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October 31, 2003

《再録》A letter made up of three woods with no names
衣笠真二郎

[ cinema ]

(2003年10月31日発行「nobody issue10」所収、p.28-31)

nobody10_表1.jpeg 海が始まりだった。カメラが陸の上空を駆け、その果てを突き抜けたときそれはフィルムの名を告げた。文字のほかは海の青さだけのフィルムは、ふっと途切れ、また別の陸の上を斜めに飛び越していく。陸と海は交互に画面を満たし、入り組んだ半島群の上空をカメラが駆け抜けていることを知らせる。
 海はまたしばらくしてから現れた。冷たくなり始めた海風が砂丘をつくる海岸で、少女は服を着たまま波へ向かって歩み出し、半身を海水に浸した。それを正面からとらえるカメラは海の上にあった。
 境界線を踏み越える移動がある。『Helpless』の冒頭は海と陸を分けるひと筋の黒い実線を強くフィルムに映し込んだ。『EUREKA』では少女が波打ち際をゆっくり横切る歩みをカメラは追いつづけた。溶け合うことのないふたつの領域の断絶を見る視線と、未知の領域に身を晒してゆく存在を見る視線があった。その後も何度か海岸線をフィルムに見ただろう。だが、あの自然そのものがつくり出した深淵のような海岸線は『Helpless』以来見ていないように思う。『路地へ 中上健次が残したフィルム』(以下『路地へ』)の旅人は海岸を歩き、そして小舟に乗り込んだ。海の上を揺れる映像から中上健次のテクストを朗読する声が聞こえた。

「どこにもない森」
『私立探偵 濱マイク 名前のない森』の主人公は森へ行く。これといった名前のない、木々の大量な集まりとしての森である。濱マイクはその森に囲まれた施設で大半の時間を過ごすが、結局その森のなかへ踏み入っていくことになる。主人公たちが最後に迷い込んでしまう森は、もちろん『SHADY GROVE』のなかにもあった。だがそれは「どこにもない森」であった。
 甲野と理花の妄想的なラヴストーリーのなかで、「森」はすでに10数年前に切り開かれいまはもう新興住宅地になっている。かつてそこにあった「森」の姿は1枚の写真のなかにしか残っていない。それに手をさしのべても紙焼きの平面に突き当たるだけで、「森」を直に触れることはできない。映されたその姿を眺めることしかできないのだ。決して到達できない場所、「どこにもない森」こそがこのフィルムの終わりを告げる。妄想をふくらませ一方的な自分を語りつづけた彼らの世界からはかけ離れた、文字どおり澄みきった「森」で甲野と理花は再会し互いの手を差しのべる。そして相手を受け入れる。だがこれは夢のように不可能な出来事だ。
 フィルムの冒頭、理花が失恋しようとするときナレーションの声はこう告げた。「始まりにおいて終わり、終わりにおいて始まる」。つまり男女がつながり合っている時閻はこのフィルムに存在していないということだ。延々とフィルムに映っていたのは、分断された片方と他方であったのだ。ただ隣り合うだけで、溶け合うこともつながり合うこともあり得ない二者は、機械装置(携帯電話やディジカム、フィルム)の助けを借りてようやくつなぎとめられているにすぎない。ふたりの会話は過剰な独白であり、語り散らした言葉は誰のもとにも届かない。
 分断された二者の間には何も見えない。ただ分断された切断面を一瞬感じることができる。もし名付けるならば、それは「不安」である。あなたはもしかするとすでに死んでしまった双子の妹かもしれないと、甲野は理花の顔も見すに語った。残された空洞、私かもしれなかった他者とともに生きていくこと、当然引き受けなければならない世界がそこにある。しかもその世界さえもここでは可能世界である(甲野が書いた辞表の末尾には「昭和74年」とある。この映画が制作される10年前に終わっていたはずの「昭和」が、いまだにこのふたりの日常世界でありつづけている)。そこまで厳しく不安な世界を知らぬほうが幸せだった、という人もいるかもしれない。しかしその不安という相棒を失ってしまえば世界は終わってしまう、と老いた警備員は言っていた。つながり合うことが不可能であったとしても、暗くて見えない断絶とともに生きつづけること。
 フィルムの上でふたりは森にたどり着いたが、それは同時にあまりに暗くて見えない深淵がフィルムのなかに侵入してくる瞬問でもあったのだ。つながり合っていない断片、ひびの入ったフィルムを、登場人物たちの声がさらに分裂させる。甲野と理花の過剰な独白が飛び交う前から、ナレーションは語り始める。その声は理花が雇うことになる探偵のもので、このときはまだフィルムに登場していない。では最終的な回想による語りかといえば、それとも違う。甲野と理花の想像のなかにしかない「どこにもない森」についてまでナレーションは語り出すからである。自分が主人公の探偵小説を書く探偵のように、語り手がフィクションの内外を行き来する。そこから垣間見える、甲野と理花の世界とナレーション=語りとのずれがまたひとつの分断線を引き、見えない溝を気付かせる。見方を変えれば、つながらない二者の間にある断絶は、その音を独白やナレーションから聞きとるものであったのかもしれない。

「見えない森」
 『SHADY GROVE』と『名前のない森』との間にはもうひとつの森があった。しかもそれは一度も映像として現れない「見えない森」である。『すでに老いた彼女のすべてについては語らぬために』(以下『すでに老いた』)はその「見えない森」へじりじりと迫っていく。
 苛立たしげに自分に語りかけるような声で中野重治の『五勺の酒』が朗読される。「......メーデーは五十万人招集した。食糧メーデーは二十五万人招集した。憲法は、天皇、皇后、総理大臣、警察、学校、鳩まで動員してやっと十万人かき集めて一分で忘れた」。その広場へ向かってカメラを乗せた車は高速道路を走る。高架から「森」が見えればその付近に広場があるはすだが、車は一向に目的地に到着しない。カメラは止まることなく前進するだけだ。その軌跡が「見えない森」を縁取って中心に空虚な空間を描くかもしれない。だがその穴を覗き込もうとするベクトルはテクストのなかにのみ存在する。映像は周囲の縁を彷徨いつづけるばかりだ。
 まさしく「カオスの縁」とサブタイトルの付いた『June 12 1998』には、『すでに老いた』と酷似したショットが存在する。それは湖だったろうか、つきだした突堤の壁にびちゃびちゃと何度も打ち寄せる波の映像が、クリス・カトラーのインタヴューやモノローグの間にはさまれる。それとほとんど同じ波が『すでに老いた」では岸につながれたボートに打ち寄せている。それは「森」の縁(淵)を満たしている波に違いない。
 予測不可能なカオスの縁にとどまりつづけたカメラは、テクスト(楽譜)から離れて音が生成する現場を見た。『路地へ』は結局テクストのなかにしか存在しないものを発見する旅であったが、『すでに老いた」はテクストからもこぼれ落ちてしまう「見えない森」の縁をカメラに滑走させ、見えないものを見えないものとして浮き彫りにする。テクストは変わろうとも延々と「森」の周りを旋回し、言葉が途絶えることはない。いくら語っても語り尽くせぬ言葉の最後に添えられるのは、「この項続く」だ。
 ここにおいてナレーションは独白ではない。過剰な言葉であることはいたって変わらないが、テクストを読み上げる朗読の声は切断や空虚を気付かせるだけでなく、独立した言葉の存在そのものをフィルムに充満させ始めている。それはストーリーの語りではない。登場人物を表象する台詞でもない。ジャン=マリー・ストローブはその論考の中で、カール・ドライヤーの言葉をこのようにパラフレーズした。

「各々の主題は、あるヴォワヴォワ?)を示すことになる。このことに注意しなければならない。そしてできる限り多くのヴォワヴォワ?)を示す可能性を見つけださなければならない。ひとつの定まった形態や様式に制限してしまうのは非常に危険なことだ......。私は次のようなことを真に試みてきた。つまり、たった1本のフィルムにのみ、そして「この」環境、「この」動き、「この」登場人物、「この」主題にのみ有効であるスタイルを見つけだすことである」
(「カール・ドライヤーについて」ジャン=マリー・ストローブ 坂本安美訳「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」No.22)

「名前のない森」
 『焼跡のイエス』の冒頭、青年はいま戦闘機から降り立ったかのような衣服に身を包み、茶色く霞んでいる都市一帯を見渡した。そのあと彼がテクストを読み上げて語るのは戦後直後についてだが、冒頭と最後に広がる風景は間渥いなく戦時下にある都市の風景だ。
 戦争の技術と経済性からみて総力戦は過去のものだ。爆撃は都市の一郭を急襲するものとなった。そのパースペクティヴにおいては固有名が大々的に排除される。地上の人々を砂粒ほどにしか見ない爆撃機からの視線に支えられるようにして、普通名詞は数量として認識される。その点において人間を人間として見る認識は端的に「ヒューマニズム」の部類に属すると言えるだろう。
 ということは、都市に住む人々はそこに個人として生きながら、普通名詞のなかに埋め込まれてしまう危険につきまとわれていることになる。もっとも都市の空間で固々の人間を名指せないわけではない。急に襲来する爆撃機あるいはミサイルから「お前たちを名指さない」とひと言告げられ、破壊され焼かれるにすぎないのである。戦時下の世界にあって、すべての都市はこの危険に緊張する。
 森は、都市から離れた場所にある。その地形は測塁し尽くされていて、きわめてゆっくりとした速度でしか領域を広げない。森は明瞭な輪郭を持って外部を画しているはずだ。濱マイクはすぐにでもその外へ逃げ帰れると高を括っていた。そこに踏み入れば足跡も残るし、迷ってしまっても歩きつづければいつか道路に出るだろう。しかし彼は簡単に森の中に埋没してしまう。名前が禁じられた森である。この森にはまったく謎がない。なぜなら森の外側でも同様にして固有名が奪われるから。ティエリー・ジュスは『EUREKA』を論じた文章でこのように述べている。

「登場人物たちの目の前には、そこに住まうことを義務づけられた広大な砂漠がある。彼らは、その砂漠の中で内部と外部を区別することなどない。内部が外部を覆いつくしているか、外部が内部を覆いつくしているからだ。つまり彼ら自身が砂漠であり、砂漠は彼らの中にある」
(「青山真治と以後の映画」ティエリー・ジュス 梅本洋一訳「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」No.31)

 内と外を隔てていた境界線は至るところにひび割れを波及させ、微細な砂粒になるまで粉々にした。固有名を奪われ、人々が一瞬にして消え去ってしまう世界を前にして、ただ笑うしかないのだろうか。だがその笑いも声であることに変わりはない。声や叫びは名付けの始まりだ。原初的な最小のテクストがそこにある。なんとなればそれさえもいとも簡単にかき消されてしまうだろうが、まず声を発すること、そして言葉を語りつづけること。戦時下にあるこの世界で、そうして固有名の遺棄から抵抗すること。
 では映画においていかに言葉を発するべきか。ドライヤーのように、個々のフィルムそれぞれにもっとも合致したスタイル、それぞれのヴォワ=ヴォワを青山真治のフィルムは選ぶ。つまり映画において可能なかぎり「何でもあり」なのだ。