自粛は、自粛の連鎖ででもあるかのようにいろいろな場面で見られる。樋口泰人のように急いで劇場に駆けつけ、もう一度『ヒアアフター』を見る律儀な態度が正しい態度だと言えるだろう。(http://www.boid-s.com/archives/2615887.html)樋口泰人も書くとおり、このフィルムは「事後」の映画であって、まさしく、震災に被災し、死に対面した人たちのこれからが語られている。人と人とが、大きな災禍の後、どうやって結びついていくのかこそ、この映画そのものであり、そして、今、被災地にいる人たち、そしてぼくらの現在と未来である。

 このフィルムを見たばかりのぼくにとって、ここ数日、テレビで放映される映像は奇妙に既視感のあるものだった。『十戒』をはじめ海が真っ二つに砕けるような映像は、「映画で」何度も見たことがあったからだ。もちろん南三陸市や宮古市を襲う津波の映像は、『ヒアアフター』の冒頭の映像よりも凄かった。当たり前のことだが、未曾有の津波の大きさは、プロフェッショナルが撮影したものでなくても、視聴者撮影の映像でも十二分に伝わってきた。避難所にいる老婦人も瓦礫の山を前にして、まるで戦争映画の戦後の映像を見ているようだ、と語っていた。戦争も津波の体験したことのないぼくらは、現実に起こった周囲の出来事に既視感を感じるとき、「まるで映画のようだ」と嘆息する。映画を現実を測る基準にしてしまう。「映画のように」世界を見てしまう。セルジュ・ダネーがずっと前から語っていることだ。

 「事後」ではなく「渦中」の映像は、徹底して物語を欠いている。信じがたいくらいの大きな波が押し寄せて、有無を言わせず、すべてを呑み込んでいく。視聴者の撮影したそうした映像の背後には、事象を解説する物語などない。怒声や叫声、言葉にならない音声──それらも津波の怒号のような大音響にかき消されていくだけだ。そんな物語を欠いた悲惨な映像を「我欲が招いた天罰だ」と解説する知事が、ぼくらの東京の代表者であることを、ぼくは心から恥ずかしく思う。一度、口に出した言葉は撤回しようが謝罪しようが元に戻るものではない。まして、ぼくらは彼の口からそんな言葉が出るのに呆れてしまうと同時に、彼ならばそんなことを考えているのだろう、と納得してしまう。しかし納得してはいけないのだ。彼が立候補を表明した日に地震と津波が起こった。4月10日が東京都知事選挙であることをぜったいに忘れないでおこう。

 悲嘆、哀惜……そんな言葉ばかりが気になる。ぼくの知人のスポーツライターは気仙沼出身だが、まだ近親者の安否が分からず涙する場面が映る。阪神大震災のときもそうだったが、直接ではないけれども、知人から少し辿れば、被災している方々の固有名に行き着く。ぼくの知人の妹さんの安否が分からないでいるわけだ。南三陸市、陸前高田市、宮古市、気仙沼市、大船渡市、そして釜石市……人人との関係は連鎖していく。テレビのモニターの向こう側で「重油が足りません。ガソリンがありません」と訴える人たちとも、ぼくらは関係を持っていることになる。そして、地震と津波が発生してから5日目。乾パンと水でもつのは2日、カップ麺でもつのは5日という中井久夫の言葉を読んだばかりだ。彼は1週間すると美味しい食事をしないと精神的に苦しいと書いていた。被災地で公民館に集まり、小さなコミュニティを作り、いろいろなものを持ち寄って自主的に食事を作っている人たちが報道されていた。瓦礫を燃料に、鍋を乗せ、暖かい味噌汁とごはんが美味しそうだった。「箸一本もなくなった。残ったのは命だけ」と険しい顔を向ける老婆と、おばさんたちが作った味噌汁とごはんをいただき、優しい笑顔を向ける消防団のおじさんたちは対照的だった。

 そう、その地震から、津波から5日間経過した。避難所の生活の苦痛を訴える人々の背後で、互いをつつき合いからかい合い、ジャンケンを始める子どもたちの映像が見え始めた。会津若松市で放射能測定をし、被曝していないことを確認して「安心しました」と語る父親の両側で、父親の手を片手で握り、もう片方の手で、微笑みながらVサインを出し続ける男の子のやんちゃそうな兄弟が映っている。『ヒアアフター』の冒頭から、映画は、アッバス・キアロスタミの『そして人生は続く』に移ってきたようだ。被災者たちは、丘の上に大きなアンテナを立てて、W杯の中継を聴こうとしていた。被災している人々だって、W杯のフットボールの実況を聴くことで、別の世界と繋がっている。周りには確かに多くの死があった。けれども水は少しずつ引いていった。瓦礫の間を、細い道路が通うようになった。もうカップ麺はつまらない。暖かいご飯を美味しいおかずと味噌の香りが漂う味噌汁が欲しくなる。フットボールはどうなっているんだろう?長友は元気かな?インテルは自粛なんてしていなかった。腕に黒い喪章は巻いていたけど、精一杯のゲームをしていた。「少しでも元気を与えることがぼくの仕事ですから」と長友佑都は微笑んでいた。「がんばろう!神戸」と書かれたヘルメットを被ってバットを振り続けたオリックス時代のイチローを思い出す。スマイル!

 朝、勤務先へ向かうクルマの中で聴くラジオから、エルヴィス・コステロが唄う『スマイル』が流れてきた。「スマイル/君のハートが痛んでいても/スマイル/君のハートが壊れかけていても(……)/スマイル/泣いていてなんになるだろう/君が微笑みさえすれば/人生にはまだ価値があるって分かるだろう」とても単純な歌詞だ。でも、いい唄だった。

 

「引き裂かれた交響曲」の物語

 スタジオ・マラパルテの宮岡秀行さん、西原多朱さん、そして大里俊晴さんのご協力のもと、nobody issue25にて「リュック・フェラーリを探して」と題した「リュック・フェラーリ映画祭・アンコール」についての小特集を組ませて頂いたのは2007年のことだったけれども、つい先日、その取材の際にほんの少しだけ挨拶させて頂いた、ブリュンヒルト・マイヤー・フェラーリさんに再会する機会があった。それは椎名亮輔さんに邦訳された『ほとんど何もない』の著者、ジャクリーヌ・コーさんによるフェラーリの楽曲「Symphony dechirée(引き裂かれた交響曲)」を題材とした劇映画、『Contes de Symphony Dechirée』の試写会でのこと。2007年の取材後、お礼を兼ねて少しだけブリュンヒルトさんにメールで連絡を取ってからというもの、時折思い出しように彼女の署名入りのメーリングリストが届いていた。2009年にフェラーリの10枚組電子音響作品集がリリースされていたことは記憶に新しいけれども、その後のいくつかの作品リリースのこと、あるいはフェラーリにまつわる(行けるはずもなかった)様々な場所で行われるイベントの等々……。今回の試写会もそのメーリングリストによって告知されていたものだ。メールの送られてくるアカウントは、ここ最近あまりマメに確認しないようになってしまっていたため、もう少し気づくのが遅れていたら……と、少し反省。

 上映時間の20分ほど前に会場となったアトリエに到着するも、エントランスのそれほど広くないスペースには、ブリュンヒルトさんやジャクリーヌ・コーさんの知人らしき人々がたくさん詰めかけている。ちょっと物怖じしてアトリエの前で佇んでいると、入り口近くにいたとりわけ明るい声色で話をしていた女性に「映画を見に来てくれたのかしら?どうぞ中へ入って!」と声をかけられる。その声の主がジャクリーヌ・コーさんその人であると知ったのは、上映直前の挨拶のときのことだった。大里さんへの追悼文集『役立たずの彼方に』には、ブリュンヒルトさんによる美しい手紙が納められている。短めの金髪に色鮮やかなファッションを軽やかに着こなすブリュンヒルトさんは、その言葉に滲む人柄と寸分違わない本当に清々しく優しい方だ。上映を待つロビーで彼女の姿を見かける。おそるおそる「こんばんわ、すみません、ブリュンヒルト・フェラーリさんでしょうか」と尋ねると、「ええそうよ」と満面の笑顔で答えを頂く。そこから、ほんの少しだけお話を交わした。取材のときのこと、大里さんのこと、追悼文集のこと……。詳しいことは覚えていないけれども、とても嬉しい気持ちになった。

 さて、この日上映されたジャクリーヌ・コーさんの映画は、そのタイトル通りリュック・フェラーリの楽曲、「引き裂かれた交響曲」を主題、否、素材としたものだ。「引き裂かれた交響曲」の実際の演奏の様子を撮影した映像をその基盤に置いている(この映像作品は日本でも2009年に同志社女子大学にてジャクリーヌ・コーさんの講演とともに上映されていたようだ)。フェラーリのこの楽曲はおそらく初めて耳にしたためあまりはっきりとしたことは言えないけれども、様々なオーケストラ楽器が用いられながらも、決して「ひとつ」のハーモニーに収束しないような様々な響きが遊び合い(弦を擦るようなノイズが特に印象的だった)、静と動の中間のグラデーションをつねに維持し続けている、そんな楽曲だった。そしてそこから二次的に生み出されたこのフィルムもまた、そんな曖昧なグラデーションを生み出すような運動の内部にある。

 決して広くはないホールの中で、ひとりひとりの演奏者の隙間を縫うようなキャメラワークによって捉えられた演奏風景。そこにまったく別種の映像が折り重なっていく。田舎の一軒家にヴァカンスに訪れたと思しき5人の女の子たち、その彼女たちの奔放な運動が被写体の中心だ。彼女たちは、もちろん台詞も何もなく、その自然に溢れた空間で自らの身体を躍動させ、晒け出す。ジャック・ロジェの『オルエットの方へ』を思い出さずにはいられない要素の数々だが、しかし実際そこに完成した映画はまったく別の趣を有している。というのもジャクリーヌ・コー曰く、「フェラーリ的な方法によって撮られた」というこのフィルムでは、一切の台詞も同時録音の音響もなく、「引き裂かれた交響曲」のサウンドトラックだけが音声的な側面を占有しているからだ。その上で、監督による「フェラーリ的」なる表現をどう捉えるか。

 その最も明瞭な痕跡は、かつての大里さんの言葉を借りれば「俗っぽいエロティシズム」と言えるものになるだろう。序盤のワンシーンでは、裸の女性と服を着た男性が池の前に座り込む様子がフィックスで捉えられている。これはもちろんモネの「草上の昼食」のパロディだが、このシークエンスの瑞々しさには、ジャン・ルノワールの『草の上の昼食』(あるいは『ピクニック』)を、同時にパロディの対象とするかのような野心が滲んでいるように見えた。こうした試みを、一種の「悪ふざけ」だと見なす向きもあるのかもしれない。でも、そんな「悪ふざけ」への真摯で激烈な態度こそ、リュック・フェラーリという音楽家が実践した、命がけの創造行為の一端であったのではないか。フォンテーヌ・ブロー派の絵画に対する彼のパロディを思い出してもいい。つまり、ある種の俗悪なるものを崇高なるものの隣に、当然のようにふと並ばせてみせることがそれだ。

 だからジャクリーヌ・コーのこのフィルムは、その意味でいわゆる「ミュージック・ヴィデオ」的であるとも言えるし、そうでないとも言える。音に由来するある種のステレオタイプなイメージの積み重なりの中に、ふと垣間見えるまったく別種のミニマルなイメージ。厳かで静かな教会の内部を、アスレチックを楽しむ子供たちのように動き回る女たちの歩み(加藤直輝監督の『渚にて』を思い出す)。窓ガラスに押し付けられた皮膚の歪みの生み出すマーブル。

 そういった種々の映像と、フェラーリの作曲した楽曲、そのふたつによる二重奏が時に絡み合い、時に不協和音を生み出す。かつて目にしたジャクリーヌ・コーさんによるフェラーリのドキュメンタリーは、良くも悪くもごく形式的なドキュメンタリーの枠をはみ出さないものであるように感じてしまったが、今回の作品にはそれを遥かに超える冒険が詰め込まれているように思えた。本当に面白かった。ブリュンヒルトさんとコーさんによれば、どうやらこのフィルムは日本でも上映される計画があるらしい。その際には是非どうか、たくさんの方に目にしてもらいたい。

久しぶりに『秋日和』を見た

3月7日

 

 移動中の電車や地下鉄の中、眠りにつく前のベッドで、ずっと池波正太郎の『銀座日記』を読んでいた。池波正太郎の時代小説は一作も読んだことがない。だが、グルメ雑誌で「作家の愛した店」などが特集されるたびに、この人の名前が目に入るし、池波正太郎の弟子に当たる佐藤隆介の『池波正太郎の食まんだら』(新潮文庫)も最近読んだので、その続きで、本家本元の『銀座日記』を読むことにした。

 とても哀しい本だった。新富寿司、与志乃といった寿司屋、山の上ホテルにある天ぷら「山の上」、神保町の揚子江菜館、日比谷の慶楽……試写に通い、買い物をする傍ら、ひとりで入った店々が記されている。もちろん「うまい」だろうし、「うまそう」だ。だが、ひどく哀しい。なぜか。

 『銀座日記』は1983年から88年の間に、煉瓦亭やみかわやの入口に置いてある、あのタウン誌「銀座百点」に連載されたものに「新銀座日記」が加わり、新潮文庫版『池波正太郎の銀座日記』(全)となって出版されたものだ。日記である限り、すべては○月○日で始められているが、○に数字は入っていない。ある月のある日だ。読者は、暑いとか雪が降るとか書かれていることから、○の中に適当な数字を放り込むしかない。試写会で映画を見て──『銀座日記』が執筆されている頃、ぼくはもう映画批評を始めていたので、池波正太郎と同じ日に同じ映画を見ていることもあった──、銀座に出たついでに溜まった買い物をし、夜になるとメシを食う。それだけのことが書かれている。もちろん、毎年2〜3度は、お茶の水の山の上ホテル(「作家のホテル」として有名。昔は、缶詰になって書かされるのは決まって山の上ホテルだったという)に連泊することもあるし、行き先が神谷町にある試写室だったりすると、食べ物も銀座ではなく、虎ノ門と神谷町の間にある著名なそば屋だったりもする。つまり、書かれていることはそれだけなのだ。

 極めつきの単調さがこの日記の特長だ。池波正太郎は、膨大な数の作品を残した「小説職人」なのだから、銀座に出ずに、家に籠もって執筆だけする日もあったろうし、もちろん「銀座百点」に連載されていたのだから、銀座に行った日だけを記述しているのだろうが、新宿や渋谷や池袋には赴いた気配が感じられない。そして、何よりも単調さを際立たせているのは、食べに行く店を新に開拓しないことだ。常に同じ店に赴き、同じものを食べている。

 誰だって街に出るとそんな単調さを逃れることはなかなかできない。池波正太郎の『銀座日記』を単調だ、と断定するぼくもまた、試写等で銀座に出ると、必ず慶楽か三州屋で昼飯を食ってしまう。昼飯を食って、映画を見た後、MUJIの有楽町店を覗いて、Banana Republicに行って、ついでにその前にあるUnited ArrowsJournal Standardに寄ることもあるけれども、「食べログ」を前日に入念に観察し、ブログまで読み込んだり、ブティックからバーゲンのDMが届かなければ、けっこう同じ店を周遊してしまう。だから、きっと池波正太郎ではなく、ぼくが「銀座日記」を書いても、ひどく単調な内容になるだろう。人間って変わっていくのは難しい動物なんだな。昼食をとるためには信じがたい数の店があっても、結局は同じ店に入ってしまう。次は新たな店に入ろうと思っていても、不味かったらやばいよな、せっかく近くまで来ているんだから、と考え直して、慶楽で炒飯ランチを注文したり、三州屋でミックスフライを注文したりしてしまう。

 だが『銀座日記』がひたすら哀しいのは、その単調さによってのことではない。むしろ単調さは、保守的ではあっても、つまり日常を勇気を持って変えていくのではなく、既知の日常を反復するという意味ので保守的ではあっても、それは哀しいことではない。哀しいのは、その単調さを反復することができなくなることだ。

 かつて、おいしく食べられたものが、身体に入らなくなり、否、身体が受け付けなくなり、身体的な衰えによって、保守的な反復が次第に不可能になっていくこと。哀しいのはそのことだ。かつては容易に可能だったことが、だんだんできなくなっていき、疲労を感じるのが早くなり、タクシーで帰宅するのが自然だと感じられるようになる。おそらくそれを老いというのだろう。まず、洋食屋に入ってフライをつまみにビールを飲んでから、仕上げにハヤシライスを食べるなんてことができなくなり、酒量が次第に減り始め、酒そのものを身体が受け付けなくなっていく。老いていくとはそういうことだ。『銀座日記』は、だから、池波正太郎の『老いの日記』でもあるだろう。

 久しぶりに小津安二郎の『秋日和』を見た。久しぶりと言っても半年ぶりくらいだ。妻がアンチヘブリンガンって覚えてる?と聞くので「なにそれ?」「『秋日和』で出てくるらしいよ。何度も見てるんでしょ!」ということで、確かめることになったからだ。ぜんぜん覚えてなかった。DVD(持ってるんだ!)をセットして、いかにもこの映画はカラーですよ!って強調するみたいに「秋日和」の「秋」だけが、赤い字で書かれている。キャスト、スタッフ、そして「監督 小津安二郎」の文字でもうKO!次の青空に東京タワーでもうダメ。涙で潤んで見えない……。そうか、アンチヘブリンガンってここか。覚えてなかったな。それにしても、東京タワーはいいなあ。スカイツリーばかりが話題の昨今、東京はやはり東京タワーでしょう!「むかしパリで一緒に見たときも、この辺りでもう泣いていたよね」

 「秋日和」のタイトルで「秋」が赤い字で書かれていて、快晴の空に東京タワーがすっくと立っているだけで泣けてくるのは、しょうがないことだ。避けられない。パブロフの犬と同じような反応だ。初めてこの映画を見たときは、この映画の司葉子よりも若いときだった。原節子の爪とマニキュアばかりが気になった。そして年月が流れて、今では、このフィルムに登場する、お馬鹿な中年三羽がらす(佐分利信、中村伸郎、北竜二)と同じ年代になった。なんとうことだろう。このフィルムを初めて見てからもう30年以上経ったということだ。それにしても、なんということだろう。このフィルムに映っている東京の若々しさは! 丸ビル、東京中央郵便局、赤い無数の郵便自動車、その向こう側の高架を走っていく湘南電車、それに向かって手を振る司葉子と岡田茉莉子。太平洋戦争が終わり、東京オリンピックをすぐ先に見据えた若い東京がある。そして、小津安二郎は、このフィルムで、彼が戦前に数多く撮った岡田時彦の娘と出会い、彼女を「お嬢さん」と呼ぶ……。そして、なんということだろう。小津は、この後、『秋刀魚の味』を撮って、この世を去る。彼にも、まちがいなく老いが迫ってきている。このフィルムの佐分利信や中村伸郎や北竜二の年齢がちょうど当時の小津の年齢。つまり、ぼくの年齢。老いの迫った小津の見る東京の若さ。それが『秋日和』だ。

 老いをドキュメントした池波正太郎の『銀座日記』の対極に、自らの老いを感じながらも、それを笑い飛ばし、ひたすら東京の若さを見つめた小津安二郎がいる。

 

ヴェルナー・シュレーター/フィリップ・ガレル :死を恐れなかった人/死とともに生きた人

 12月の初旬から先月にかけて、パリのポンピゥーセンターでヴェルナー・シュレーターのレトロスペクティブが開催されていた。パリでは2回目ということだけれど、ここまで大規模な回顧展は初めてとのことだ。このイベントにあわせて、フィリップ・アズーリによるシュレーター本(『À Werner Schroeter, qui n'avait pas peur de la mort』)が発売され、フランスでも初!のシュレーターの写真展、舞台設計家あり衣装デザイナーでもあったAlberte Barsacqの展覧会も行われた。上映の際の豪華なゲストーーイザベル・ユペール、ビュル・オジエ、カロリーヌ・ブーケ、イングリッド・カーヴェン・・の登壇もあり、チケット売り出し後、数10分で完売してしまうという回も珍しくはなかった。  

 レトロスペクティブの初日を飾ったのは『La Mort de Maria Maribran』(1971)。華美な衣装、顔の造作をかき消してしまうほどに濃厚にほどこされたメイク、絶えることなく響くマリア・カラスの歌声……顔、顔、顔。最初からその過剰さに圧倒されてしまった。正直に言ってしまうと、パリに来るまでシュレーターの作品を数本しか体験したことはなかった。六十年代から七十年代の作品に関してはほぼ皆無…でも、長い間、ヴェルナー・シュレーターという固有名は私にとって重要な位置を占めていた。今回の特集上映で残念ながら抜粋という形でしか上映されなかった『芸術省』(1988)(フィリップ・ガレル)への出演ーーユスターシュにオマージュを捧げるという名目で制作され、ヌーヴェルヴァーグ以後、ガレルが70年代の作家と呼ぶ映画監督たちが、『ママと娼婦』について、映画制作がいかに困難であるかを語るドキュメンタリーー。日本で何度かこのドキュメンタリーを見る機会を得られたものの、なぜ彼があえてシュレーターを『芸術省』に迎えたのか、数少ない作品からその答えを見つけることは難しかった。だが同時に「70年代の作家たち」という枠組みで語るには、ガレルがだいぶ特殊な立場にある作家だという意識もあった。当時、彼は〈アンダーグラウンドの時代、あるいはニコの時代〉つまり、商業性とは無縁の彼方にいたからだ。これはガレルによって〈70年代作家たち〉とよばれる監督たちとの大きな違いだろう。

 しかしながら、今、ガレルよって選ばれた70年代の作家たちーージャック・ドワイヨン、ブノワ・ジャコー、アンドレ・テシネ、シャンタル・アケルマンーーの誰よりも、彼はおそらく、ヴェルナー・シュレーターに共振していたのではないかという気がしている。たとえば、シュレーターの初期の短編『Maria callas portrat』(1968)『Mona lisa』(1968)『Maria callas singt1957 rezitativ und arie』(1968)を見れば、彼が実験映画から大きな影響を受けていることがわかる。2002年、『Deux』の公開に際してのカイエのインタヴューで、シュレーター自身、はっきりと実験映画作家であるグレゴリー・マルコポーロに影響され映画を撮り始めたこと、シュルレアリズムへの傾倒していたことを語っているだろう。ガレルもまた、ウォーホルに強い影響を受け、Zanzibarに所属し『集中』(1968)『現像液』(1968)『処女の寝台』(1969)を、70年代以後は、ニコと8本の映画を制作した。

 シュレーターの作品は、モノクロでかつ〈無口な〉と形容されたガレルのフィルムとは一見対照的なものとして映るかもしれない。だが、1968年からキャリアをスタートした彼と14歳で処女作を撮ったガレル、出発点の違いはあれど、68年5月以後、とりわけ70年代、通底しているのは同じ感覚のように思える。ミューズを巡って映画を撮ることーーマグダレーナ・モンテズマは、ガレルにとっての二コだ。彼女たちの顔に向かい合い、まったく時代、時間感覚を失った空間で親密さとともに恐ろしいほどの冷酷さを秘めたカメラの前に彼女たちを晒すこと。表現の仕方は異なるにせよ、彼らは同じ方向に向かっていたように見える。そして、70年代の終わり『Le Règne de Naples 』(1978)ーーガレルがシュレーター作品でもっとも美しいと賞賛した作品ーーで、シュレーターは、『秘密の子供』(1979)と『自由、夜』(1983)の混血のような作品を生み出す。自身の生きた時間に帰還しつつ、自身の生きていない時間を映画において生きること。シュレーターはこの作品で、商業映画の世界に降りてくる。そう、そして、まさに時を同じくしてガレルは彼にとって商業映画デビュー作となる『秘密の子供』を制作していた…それは偶然ではないだろう。『Le Règne de Naples 』の上映当日、上映30分以上前から出来た長蛇の列に、フィリップ・ガレルの姿があったことを書き記しておく。

Brune/Bronde

 今こちらではシネマテーク・フランセーズではヒッチコックのレトロスペクティヴが行われている。都合が合わず見逃した作品も多いので詳細は記せないが、今回は前回の記事と時系列が前後してしまうが、こちらで生活を始めたときのことを記しておこうと思う。

 パリに来てまず目に入ったのは街の至る所に張られた金髪ペネロペ・クルスのポスターだった。『抱擁のかけら』の金髪のウイッグを被ったペネロペ・クルスの下に『Brune/Blonde』と書かれたポスターは、シネマテークで行われる映画における「女性の髪」に関する展覧会のものであった。膨大なコレクションを誇り、毎日魅力的なプログラムを提供してくれるこの施設ではその時、ルビッチのレトロスペクティヴの最中だったが、上映会場の上階にある展覧会へと向かった。

 企画者であるアラン・ベルガラはインタビューにおいて、この企画は個人的な好みとある種の驚きから企画に取り組み始めたと語っている。個人的な好みはさて置き、彼が言うところのある種の驚きというのは、「女性の髪」というモティーフを主題として扱った本が絵画の文脈でも、映画の文脈においてもないことに対する驚きだとベルガラは言う。映画におけるモチーフの扱い方に関しては、昨年、東京日仏学院にてドミニク・パイーニが映画の中の「雲」という興味深い講演をしていたし、それについて書かれた本も刊行されいる。また、映画研究者ニコール・ブルネーズはルンペンプロレタリアをモチーフとしたアヴァンギャルド映画の取り扱い方に関する本もあり、映画におけるモチーフの扱い方の変遷についての議論はこちらでは盛んになされているようだ。

 さて、『Brune/Blonde』に戻ろう。この企画展では6つのテーマ(神話、女性の髪の歴史と地理、身振り、シナリオ、素材、そして映画)に分けられており、それぞれのテーマにあわせて絵画や写真、彫刻、CM、フィルムなどをサンプルが展示され、過去から現在に至るそれぞれの分野の傑作たちがどのように女性の髪を用い、描いてきたのかを知ることができる。最後に「CINEMA」と書かれた赤いネオンが灯る小部屋の中では現代の映画作家6人による髪にまつわる短編が上映されている。髪を切る、切らないという問いに対する少女の回答をめぐるキアロスタミの短編や髪が短くなることによってあるカップルの世界が変わるを映した諏訪敦彦の短編、スカーフに隠されたイスラムの女性の秘密を描いたアブデラマン・シサコの作品等それぞれの映画作家たちの「髪」というモチーフに対する興味深い実践がこの小部屋では上映されていた。

 もちろん、この企画展は領域横断的な部分もあり、必ずしも映画という文脈だけでは捉えられない面もあるが、そのことを差し置いても非常に魅力的なものであり(もちろん領域横断的なアプローチも魅力的なものなのだが)、それが多くの観客の足を展覧会の会場から出口へ向かわせるのではなく、展覧会からこの企画展で取りあげられた作品の上映を待つ列へと向かわせているのではないかなと、違う上映に並びながらふと思うことがあった。もちろん作品の持つ力がそれを促しているのだろうが、その力をどう人に伝えるかという方法論においては、今回の企画展の野心的な試みは成功しているし、今後もこのような企画は続いていくだろう。そしてそれはシネマテークだけでしか行うことができないことでもない。いろいろな所でこうした試みを行うことは可能なことだ。映画の上映環境は悪くなる一方だが、こうした方法を考えて実践していくことは良くない環境を打破するかどうかわからないが、何か新しい風を吹かせてくれるのではないかと期待したい。

ノーマンズランドの住人たち

 こちら、パリでは年末の雪景色とは異なり晴天が日々続いている。もちろん1月中旬にはチュニジアからの移民達によるデモやそれに続くエジプトの話題を新聞各紙は日々取り上げていたするので、外の暖かい空気とは裏腹に何かしらの火種があるように思う。そんな中、1月下旬よりティエリー・ジュスの長編2作目『Je suis un no man’s land』が公開されている。公開日当日の日刊紙リベラシオンの映画欄では映画批評家フィリップ・アズーリ氏による批評があり、彼は監督と同郷のジャック・ドゥミ(両監督はナント出身)の色彩とモーリス・ピアラの『母の死』( 原題は『La Gueule ouverte』)の自然主義的な要素が混ぜ合わされた作品であり、かつフランスの音楽レーベルであるトリカテルレコードのポップスやピエール・エ・ジルのクリップを見ているようだと評している。映画と音楽、これらはティエリー・ジュスの関心の大部分を占め、それが自身の監督作品に必ず反映されているというのは、それまでのフランス人ギタリスト、ノエル・アクショテの一日を撮影した短編『ノエルの一日』から前作の長編第1作『Les Invisibles』までの一連の作品を見れば明瞭だろう。
 物語は主人公であるミュージシャンであるフィリップ(フィリップ・カトリーヌ)は自身が幼年時代を過ごした街でのコンサートを終え(ステージングや衣装はフィリップ・カトリーヌの最近のライブのような一風変わったものになっている)、あるグルーピーの自宅に誘われることから始まる。彼女の自宅から逃げ、真夜中の田舎道を彷徨い彼の両親の住む家にたどり着く。明るい青に塗られた自分の部屋で昔着ていた水色のジャージと丈の短いオレンジのTシャツを着て、緑豊かな田舎道を車やスクーターで走る様子とゆるいリズムのシャンソンの組み合わせがほのぼのとして良いなと思う反面、どこにでもあるPVのような感じで、冒頭に述べたティエリー・ジュスの作品における音楽の扱い方とは何やら違う感じがある。例えば、前作の『Les Invisibles』ではミュージック・コンクレートとフリー・インプロヴィゼーションのインプロヴィゼーションのプロセスがひとつの重要な側面を担っており、彼らの「ある音を探す」行為が物語と対位法的に描かれていたのに対し、この作品ではひとりのポップスのミュージシャンを主役に据えているにもかかわらず、彼の演奏シーンはひとつしか映されない(もちろんこのシーンは『Les Invisibles』の感動的なラストの演奏に匹敵するほど感動的なのだが)。しかし、この作品の物語の構成をポップスの楽曲の構成と置き換えて考えてみると、どうやらティエリー・ジュス作品の重要なテーマである映画と音楽の関係性がこの作品『Je suis un no man’s land』においてもあるのではないかと田舎のバーでのシーンの演出を見ながらふと考えてしまった。このシーンでは、勘定を終えたフィリップが車で走っていて森の方へ差掛かった瞬間、また出発したシーンへと戻ってしまう。このシーンが複数回繰り返される。このシーンの繰り返しを一般的なポップスの曲構成のAメロ→Bメロ→サビの繰り返しのあるパート部分と置き換え、冒頭のコンサートからグルーピーに誘われ、彼女の自宅から両親の家に逃げ込むまでがイントロの部分に、ラストへと向かう一連のシーンをポップスでいうところの転調してからのサビの部分と置き換えて考えてみるとこの作品の構成がポップスの構成と酷似していることに気づくだろう。
 かつて音楽家リュック・フェラーリは自身の作品の一部をla musique anecdotique (逸話的音楽)と呼び、私たちが「あ、あの音だ」と即座に想像可能なもの使用して(あるいは利用して)自身の楽曲を作曲し、ある種の物語を構成していた。ティエリー・ジュスの前作『Les Invisibles』での2人の音楽家の取り組みはフェラーリが死去する直前の活動と類似するものであり(実際、ノエル・アクショテは生前のフェラーリと共演しアルバムを1枚リリースしている)、そのような意味では『Les Invisibles』ある種のフェラーリへのオマージュでもあった。また、ティエリー・ジュス/ノエル・アクショテの映画におけるコラボレーションはフェラーリ(『大いなるリハーサル』シリーズ)、フレッド・フリス(『Step Across the Border』)に続く現代音楽と映画に関する音楽ドキュメンタリーの系譜の中に位置しているものであったが、『コードネイム・サッシャ』から始まるジュス/カトリーヌのコラボレーションはジュス/アクショテとは異なる音楽と映画のコラボレーションであるポップスと映画のコラボレーションの系譜(ミネリ、ドゥミ、スコセッシ、ジャームッシュ)の中に位置している。「映画と音楽」あるいは「音楽と映画」の関係を主題として作品を撮る映画作家は多くいる。しかし、この映画と音楽を仕切る「と」の領域で撮り続けている映画作家はあまりいない。本作のタイトル、『Je suis un no man’s land』が示す日本語でいうところの「私」を示す“Je”は主人公カトリーヌことをもちろん指し示すが、同時に監督であるティエリー・ジュス自身のことも指し示している。彼らのいる地域のことはよく知らないが、フィリップ・アズーリ曰くとても気持ちの良いところらしい。僕もそう思う。

My Funny Valentine

2011年2月15日  

 恥ずかしながら──ぜんぜん恥ずかしいことじゃないけど──初めてミッドタウンに行った。倉俣史朗とソットサスの展覧会を見るためだった。ちょっと楽しみにしていたので、雪が残っている午前中に家を出た。倉俣史朗の名声について論を待たないが、エットーレ・ソットサスについても、個人的な思い入れがある。フィリップ・ド・ブロカの映画に『おかしなおかしな大冒険』(1973)という作品があった。ベルモンド扮する売れない冒険小説家が、小説を書いているうちに自分の作品の登場人物になり、大暴れするおバカな作品。大好きだった。実生活ではモテないんだけど、小説の中ではすごくモテる。共演はすごく綺麗なころのジャックリーン・ビセット。ジーンズをカットオフしたミニスカートが良かった! ベルモンド扮する小説家は、常に机の上のタイプライターを打っている。「なるほど、小説家ってのはタイプライターで小説を書くのか!」(http://www.pariscinema.org/fr/2004/cycles/belmondo.html)20歳のぼくは思った。ぼくもタイプライターが欲しい。カタログを集めた。映画で出てくるタイプライターよりも格好いいものが見つかった。オリヴェッティのカタログだった。機種の名前はヴァレンタイン。名前もいいね。その機種のデザイナーがエットーレ・ソットサスだった。パリに住んでいた頃、論文を書く必要があり、最初に買ったタイプライターは、もちろんオリヴェッティのヴァレンタインだった。

 中目黒から地下鉄に乗り換えて六本木で降り、そのまま地下を通ってもミッドタウンに行けるようだったが、わざと昔の誠志堂があったあたりの地上に出て、交差点を俳優座の方に渡り、左折してミッドタウンに向かった。交差点の三菱銀行はそのままだが、周囲の店舗はすっかり変わっている。かすかな記憶を辿ると、この辺りに、「レオス」という名のユダヤ系のデリカテッセンがあったように思う。ぼくがデリカテッセンという言葉を覚えたのも、その店がきっかけだったような気がするんだけど……。初めてその店を覗いたときは、何も買わなかったけれども、カッテージチーズの入ったサラダや多種多様なソーセージなどがあったのを覚えている。

 初めて六本木に行ったのは高校時代だった。60年代の末期のことだ。高校があった外苑前からバスに乗って日比谷に映画を見に行った。青山1丁目で右折し、六本木の交差点に向かうバス。それから飯倉片町で左折して虎ノ門、新橋を経て日比谷まで通っていた。確か晴海行きだったように思う。六本木の交差点の停留所に止まると、前にはGOTO FLORISTと英語で店名が書かれた花屋があった。もちろん、これは今でも健在な高級な花屋GOTO FLORISTだが、花屋のことをFLOWER SHOPではなくFLORISTというのだと初めて覚えたのが、その屋号を記した英語を見たときだった。つまり、DELICATESSENでもFLORISTでもいいけれども、六本木は、英語の看板ばかりが溢れた街だった。当時の高校生には足を踏み入れることもできなかった気がする。そして六本木を過ぎると、狸穴という奇妙な地名のバス停があり、右に郵政省、左にソ連大使館があった。

 もちろんミッドタウンがあるのは、旧防衛庁の敷地だったし、「レオス」のことは知らなくても、旧防衛庁のことを覚えている人はたくさんいるはずだ。六本木の交差点から青山1丁目方面に向かうと、自衛隊の詰め所みたいなところがあって、大きな門の向こうはオフリミットだった。戦前からこの辺りのことを知っている人は、ここの記憶は完全に陸軍と結びついているだろう。今は新国立美術館になっている旧東大生産技術研究所(糸川英夫氏のロケット開発に関わるページにこの研究所の写真が掲載されている。http://www.isas.jaxa.jp/j/japan_s_history/chapter01/01/index.shtml)だって、旧歩兵第三連隊兵舎だった。東大の生研で働く友人のいたぼくは、ここの駐車場を彼の名前を使って何度も使っていた(六本木の真ん中に無料で駐車できる場所を知っているのは、かなり便利なことだった)し、中庭はテニスコートになっていて、六本木のど真ん中でテニスをしたことも何度もあった。

 この外苑東通りを六本木から青山一丁目方面に向かうと、すぐに左折するグリーンベルトがある道路に出るが、この道が、旧歩兵第三連隊兵舎へのメインストリートだったわけだ。だから短い道のわりに立派な幅を持っている。旧東大生産科学研──つまり、旧歩兵第三連隊──にクルマで行くと、そこから先が突然左折し、細い降りの道になっていることに気がついた。この辺りは龍土町と呼ばれた場所だ。龍土軒という1900年創業のフランス料理店があった。ここに集った柳田國男を中心にした龍土会というグループがあって国木田独歩や島崎藤村などが、文学談義を戦わせた場所だそうだ。今でも龍土軒は存在している。まだ食べたことはないけれど、左折した細い通りは、ぼくらにとって龍土軒のある通りではない。星条旗通りと呼ばれる道だった。敗戦後、当然のように歩兵第三連隊兵舎は、米軍に接収される。ミッドタウンの敷地を合わせた広大な場所にハーディー・バラックスと呼ばれる米陸軍の広大な基地が生まれたのだ。次第にこの基地の土地が返還され始め、東側が防衛庁になり、西側の一部が旧東大生研になったわけだ。だが、星条旗通りの名はそのまま今も続いている。なぜこの通りが、星条旗通りと呼ばれているのか? 簡単なことだ。この通りに星条旗新聞社があるからだ。

 星条旗新聞とはStars and Stripes──星条旗のこと──と呼ばれる米軍機関紙だ。その狭い道路の左側に星条旗を掲げ、鉄条網に囲まれた何の変哲もないモダンなビルの星条旗新聞社はある。その周囲は、今ではちょっと寂れてしまったが、バブル以前は六本木のお忍び場所といった感じで、ちょっと素敵な店が揃っていた時代もあった。ぼくが、高校生時代に見た六本木がまだ保存されているような感じ。六本木に米語が氾濫したのは、ここに基地があったからだ。次第に返還されたとはいえ、星条旗新聞社はずっとあり、さらに、その後方には麻布ヘリコプター基地がまだある(http://home.att.ne.jp/sigma/azabu/jittaitop.html)。米軍基地の問題は、普天間や辺野古ばかりではない。東京23区の港区の問題でもあるわけだ。ぼくらは、高校時代、「Yankee, go home !」と叫びながら何度もデモをして、でも、大学生になると龍土町のヤンキーが集まる店でもちょっと遊ぶという実に矛盾に満ちた生活をしていたことになる。そこからはちょっと離れているが、ロアビル近くには、ジャズスポットの「ミンゴス・ムジコ」があって、安田南が出ると必ず聞きに行ったものだが、ある晩のライヴは、何とアニタ・オデイが出演していた。昔は、こんな小さなスポットにも一流中の一流のミュージシャンが出ていた。確か『Live at Mingos』というアルバムになっていると思う。よく考えてみれば、70年代まで、六本木全体がまだオキュパイド・ジャパンの雰囲気を呼吸していたのかも知れない。

 六本木ヒルズの森美術館(自分のビルの上階にある美術館に自分の苗字を冠するなんてすごく恥ずかしい。自分の苗字を付けるときは、死んでから功績が称えられるときにするものだ。○○メモリアルといった具合に)と、旧東大生研跡地にできた国立新美術館と、ミッドタウンのサントリー美術館を結んで、六本木アートトライアングルと呼ばれているが、その中心には、立派に米軍のヘリコプター基地と星条旗新聞社があることを忘れてはならない。六本木アートトライアングルの三角形の内部には、二二六事件(この事件の中心には歩兵第三連隊がいた)から、米軍が進駐する日本、そして、六本木ヒルズやミッドタウンなどの東京の再開発の問題まで、全部の歴史が詰まっている。

 東京ミッドタウンは、六本木ヒルズよりも高いミッドタウン・タワーがありながら、周囲にも複合的に高層建築が建てられ、タワーそれ自体が自己主張をしていないためか、(もちろん構造的な同じだろうが)それほと威圧感を感じる場ではなかった。森ビルと三井不動産の差異かもしれないし、いろいろなカムフラージュのために、ミッドタウンに動員された隅研吾をはじめとするデザイナーの力が、威圧感を押し隠しているのもしれない。モールを抜けて、倉俣史朗とソットサスの展覧会が行われているミッドタウン・ガーデンを目指す。デザイン的にちょっと素敵な橋が道路をまたぎ、ミッドタウン・ガーデンを含む檜町公園に続いている。昨夜の雪が嘘のように空が広く、そして青い。そこここに残る雪が、ここが東京の中心であることを忘れさせてくれる。

 安藤忠雄設計の21_21 DESIGN SIGHTは悪くない。広場に貼り付くような湾曲する広大な屋根とガラスによる透明な壁。ガラスには残っている雪が反射して眩しい。ゆっくりと公園を横切って21_21 DESIGN SIGHTに近づいていく。人影がほとんどない。入口にたどり着くと「火曜日、休館」の文字が目に入る。また出直すしかない。

映画とはスタイルの問題である限り、モラルの問題だ

2011年2月7日

 

 数日前の新聞の訃報欄に、マリア・シュナイダーが亡くなった記事が載った。死因はガンだったという。もちろんアントニオーニの『さすらいの二人』やリヴェットの『メリー・ゴー・ラウンド』もあるけれども、マリア・シュナイダーと言えば、誰でも思い出すのが、ベルトルッチの『ラスト・タンゴ・イン・パリ』だろう。前回、横浜のクリフサイドに触れ、そのとき『ラスト・タンゴ・イン・パリ』のダンス・ホールと似ていると書いた。マーロン・ブランドとマリア・シュナイダーが、大きなダンス・ホールでタンゴを踊る場面があったからだ。あれはパリのどこでロケされたのだろう。セットだったかも知れない。

 「ねえ。パッシーでアパルトマンを見つけたの。四部屋の」と公衆電話で告げるマリア・シュナイダーは、黄色の超ミニのワンピースに、花飾りの付いた黒い帽子を被っていた。マーロン・ブランドとマリア・シュナイダーが裸体で交合するこのフィルムは、指にバターを塗るマーロン・ブランドの姿がスキャンダラスなものになったが、見る者に印象的なのは、ふたりの裸体よりは、ふたりが身に纏う衣裳だ。一時期、マーロン・ブランドが『ラスト・タンゴ』で着ているラクダ色のコートのような色──といったような表現が多くのシネフィルたちの口に上ったこともあるほどだ。撮影監督ヴィットリオ・ストラーロによる照明と色彩設計が本当に見事だった。(http://www.dailymotion.com/video/xg9dzt_theme-from-last-tango-in-paris-1972_shortfilms

 それはとても不可思議なフィルムだった。たとえばブランドとシュナイダーは、ビルアーケム橋の上で出会い、ふたりはセーヌ左岸からパッシーの方、つまりセーヌ右岸へと渡っていく。シュナイダーは、見つけたアパルトマンの前に立ち止まる。映像をよく見ていると、アパルトマンの壁にはRue Jules Verneと記載されている。不思議だ。ジュール・ヴェルヌ街というのは、パッシー近郊には存在しない。メトロのベルヴィル駅から西にふたつほど行った場所だ。ベルトルッチの昔のフィルムには、この種の地理的な壊乱が多い。『暗殺の森』にも出てくる。クルマがセーヌ川を左岸から右岸の方に渡ると、今、オルセー美術館になっている場所に近付く。これまたセーヌ川を横断するのはビルアーケム橋である。ヌーヴェルヴァーグのフィルムなら、きっちりと地理的な道順が守られるのだが、ベルトルッチのフィルムになると、編集によって、一続きの街路であるはずの場所が、実は10キロ近くも離れた場所であったりもする。これはベルトルッチのヌーヴェルヴァーグに対する態度表明であるかもしれない。

 ベルトルッチのヌーヴェルヴァーグに対する態度表明は、『暗殺の森』や『ラスト・タンゴ・イン・パリ』の地理的な壊乱にばかり現れているわけではない。たとえば『革命前夜』では、そんな態度表明が何度も繰り返される。「20年後にアンナ・カリーナは、現代のルイーズ・ブルックスになるだろう。彼女が時代の象徴になるんだ。それこそ映画の奇跡だね。1946年を象徴するのに『三つ数えろ』のハンフリー・ボガートとローレン・バコールのカップルを越えるものなどないだろう。ぼくは映画を2回続けて見ることがよくあるよ。『めまい』は8回。『イタリア旅行』は15回見た。ぼくは、ヒッチコックやロッセリーニなしでは生きていけないんだ。レネやゴダールは逃避的なフィルムを撮ると言われているが、『女は女である』はデ・サンティスやロージよりも政治的な関わりを持つフィルムなんだ。映画というのはスタイルの問題なんだ。スタイルというのはモラルの問題だ。トラヴェリングはモラルの問題だというね。ニコラス・レイは360度のトラヴェリングを使用した。映画史上最大のモラルの問題、政治的な関わりの瞬間だった。ファブリッツィオ、ロッセリーニがいなければ生きていけないことを忘れるなよ」。(http://www.youtube.com/watch?v=hLw91ylsJrk)ビリヤードの玉が当たる音が、切れ目なく聞こえるカフェで、恋に悩む友人のファブリッツィオ(フランチェスコ・バリッリ)にお構いなく、そうまくし立てるチェーザレ(モランド・モランディーニ)。チェーザレの言葉は、そのまま「カイエ・デュ・シネマ」に集った50年代の若いシネフィルたちのものだ。それは『暗殺の森』や『ラスト・タンゴ・イン・パリ』よりも、もっと直截でもっと素直にヌーヴェルヴァーグの継承を表している。なんか素直で好きだな(もっとも、ぼくらの若者時代そのままで、ちょっと恥ずかしくもあるけど)。

 ところでチェーザレを演じているモランド・モランディーニは俳優ではなく、本物の映画批評家だ。1947年、23歳のときにシネクラブを作り、その後、La Notte紙に映画評を書き続けた。その後、いくつものフェスティヴァルのディレクターを務め、何冊も映画辞典を刊行している。『ジョン・ヒューストン』、『エルマンノ・オルミ』といったモノグラフィーも書いている。御年86歳。未だに現役の批評家である。

 『革命前夜』は本当に若々しい映画だった。もちろん黒沢清の立教大学時代の伝説的な作品『逃走前夜』というタイトルは『革命前夜』のパスティッシュだろう。蓮實重彦の『映画崩壊前夜』だって、『革命前夜』というタイトルがなければ存在しなかったろう。それに原題のPrima della rivoluzioneプリマ・デッラ・リヴォルツィオーネという音もとても素敵だ。記憶に残るのはモランド・モランディーニばかりではない。このフィルムのヒロインを演じたアドリアナ・アスティは、ベルトルッチと一時結婚していたこともあったはずだ。イタリアの劇場のゆっくり落ちていく照明。ベッドの上で、両足を露呈させて座るアドリアナ・アスティ。もちろん、そこにある青春と映画の物語も感動的ではあったが、それ以上に、「映画というのはスタイルの問題だ。スタイルの問題である限りモラルの問題だ」というモランド・モランディーニの発言がそのまま映画になったような作品だった。

 でも『革命前夜』とはいったい何の前夜なんだ? 「革命」なんてやってこない。オリヴィエ・アサイヤスが、伝説的な革命家カルロスの生涯を追った長大な作品『カルロス』を見ていると、カルロスもまた決して革命を生きたわけではなく、その前夜を、ずっと継続する革命前夜を生き続けただけのように思える。来るべき革命を信じ、その前夜を華々しく生きているうちに、革命などどこかに雲散霧消してしまう。革命という祭がやってくることなど決してなく、知らぬうちに革命への渇望が終息し、革命の後にやって来るはずの白けきった平坦な時間の中で、生きる術を失ったカルロスがいる。きっと『革命前夜』を信じていたベルトルッチも、『暗殺の森』、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』、『ラスト・エンペラー』と革命を待ち続け、『シャルタリング・スカイ』でポール・ボウルズにYou are lostと言われてから、カルロスと同じように、革命後の時間を生きるしか術がなかったように見える。結局『ドリーマーズ』のように、革命をノスタルジックに語るしか方法がなくなってしまったようだ。

 マリア・シュナイダーは、「あの映画に出演しなければよかった」と、数年前のインタヴューで語っていたそうだ。あの映画のスキャンダルがその後の彼女のキャリアに大きな傷を負わせたことはまちがいない。『愛のコリーだ』に出演した松田英子も同じだろう。でも、『愛のコリーダ』にせよ、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』にせよ、「革命前夜」を生きたフィルムは、今でも輝いている。

 

もう「占領下」ではなくなった

2011125

 

 赤木圭一郎主演の『霧笛が俺を呼んでいる』(山崎徳太郎、1960年)の冒頭にも登場したことで、ある種の横浜を明瞭に伝えているバンド・ホテルが閉館して10年以上経った。学生たちと横浜の「国際ホテル」について調べている。ホテル・ニューグランド、シルク・ホテル、そしてバンド・ホテルが大桟橋近くの「国際ホテル」に当たるだろう。豪華客船が大桟橋に到着すると、乗客たちは、それら3軒のホテルの客になったという。渡辺仁設計のニューグランドは健在だが、坂倉準三設計のシルク・ホテルは、ホテルとしての営業を休止してかなりたち、バンド・ホテルは取り壊されてドンキホーテになっている。その3軒のホテルについて学生たちと調べてみると、そのうち2軒がなくなったのは、他の理由もいろいろあるものの、横浜が国際貿易港としての役割を終え、港周辺に「国際ホテル」など必要なくなったことがもっとも大きな原因だ。ホテルよりも客を呼べるのはドンキだ。唯一営業を続ける「国際ホテル」であるニューグランドにしても、学生たちが関係者にインタヴューしてみると、外国人の客などもうほとんど来ないのだ、という。「国際色豊かな横浜」なんてもう存在しない。ちょっと残念だけど……。

 バンド・ホテルについて調べてきた学生が、横浜ローカルのケーブルテレビ局から、ある番組が収められたDVDを借りてきた。「横浜ミストリー」という番組だ。「ミステリー」じゃなくて「ミストリー」なのが、古い横浜っぽい。赤木圭一郎や石原裕次郎による「日活無国籍アクション」のほとんどの舞台が横浜だった。ナヴィゲーターの女性と、老紳士が港の見えるレストランで、赤ワインで乾杯している。そこへウェイトレスがスープを持ってやって来る。今回の「ミストリー」は「ハマジル」(「浜汁」?)というわけ。ぼくの年代なら、「ハマジル」は「横浜ジルバ」であることなど知っている。老紳士の案内で、「ハマジル」の謎が次第に解き明かされるというのが番組。しばらくして、この老紳士の名前がテロップで出る。ウィリー沖山さん。ウィリー沖山さんは、日本のヨーデルの第一人者(http://www.youtube.com/watch?v=lt09kSqY0cI)にして、ジャズ・ヴォーカリスト。ヨーデルとジャズを一緒にやっているってどういうことだろう。スイスでもなく横浜でヨーデル唄うってどういうことなのか?さすがに「無国籍アクション」の街、ヨコハマだ。このウィリー沖山さん、ウィリーというファーストネイムがあるのだから、アメリカ人の二世なのかというとれっきとしたジャパニーズ。Wikipediaによれば、1933年、横浜生まれとあるから御年77歳。

 この年齢の芸能界の人々は、なぜ英米系のファーストネイムを持っている人が多いのだろう。ディック・ミネ、フランキー堺、バッキー白片、フランク永井、ケーシー高峰(ちょっと毛色が違うけど)、ロミ山田……ある時代、このようにファーストネイムがカタカナの人がとても多かった。もちろん、今でもいるけどね。テリー伊藤、滝川クリステル、葉山エレーヌ、ビビる大木、デイブ・スペクター(笑)……。本名の人を除くとだいたい芸人だよね(テリーさんは芸人じゃないんだろうけど)。だから、昔に比べれば、カタカナのファーストネイムはずっと少ないと思う。フランク永井だってロミ山田(けっこう好きでした)だって、どう見ても日本人だよ。ケーシー高峰を除くと、共通点はジャズを歌っていたということだ。それも「進駐軍のキャンプ廻り」っていうパターンが多いね。いかにも「オキュパイド・ジャパン」という感じ。この同じ時代をジャズやカントリーに生きた小坂一也に『メイド・イン・オキュパイド・ジャパン』(河出書房新社)という名著があった。つまり進駐軍のキャンプだとロミ山田でもフランク永井でもなく、Romy YamadaだったりFrank Nagaiだったりする。弘田三枝子や伊東ゆかりもキャンプ巡りをしていたというが、May HirotaとかYuka Itoでなかったのはなぜだろう?

 このウィリー沖山さん、長いことバンド・ホテルの最上階にあったシェル・ルームの支配人をなさっていたという。シェル・ルームというのはナイトクラブだ。ブルーのネオンサインが光っていたという。いしだあゆみの「ブルーライト・ヨコハマ」のブルーはシェル・ルームのブルーだと言われている。五木ひろしの「横浜たそがれ」も淡谷のり子の「別れのブルース」もバンド・ホテルで生まれたと言われている。ナイト・クラブというのは、大人の男の人と女性が音楽やお酒をバックに踊ることですね。でも、だいたいジャズが背景だから、ビッグ・バンドを従えて、さっきのカタカナのファーストネイムを持っている歌手が出演することになっていた。そういえば、横浜には、ブルー・スカイとかナイト&デイといったナイトクラブもあって、ナイト&デイからは青江美奈がデビューしたんじゃないかな。つまり、シェル・ルームっていうのは、往年の大人たちの遊び場。東京からタクシーでやってくる人もいたらしい。なんか矢作俊彦の世界だね。

 この「横浜ミストリー」には、このシェル・ルームの貴重なライブの映像が含まれている。映像提供はTVK神奈川テレビ。あそこなら持っているでしょうね。1984年の映像だ。バンド・ホテルに入っていくウィリー沖山さん。ブルーのネオンサインで光るサイン。自動ドアが開く。最上階へ上がると、そこはシェル・ルーム。タキシード姿のウィリーさん。今宵のゲストは? な、な、なんとトニー谷!ピンクの襟にスパンコールがきらきら光る白いタキシードですよ!短めでテカテカのオールバックに黒縁のロイド眼鏡。そして、もちろん左手にはソロバン!唄うは「ベッサメムーチョ」。これホントすごいです。こういうものを文字で描写できないぼくの力のなさに無力感がつのります。ビッグバンドをバックに、ごく普通にトニー谷流に「ベッサメムーチョ」を唄うだけなんですが、ソロバンの音がまるでマラカスみたいなんだな。

 ご多分に漏れずこの大谷正太郎ことトニー谷も立派にファーストネイムがカタカナ。日劇ミュージックホールで働いていたころ、外人客に「おおたに」の「たに」を「タニー」と呼ばれ、それが「トニー」になったらしい。彼の芸については小林信彦が『日本の喜劇人』で分析し、村松友視は長大な評伝『トニー谷、ざんす』を書いている。トニーグリッシュという得意で特異な言語を操りながら人々を笑いに巻き込んだ。小林信彦は、初期のタモリとトニー谷のと同質性を語っているが、ユーチューブでトニー谷が登場した「今夜は最高」を見ると(http://www.youtube.com/watch?v=WZ2TtAjjmTk)小林説の正しさが証明される。本当に「オキュパイド・ジャパン」の象徴のような芸人だ。

 「ハマジル」に戻ろう。ウィリー沖山さんが次に訪れるのは、横浜に唯一残るダンスホールの「クリフサイド」。まるで『ラスト・タンゴ・イン・パリ』のような空間だ。周囲をキャットウォークがめぐるホールに、ビッグバンドとダンスをする人々。貴重と言えば貴重な空間だが、ここでも、まだ驚くことがある。ダンスを踊っている人々の平均年齢は70歳くらいではないか。そして「ハマジル」を踊れる人がいると最後にウィリー沖山が訪れる野毛のダンス練習場。そこで「ハマジル」を指導するのも老人だ。

 ちょっと哀しくなってしまう。「ハマジル」を元気に踊る老人がいて、老後の健康法を学んでいるわけではない。もうかつてヨコハマにあったものは、無形文化財のようなものになってしまった。時代が変わったのだとしか言いようがない。皆、歳を取って、かつてあったものが弱々しく残っているだけだ。元気な何かにリニューアルされていない。バンド・ホテルの昔が、ドンキホーテの現在に変わってしまったとしても、悲しむことはないのかもしれない。バンド・ホテルが元気がなくなって、ドンキはすごく元気だ。バンド・ホテルの扉は閉じられるべくして閉じられたのだ。ぼくが、最後にバンド・ホテルを見たのは前世紀の1996年のことだった。中華街で食事を済ませ、散歩しているとバンド・ホテルが目に留まった。ウィリー沖山さんが通った自動ドアをくぐって中に入ると、薄暗いホールの奥にフロントがあった。老人がひとりフロントにいた。パンフレットをいただけませんか? パンフレットね、どこかにあったな。老ホテルマンは引き出しの中からホコリだらけのパンフレットを見つけ出した。フウーッと息を吹いてホコリを払って、それがぼくの手に渡された。もうすっかり元気をなくしていたバンド・ホテルだった。

 

2010 (4) オーサカ=モノレール Live Report 02

04.12.2010  Montpellier, FRANCE "Le Jam"  

 モンペリエの中心地から離れた住宅地の中心にひっそりとたたずむ、ライヴハウスというよりはまるでどこかの秘密結社の集会所のようなライヴハウス"Le Jam"。会場までの道のりがあまりに閑散としていたこともあってどことなく異様な雰囲気を受けてしまう。けれども、客入りが始まると会場内は超満員となり、その雰囲気も最初の印象とはまるで違うものとなった。人々の年齢層もどうも昨日より高めで、子供連れの家族の姿もチラホラと見かける。オーサカ=モノレールはここ数年の海外ツアーで毎回この場所を訪れていて、ここはいまや馴染みの場所のひとつなのだという。いかにもライヴハウス然とした佇まいだったマルセイユの会場と比べ、ステージの目の前に備え付けの座席までもあるこの会場は、どうも周囲に貼られたポスターを見ると比較的ジャズなどのコンサートが多く開かれる場所のようだった。エントランス近くに大きく貼られたMAGMAのポスターがひときわ目立つ。

 

 この日はステージを中心に観客のスペースが180度に広がった会場の造りもあいまって、昨日のライヴよりも視覚性を十分に味わうことができたように思う。もちろんフロントマンの中田氏の挙動には相変わらず強く目を奪われるも、それに加えてオーサカ=モノレールというバンド単位での視覚的な側面に強く魅せられる。太いリズムに乗せて交わされるメンバー間のコミカルなアクション−リアクションが会場を強く煽り立て、楽曲それ自体のグルーヴをさらに高めていくのが手に取るようにわかる。

 オーサカ=モノレールを見て強く感動したのは、客席の誰もが踊っているというただそれだけのことではない。誰もが、「誰かと」踊っているということだ。ひとりで音楽を占有するのではなく、「みんなの音楽」を実現していること、それが感動的なのだ。時折、中田氏がマイクを離れキーボードでノイジーなフレーズを紡ぎ、バンド全体がヘヴィなグルーヴへと没入する。そんな場面では、多人数構成のバンドでなければ生み出し得ない緊張感がまったく別種の空間を生成していて、客席のダンスにも新たな波を生み出していた。緩急のついた音の振動の中で、誰もが思い思いに身体を揺らせつつ、隣に並ぶ人々と笑い合い、肩を叩く。そんな光景を何度も目にした。ここに載せるための写真を小さなデジカメを高く掲げて撮影していると、隣に並んだガタイのいい兄チャンに「何やってんだ、写真なんか撮ってないでステージを楽しめよ!」と笑いながら怒られてしまった。まったくである。





 ライヴ本編が終了し、人々がアンコールを呼びかける最中、唐突にいい感じに酔っぱらったオッサンに声をかけられた。猛烈に酒臭いが、すごく気はいい人で、ご自身もバンドでベースを弾いているとのことだった。「あんた日本人か? 俺はこいつらが来るたびに見に来てる、もう5回目だ。最初はぎこちないところもあったけど、見るたびに凄くなってる、ドラムが俺のお気に入りなんだ!」。ニコニコしながらまくしたてるオッサンに拙いフランス語でしばらく会話を返していると、近くにいた数人の地元の若い観客も話しかけてくる。「日本人? じゃあ電話でもしてオーサカに早くステージに出てくるように言ってくれよ!」なんて、無茶な冗談を言う。

 フロントマンの中田氏はインタヴューの中でオーサカ=モノレールの活動についてこんな風に述べていたことがある。

「僕は、旅芸人がやりたいんです」 (http://bmr.jp/topix/detail/0000000074_01.html)

 マーケットの論理を超えて、ある種の方法が確立した世界に安住するのではなく、常に移動し続ける運動体として音楽を続けること。つねにすべての場所を同じものとして生きること。別記事にて掲載のインタヴューをさせていただいたギタリストの池田氏は、オーサカ=モノレールでの海外での活動についてこんな風に語ってくれている。

「日本での閉塞感は感じますけど、でも世界に出たところで、それが解き放たれるっていうものではないと僕は思っています。オーサカ=モノレールっていうバンドの音楽的ジャンルはどこの世界に行ってもアンダーグラウンドシーンなので、どこの国で演奏しても、アンダーグラウンドシーンで僕らは活動しているっていう気持ちはあまり変わらないかもしれません」

 たぶん、この感覚というのはどのようなことにおいても通じる姿勢のはずだ。ある種のドメスティックな空間に対する閉塞感も、まったくの外部の場所での非日常感も、あくまで無意識に構築されたフィクションでしかないのだ。問題はそれを打ち破ることではなく、ただそれに直面することであり、そしてそれを同じものとして受け止めることにあるのではないか。

 もちろんそれはおそらくとても困難なことなのだろう。しかし、この日のオーサカ=モノレールのライヴは、自身たちの出自とはまったく別の場所に生み出されたもうひとつの「HOME」をそこに生み出すことを体現し、力強い響きを持って揺れていた。

オーサカ=モノレール公式WEB